第17戦 日本GP 2004
2004年10月13日(水)
オリビエ・パニス - 日本GPを終えて
日本GPは僕の158戦目、そして最後のF1レースだった。
レースキャリアを終えるという意味では、いつもと違った不思議な気持ちは味わったけれど、僕は今後も違った役割でパナソニック・トヨタ・レーシングに留まることになっている。だから最終章を書き終えたつもりはない。一度レースを辞めると決めたからには、もう引き返すことはできない。僕は引退の決断を適時に下せたと思っているが、多くのドライバーにとって、引退の決意を正しいタイミングで行うことは容易なことではない。
中国GPの後に、僕はシンガポールに行って数日間のトレーニングをこなし、その後、日本GPの前に忙しいスケジュールが待ち受けている東京に向かった。実際、この日本GPがトヨタのホームグランプリというだけでなく、チームにとって50戦目のレースということもあり、いろいろな意味でとても特別な週末だった。さらに、僕の最後のグランプリに、僕個人の友人でもあるヤルノ・トゥルーリを予定よりも早くレースチームに迎えることができた。ヤルノが、日本とブラジルで参戦することは、来シーズンに向けての準備として、チームにとっても時間的なアドバンテージを得ることができた。
レースに向かう前に東京に行って、世界で一番大きなトヨタのショールームであるメガ・ウェブの屋外で、TF104の短いデモンストレーション走行を行った。雨が降っていたにもかかわらず、多くのファンが集まってくれて、イベントを楽しんでくれているようだった。ヤルノと僕はそこで、公開の質疑応答とサイン会も行い、その後、トヨタの東京本社に移動し、報道関係者への撮影と記者会見を行った。
鈴鹿の豪雨は、金曜日の練習走行に大きな影響を及ぼした。ヤルノは、ウエットコンディションでTF104Bをドライブしたことが無かったため、多くの周回をこなしたけれど、僕はそうする必要は無いと判断した。クラッチとローンチシステムの設定を確認するために数周走ったけれど、その後はピットに留まっていた。最も雨の量が多い時用のタイヤでさえ、ハイドロプレーニングの危険性が高いような状況だった。鈴鹿のコースにはアップダウンがあるので、コースの至るところで小川のようにコースを横切って水の流れる場所が発生してしまう。その上、われわれは、レースが行われる日曜日までには天候状況が変わるという予測をしていたため、危険を冒してまで走行をしてデータ収集を行ったとしても、そのデータがレース当日に有用になる可能性は低かった。
僕は、FIAが台風の接近に伴って土曜日のスケジュールをキャンセルしたというのは、責任ある行動だったと思っている。この判断は、金曜日中に決定する必要があった。土曜日に戻ってくる観客がいるわけだから、金曜日のうちに決断をして、観客たちがサーキットに来場しないように事前に伝える必要があったからだ。その時点で、天気予報は台風22号が鈴鹿に向かって進路をとっていると報じていた。東京からのテレビ映像で見た被害状況から判断しても、自然現象に対してリスクを背負うことはできないと思った。
結局、週末最初の計測ラップは、予選1回目での5番手タイムを出した時だった。僕はクルマを把握しているし、鈴鹿の走り方も分かっている。だから、金曜日に充分に走れなかったことは問題ではなかったし、ヤルノと共に僕自身も決勝グリッドのトップ10に入ることが可能だった。
タイヤの摩耗についての予測ができなかったため、タイヤ選択はギャンブルに出た。ヤルノは硬め、僕は柔らかめを選択した。けれど、僕が速いラップを刻めたのは1周だけで、その後、タイヤは急激に摩耗していった。タイヤの摩耗がひどいので、クルマのリヤのバランスが非常に不安定になり、とても苦しいレース展開となってしまった。金曜日が雨だったので、ミシュランのタイヤの評価が通常のようにできなかったためだ。これは、ミシュランの性能の問題ではなく、今回、われわれがおかれた鈴鹿での状況の話だ。
鈴鹿での週末は、難しい状況だったにも関わらずチームはベストを尽くしたと思う。しかし、われわれのクルマは、ポイントを獲得できるだけの力がなかった。だから、来シーズンに向けて現状をどこまで改善できるかは、この冬のわれわれの頑張りにかかっていると思う。
日曜日には、2日間でレース週末をこなすのが可能なのかどうか、という疑問を誰もが持っていた。鈴鹿では、日曜日に予選と決勝をこなすことができたので、実行可能であるということ自体は証明できた。3日間の日程が1日キャンセルとなったことで、2日間だけで全日程のスケジュールをこなす、という今回の解決策について、僕自身はばかげた考えだとは思わなかった。けれど、予選からのメディアへの露出が無くなってしまうことがチームにとって新たな課題になるというのも事実だ。もちろん、今回の鈴鹿の状況は、特別だと考えなければならない。特に、今回は金曜日のセッションでさえ走行時間が限られてしまっていた。もし、今後、2日間でレース週末を組むというのであれば、予選の前に充分な走行ができることは、確約されなければいけないと思う。
鈴鹿では、去年からのデータを元にエンジニアと共に作業を進めていた。というのも、今回はドライコンディションでの走行がレースまでに全くできていない状況で、それはわれわれにとって大きな問題だったからだ。しかし、土曜日にも練習走行の時間が取れるというのであれば、将来的に2日間でのレース日程となっても問題はないんじゃないかと思う。
僕自身の最後のF1レースについて僕が今言えることは、最後のレースが日本で本当に良かったということだ。あんなに熱狂的なトヨタファンの前で、最後のレースを走ることのできた僕は、本当に幸せものだと思う。僕は日本のファンに、ありがとうと言いたい。そして、僕の挑戦はこれからも続くんだ。サード・ドライバーとして、僕は、これまでの2年間にチームと一緒に頑張ってきたのと同じように、パナソニック・トヨタ・レーシングの進歩を手伝うことができるだろう。もっと良いレースをしたかったというのが正直な気持ちではあるけれど、14位というのがベストを尽くした結果だった。11年間のF1生活を終えて、少年時代からの大きな夢を果たすことのできるチャンスを与えてもらえたことは、本当に僕にとって幸運そのものだったと思っている。そして今、僕を大いなる挑戦が待ち受けていると共に、家族と過ごす時間が増えることになる。
全てのチーム代表が、僕のところに挨拶に来て今後の幸運を祈ってくれた。そしてトヨタは、鈴鹿で走行した僕のレースカーをプレゼントしてくれた。これは、予想外のプレゼントだった。僕は、皆が僕の貢献に満足してくれたと思っている。グランプリ・ドライバー協会(GPDA)の集まりで、皆は最高だった。Mシューマッハーまで僕が居なくなると寂しいと言っていた。しかし、全ての楽しいことには、いつか終わりがあるものなんだ・・・。
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