レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

186LAP

186LAP

「蘇ったレースの本質」

2016.12.27

「富士も熱気に包まれていた」

 世の中はすっかりクリスマスシーズンである。街中ではジングルベルが鳴り響き、おびただしい数のツリーや電飾が眩いばかりだ。そんな12月のある週末に僕は、都会を離れて富士スピードウェイに向かった。年に一度の日産モータースポーツの祭典、NISMO FESTIVAL at FUJI SPEEDWAYを見学するためである。
 雪を被った富士山の頂から稜線をつたい降りてくる冷気がサーキットを包み込んでいた。それでも、鼻腔をつく空気は爽やかだった。空は青く抜けるように澄んでいた。

 たしか自動車メーカーが主催する、いわばファン感謝祭と言えるフェスティバルを最初に開催したのは日産だったと思う。当時僕はNISMOの契約ドライバーだったこともあって、数々のコンテンツに出演し、応援してくださる皆様との触れ合いを楽しんだものだ。最近のお誘いがなく寂しい限りだが、久しぶりに訪れた「ニスフェス」は、歴代のマシンが集っており、懐かしくも興奮を誘うものだったのである。

木下コラム186LAPイメージ写真

「感動するために…」

 わざわざ富士スピードウェイまで出かけて行った理由は、二つあった。
 ひとつは、イベント企画の学習のためである。我々トヨタは、その2週間前にTGRF<TOYOTA GAZOO Racing FESTIVAL>を、やはり同じ富士スピードウェイで開催しており、そこでの反省等の意見を求められていた。概ね多くの来場者に喜んでもらっていたけれど反省はある。反省して改善するのが我々のスタイルでもあるのだから、次回により高みを目指すためにも、老舗NISMO FESTIVALで学ばせてもらおうという魂胆である。
「あれ、スパイ活動ですか(笑)」
「いやいや、勉強のためだよ」
「TGRFは今日じゃありませんよ(笑)」
 僕がそこにいるのがよほど不自然なのか、多くの関係者にいじられどおしだった。もはや僕はトヨタのドライバーなのだ。

 もうひとつの理由は、「HISTORIC CAR EXHIBITION RACE」を観戦するためである。
 このレースはその名の通り、かつてサーキットを駆け回った歴史的なレーシングカーが集まり走行するものだ。1970年から1980年代初頭までサーキットを賑わしたマイナーツーリングレース(TS)の再現である。カリカリにチューニングされたB310サニーが大勢を占めており、この日のためにビカビカに磨かれた伝説のマシンが、40年の時代を超えて集結していたのだ。丁寧にレストアされ、かつてのスポンサーカラーを纏った30台ほどのマシンが激闘を繰り広げたのだ。
 これを観戦しない手はない。クリスマスの喧騒から逃れるように富士スピードウェイにやってきたのは、正直に言えば、これが目当てである。

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「華やかな時代を駆け抜けた爆音」

 マイナーツーリングレースは、1970年代にスタートした。通称TSレース。メインレースのGC(グランドチャンピオン)のサポートレースとして開催されていたものの、TSを楽しみにする観客が多かったという。
 というのも、一流ドライバーが、喧嘩上等バトルを展開したからである。同時に、名門チューナーが心血を注いでチューニングしたマシンは、驚くほどの速さと甲高いサウンドを響かせていたことも忘れてはならない。
 かつては日産サニーやチェリーが優勢であり、そこにトヨタがパブリカやスターレットを送り込んでいた。少数派ではあったが、ホンダはシビックを投入していた。
 B310サニーに搭載されるエンジンは1200ccである。OHVのそれをカリカリチューニングして1万回転まで回したというから尋常ではない。プッシュロッドを介してバルブを開閉させるというOHVエンジンは、高回転が苦手である。それが1万回転って。キャブレターのその時代に170馬力ほどのパワーを得ていたというから恐ろしい。

木下コラム186LAPイメージ写真
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「命を賭けた真剣勝負」

 「HISTORIC CAR EXHIBITION RACE」は、パレードランのような生ぬるいものではなく、ほとんどがガチンコ勝負だ。たとえフェスティバルに組み込まれた余興とはいえ、牧歌的な雰囲気はなかった。それが証拠に、バトルを制した菊池靖選手は、感激の涙で言葉を詰まらせ勝利インタビューが受けられなかったほどである。

 これが面白いの面白くないのって、僕のレーシング魂を刺激したのだ。いや、僕だけではなく、「HISTORIC CAR EXHIBITION RACE」が始まると関係者の多くが控え室を飛び出し、サインガードなりピットロードなりでレースに釘付けになっていた。

「本質は別にある」

 その迫力に魅了されながらも、僕はある疑問と確信が浮かんだ。B310サニーは1970年の車であり排気量はわずか1200ccである。エンジン型式は今では絶滅危惧種のOHVである。それを考慮すれば驚くほど速いと言わざるを得ないが、ストレートスピードはせいぜいが200km/hには達していたどうかである。
 スーパーフォーミュラやスーパーGTに慣れてしまった僕らにとって、絶対的に速くはない。トップグループは2分00秒で周回していたから、現代のレースに当てはめればスーパー耐久ST4クラスでさえ下位に沈むラップタイムだ。
 それでも、ストレートを駆け抜けるその迫力は凄まじいのである。実速度を大幅に超えて速く見えるのだ。
「なんで迫力があるのか?」
 浮かんだ疑問はそれだ。そして同時に、確信となる。
 そう、レースの魅力は絶対的な速さだけがすべてではないのである。そうでなければ、多くの観客がスーパーフォーミュラよりスーパーGTに足を運び、年を追うごとにラップタイムを短縮しているF1の観客が年々減少していることの説明がつかない。

「すべてが生きている」

 深い分析は後日に譲るけれど、直感的に感じたのは、マシンが感情を持つ生物に見えたことである。ドライバーの精神状態がそのままマシンに乗り移っていたと言っていい。
 スタートの瞬間、先を急ぐマシンはクラッチ操作を焦り加速を鈍らせた。スリップストリームを利用しマシンの背後に潜り込む。先導役を嫌うマシンは右に左にラインを変える。シフトチェンジをミスすれば一気に数台に抜かれることもある。ワンミスが命取り。すべてはドライバーの感情なのである。

 ピットで暖気されるときの弾けるようなサウンドは、戦闘に備える兵士の唸りにも聞こえたし、1万回転で唸るエンジンサウンドは、獰猛な猛獣の威嚇のように思った。深くロールするコーナリングスタイルは獲物に飛びかかろうとするとする猛禽類に見えた。すべては生きていたのだ。スリップストリームさえも使えず、1コーナーのイン側を封じてしまえば抜かれることも滅多になく、無理をすればタイヤの磨耗を招く最近のレースにはない魅力が充満しているのである。
本気の選手権がパレードのようなレース展開に終始する。というのに、フェスティバルに余興して開催された「HISTORIC CAR EXHIBITION RACE」が本気の凄みを感じさせたのは皮肉なことである。

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「開催を希望する」

 このレースを現代に再現したいと本当に思った。ポイントさえはずさなければ、驚くほど人気のあるレースになると確信した。
 86/BRZ、S660、ヴィッツ…。スーパーGT、スーパー耐久…。
 素材はたくさんある。

キノシタの近況

キノシタの近況

懐かしいニスフェスだったけれど、いつものトヨタ系の熱い男たちもドライブしていました。ただし、いつもよりも柔和な表情だったのがフェスティバルのいいところです。「おお、キノシタく〜ん」なんて普段のサーキットでは声をかけてくれないのに…。影兄いの目尻ってこんなに垂れ下がっていたっけ。(笑)

木下 隆之/レーシングドライバー

木下隆之

 1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」
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