171LAP

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勉強より運転の僕らがいまさら…汗

2016.5.10

「ニュルには特有のルールがある」

 井口卓人が想定問題集に向かって頭を抱えている姿は滑稽である。赤や青のペンをぺろぺろと舐めながら、頭をポリポリと掻くタクティを見るとは夢にも思わなかった。
「明日試験なんっすよ。100点満点じゃなければ、レースに参加できないそうです。ヤバいなぁ、ヤバいなぁ…」
 VLNニュルブルクリンク6時間レース前日、いつもの石焼きレストランではしゃぐ僕らの中でただ一人彼は黙々と練習問題に取り組んでいた。

 彼をそれほどまでに緊張させたのは、レースでもなければ契約話でもない。ニュルライセンス取得のための抜き打ち試験に怯えていたのだ。
 ニュルライセンス取得は、高い壁がある。国際ライセンスを所持していればレースができるわけではなく、ニュルブルクリンクだけに特化したライセンスの取得が求められるのだ。ニュルブルクリンクのグレードAという物々しいライセンスの取得が義務づけられている。
 走行実績も必要だ。例年24時間を戦ってきたドライバーは優遇されているとはいえ、過去1年以内のニュルブルクリンクのレースで、完走が3回。それもトップの周回数の75%を満たさなければならない。つまり、VLN4時間レースやQFレースに参戦し、それなりの実績が確認されなければエントリーすら受け付けてくれないのだ。
 さらに、井口が苦戦したような筆記試験がある。これがまた難解なのだ。
 レーシングドライバーとして最低限の常識は持ちあわせているつもりだ。ポストで振られるフラッグの意味だとか、フライングの対応やペースカーオペレーション中の振る舞いなどだったら、いまさら学ばなくても合格できる。それを知らずにレースをするドライバーなどいやしない。だけどこの問題はさらに深い。ニュルには特有のルールがある。アクシデントのあるコーナーでは速度が60km/hに制限される。それを「コード60」と呼ぶ。さらには120km/hに制限されることもある。しかもアクシデントが重なった場合には、コード60と120km/hが組み合わされる。僕らドライバーは臨機応変な対応が求められるのだ。それを学ぶのがまず最初の難関だ。
 しかも講習を受ければいいのではなく、筆記試験がある。たとえば、コース上で抜かれるドライバーは後続車に対してウインカーによって進路を意思表示しなければならないのだが、「ではそのタイミングは?」「正しい走行ラインは?」 厳格に決められているのだ。全ドライバーが共通認識を持つための、試験なのである。

 それは車載カメラの映像をみせられて答えなければならないこともある。
 その映像の中では、BMWが左にウインカーを点滅させながら、右側をかい空けている。正しいドライビングだ。そこにポルシェが迫ってくる。空いた右側から抜きにかかった。さてそこで問題。「このポルシェのドライバーは、右側から抜くべきか、次のコーナーまで待つべきか…?」といった出題がされるのである。
 答えは…?
 これが実は難題である。そのシーンはどちらも正しい行動をしているのだが、待つべきか行くべきかといわれれば、その瞬間の微妙な雰囲気によって答えが変わる。右側に入れなくもない。だけど、次まで待ったほうが安全だ。さてどっち? 自信を持って解答できないのである。

 しかも、出題はすべて英語だ。筆記形式ではなく、四択だったり五択だったりするのが救いだが、細かいニュアンスまでは判断できない。しかもちょっと意地悪に「ポルシェは安全に抜けると認識していたのか否か?」などと出題されるのだ。そんなことは、ドライバーに聞いてくれって話である。英語でそこまで深く汲み取るには、高度な語学力が必要なのである。

事前にオンラインで行われた試験。僕の解答用紙だ。

事前にオンラインで行われた試験。僕の解答用紙だ。

動画も組み合わせられ、細かいタイミングなども試される。

動画も組み合わせられ、細かいタイミングなども試される。

フラッグの意味くらいならばなんとかなるんだけど…。

フラッグの意味くらいならばなんとかなるんだけど…。

ドライバーズブリーフィングでさらに再確認される。

ドライバーズブリーフィングでさらに再確認される。

「安全性を高めるための措置」

 ここまで安全にうるさくなったのは、昨年の観客を巻き込む事故が引き金になったことは言うまでもない。いくら自己責任の国だとはいえ、死亡事故は後味が悪い。安全性を高めるための措置である。
 さらにいえば、ある部分では自己責任を大義名分にユルユルなのがドイツの国民性なのに、一旦やると決めたら厳格に施行するのもドイツ人の国民性なのだ。

 ちなみにこの試験は、ニュルブルクリンクに出場するすべてのドライバーに化せられる。僕らは全員が合格していた。だと言うのにさらに、レース日に抜き打ちで指名される。井口は不幸なことにビンゴだったのである。次は我が身かと、僕らは戦々恐々としている。
 運転ならば自信があるけれど、机に向かうのは苦手なのがドライバーである。
「ムリムリ、勉強が嫌いだからレーサーになったんだよ」
 そう叫ぶとあるベテランドライバーは、いまから投げやりだ!
 さて次のニュルブルクリンク遠征は24時間本番である。その前日に、抜き打ち試験にビンゴのドライバーは?
「全日本チャンピオンを何度も獲ってきたんだよ。ル・マン24時間でも表彰台に上がっているんだよ。それでも試験させるのか?(怒) もし俺があたったら、レースでないし…」
 勉強嫌いの影◯正彦ドライバーは、いまからムカついている!
 レースより難しい難関が待ち受けているのだ。

ローカルルールは小冊子にまとめられる。通常はA4ペラ一枚なのに…。

ローカルルールは小冊子にまとめられる。通常はA4ペラ一枚なのに…。

写真入り。ニュルには各国からドライバーが集まってくるから、共通認識が欠かせない。

写真入り。ニュルには各国からドライバーが集まってくるから、共通認識が欠かせない。

ちょっとした認識の違いが大事故を生む。危険なニュルだからなおさら徹底される。

ちょっとした認識の違いが大事故を生む。危険なニュルだからなおさら徹底される。

ピットモニターにも、事故現場が逐一表示される。それがドライバーに伝えられ、事故を未然に防ぐシステムなのだ。

ピットモニターにも、事故現場が逐一表示される。それがドライバーに伝えられ、事故を未然に防ぐシステムなのだ。

モニターの精度は高い。コード60は最高速度60km/h。

モニターの精度は高い。コード60は最高速度60km/h。

キノシタの近況

キノシタの近況

 ニュルブルクリンク24時間に先立ち、TOYOTA GAZOO Racingマリンスポーツチームがひとときのリフレッシュを敢行。本来はトヨタマリンの撮影の仕事なのだが、大いに羽を伸ばす結果になった。マリンジェットも TOYOTA GAZOO Racing仕様にカラーリングされ、大海原を全開でカッ飛んだ。陸でも海でも、ついつい競争が始まってしまうのだ。

木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー

 1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」
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