レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

208LAP2017.11.22

本物のプロフェッショナルドライバー、長谷見昌弘

日産契約時代、大先輩である長谷見昌弘の傍でレースをしてきたキノシタが、見て感じた、本当のプロフェッショナルドライバーのいきざまを語る。プロとはなんなのか。天才の名をほしいままにした長谷見昌弘はプロでなければ口にできない言葉が溢れ出す。

「引退はいつするのか!?」

「トップを走れなくなったから、僕はもうプロドライバーを引退する」
 そう言い残して花束を受け取った男がいる。華やかな最前線で戦い続けてきた男の、引き際の言葉だ。
 自らのパフォーマンスが発揮できなくなったら、それはドライバーとしての終焉を意味する。夢を語り勇気を与えるのがプロの欠かされる要件とするならば潔く去るだけだ。もっとも華やかな姿だけをファンの脳裏に焼き付ける。それがプロドライバーの、もっとも美しい姿のような気がする。
 ただ一方で、こう言い続けてきた男もいる。
「メーカーが雇ってくれて、お金をもらえるうちは走りますよ。僕はプロドライバーだからね」
 プロドライバーを『職業運転手』と意訳するならば、対価を得られるまでは走るというのも、本当のプロフェッショナルの考え方なのかもしれない。
 レースが遊びならばいつ辞めてもいい。でもレースに参戦することが趣味でも遊びでもないのだったら、仕事をいただけるうちは走る。その言葉も重く激しい。

 僕がニスモ契約ドライバーだった時代、長谷見昌弘さんの傍に寄り添っていた。一方で、星野一義さんというスーパースターがいた。僕は幸運なことに、日本のモータースポーツ界のふたりの輝きとともに多感な時期を過ごしたのである。そんなレース生活の中で、長谷見さんが口にする言葉の数々に強い衝撃を受けた記憶は一度や二度ではない。そこには決して、淡い憧れのような煌びやかさはなく、職業ドライバーならではの凄みの数々が内包されていた。
 冒頭のエピソードは、長谷見さんがどこかの雑誌のインタビューに答えていた言葉だ。「引退はいつするのですか?」というえぐるような質問に、そう答えていたのである。記憶は曖昧だから、言葉尻の乱れは許して欲しいけれど、話の骨子は実にシンプルであり、誇張も脚色もなく真っ直ぐだった。

 長谷見さんはもちろん、一方で強い負け嫌いでもある。同じマシンでチームメイトに勝てなくなったら引退を考える、とも口にしている。常にエースとして日本のモータースポーツ界に君臨してきた長谷見昌弘さんの言葉は常に重く、僕の記憶に刻まれ続けているのだ。
 そして、その言葉からはプロフェッショナルの定義は何なのだろうと考えさせられた。
 子供の憧れになることか。若い息吹に希望を与えることか。それとも、家族を食わせていくことか。

木下コラム208LAPイメージ写真
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「長谷見昌弘という男」

 長谷見昌弘。1945年11月13日、今年で72歳になる。
 東京都青梅市生まれ。現在は八王子に居を構える。現役時代に、長者番付(スポーツ・芸能欄)で、北島三郎とともに名を連ねていたのは有名な話だ。
 15歳で全日本モトクロスに参戦、すぐに日産ワークスに所属。数々の栄光を刻み続けてきた。
 その中でも、もっともモータースポーツ史に深く刻まれているのは、1976年のF1世界選手権イン・ジャパンの活躍であろう。国産シャシーのコジマKE007を操り、活躍。欧州から遠征してきたF1レギュラー組を驚かせた。
1980年に記録した「4冠王」もこれからも破られない金字塔かもしれない。全日本F2、鈴鹿F2、全日本FP、GCという4つのフォーミュラをその年すべて制したのだ。まさに、天才の名をほしいままにした。現在はステアリングを置き、後進の指導やチーム監督業で活躍している。

 このコラムの203LAPで、グループCカーの予選アタックテストの話を紹介している。長谷見さんが1200馬力ものグループCカーで限界ギリギリのアタックを敢行した直後、「あれをやれば億をもらえるからね」と言い、超人的スキルが金を生むことを教えてくれた。
 僕はそのアタックがいかに難易度高く、高度なスキルを要求するかを教えてくれるのかと身構えていたら、とってもシンプルに「命を捧げることの対価」であると口にしたのだ。確かにそれは、死と隣り合わせの鬼気迫る走りだった。そして、その言葉からプロとは自らのスキルと引き換えに報酬を得る人達のことだと思った。

木下コラム208LAPイメージ写真
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「どんなコンディションでも走る。それがレースだから…」

 ある年の、F2だったかF3000だったか、ともかく日本の最速フォーミュラカテゴリーが富士スピードウエイで開催されようとしていた時の出来事だったという。天気はあいにくの雨であり、富士山から稜線を伝ってくる冷気は深い霧となり、サーキットを覆い尽くそうとしていた。雨脚も強く、レース開催が危ぶまれる状況だった。グランドスタンドを埋め尽くす観客も、凍えるようにレースを待っていた。
 そこに長谷見昌弘もドライバーとして参加していた。
 全車が試走を開始したものの、コンディションは悪化する一方だった。そこで急遽、すべてのドライバーがコース上に集められ、緊急ドライバーズミーティングが行われた。
「ご覧のように天候が悪化しています。中止にするという意見もありますが、いかがでしょうか」
 競技関係者がディレイか続行かの判断を求めた。雨脚はおさまる気配がない。そして、コースには水溜りができていた。
 多くのドライバーが、レースを続行するにはコンディションが悪すぎると中止するように提案した。
「雨が強すぎて、これじゃ水に乗っちゃうよ」
「僕もそう思うね。直線でアクセル全開にできないなんてレースにならない」
「ハイドロでタイヤが空転しちゃうんだよ」
「レースなんて、できやしないよ」
 激しい雨量に怖じ気ついたドライバー達は、中止にしようと訴えた。
 その時だった。長谷見さんがこう提案した。
「こんな雨の中、多くの観客が来てくれているんだから、スタートしようよ」
 それでもレースを中断するべきだと考えるドライバーは少なくなかった。
「でも、直線でアクセル緩めなきゃならないんだよ」
 そして、長谷見さんはこう言って、周囲を黙らせたのだ。
「えっ、誰が直線を全開で走らなければならないっていつ決めたの。踏めない奴は踏まなきゃいいし、踏める奴は踏んでいけばいいんだよ。レースなんだから」
 誰も二の句を告げなくなったという。

木下コラム208LAPイメージ写真
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 僕は、にわかに日本F1グランプリを思い浮かべた。富士スピードウエイで開催されたF1グランプリには、日本人ドライバーとして長谷見昌弘さんと星野一義さんが参戦していた。天候はあいにくの豪雨。極悪のコンディションの中、長谷見昌弘さんは国産マシンに鞭を打ち、一時は最速タイムを記録したというのだ。
 たしかに、直線をアクセル全開にしなければならないという規則はない。踏めない奴は踏まなければいい。踏める度胸があり、スキルがある奴だけが踏んでいけばいいのだ。正論である。
 1コーナーに全開で飛び込めないから、レースをやめようという奴はいない。立ち上がりでアクセルを全開にするとスピンしそうになるから中止にするべきだというドライバーもいない。限界までブレーキングを遅らせるテクニックがある奴が勝つ、アクセル全開で立ち上がれる奴が栄光を掴む。それがレースなのである。

「言い訳は必要ない。ただ勝てばいいんだ」

 第二世代のスカイラインGT-Rが誕生して、驚くほどの観客動員数を誇った1992年の全日本ツーリングカー選手権で、長谷見昌弘さんは福山英朗さんとチームを組み、闘っていた。その時のエピソードが怖い。
 あるレースで福山さんが走行中、エンジントラブルを抱えたマシンが突然オイルを撒き散らした。目の前でオイルを撒かれた福山さんは運悪く、足元をすくわれてスピン。トップを快走していたにもかかわらず、優勝を逃してしまった。
 その直後、意気消沈してピットに戻った福山さんと、チームオーナーでありエースドライバーである長谷見さんとの会話が痺れる。
「福山くん、どうしたの」
「突然、オイルにのっちゃいました」
「どうしてオイルにのっちゃったの?」
「ライン上のオイルがぶち撒かれていたので……」
「で、なんでスピンしたの?」
「止まり切れませんでした」
「なんで止まり切れなかったの?」
 正論である。それを回避するのがプロなのである。

木下コラム208LAPイメージ写真
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「危険ならばそうしなければいい。ただそれだけ」

 かつて、僕が「日産ドライビングスクール」のチーフを務めていた時期があった。校長兼MCが僕であり、多くの日産ドライバーをゲストに迎えて、参加者対応をお願いしていた。その時のエピソードが凄い。
 僕は、サーキット走行の基本マナーを参加者に伝えていた。
「みなさん、運転席側のウィンドウは閉めてくださいね。万が一、横転した場合に、あやまって手を出してしまうこともあります。それによって骨折することもあります」
 走行会でのお約束ルールである。
 それを告げた直後、ゲスト席に並んでいた長谷見さんがこう言って僕を驚かさせた。
「木下くん、窓閉めたら暑いよ」
「そうですね。でも、横転の時に手を出すと危険ですからね」
「横転しても、手を出さなければいいんじゃない」
「そうですね、でもパニックでうっかり……」
「うっかりしなければいいんじゃない……」
 正論である。

「みなさん、半袖は危険ですよ。レーシングシューズを履いてくださればベストですね」
「木下くん、レーシングシューズは疲れるよ」
「ただ、底が薄いのでペダルワークがやりやすいですよね」
「そう、スニーカーの方が靴底が厚いから疲れないよ。僕なんかリーボックだよ」

 長谷見昌弘というドライバーは、天才なのだと思う。豪雨のストレートを、ハイドロもいとわずに踏み切って勝ち、スピンしなければいいのだと言い切る。すべてが正論。そして、真理。だから、雇ってもらえるうちはレースを続けると断言する。真のプロとは、こういうドライバーのことを言うのだろうと思う。

「プロドライバーは、速く走ればいいんだ」

 1993年にスパ・フランコルシャン24時間レースに参戦した。僕も長谷見さんとチームメイトとして戦った。
 グループA大国ドイツのお膝元だから、隣国から大挙して世界屈指のレーシングチームが集結していた。
 BMW・M3は名門シュニッツァーが走らせていたし、エッゲンバーカーのフォード・シエラ・コスワースもいた。そんなツーリングカーの聖地に我々は東洋の島国から遠征し、スカイラインGT-Rを走らせたのである。
 パドックの空気は完全なアウェイだった。現地に到着するやいなや、得体の知れない不思議な動物でも見るように、どこか馬鹿にしながらの視線を受けた。こんな重量級のマシンがまともに走るわけがないと。僕のような世界的に無名なドライバーに対する挑発もあった。モータースポーツ先進国に挑む日本人へのあからさまな嘲笑だったのである。
「長谷見さん、悔しいですね」
 僕がそう不満を口にすると長谷見さんは落ち着きのある言葉でこう言ったのだ。
「一発でいいんだ。腰が抜けるようなタイムを出してごらん。それで彼らは黙るから」
 そうして、公開練習で長谷見さんはサーキット中が腰を抜かすようなタイムを叩き出して、外野の減らない口を封じたのである。世界で速さを証明してきた男の経験則である。

 プロフェッショナルとは、長谷見さんのようなドライバーへのことを言うのだろう。レースはドライビングテクニックの競い合いである。誰もが真似をできないドライビングをしたものが勝つ。それがレースなのだ。
 そのためには、目が眩むような対価をえてしかるべきである。
「金をもらえるうちは走るよ。だって、僕はプロだから」
 そして、その言葉は僕の頭に深く刻まれている。

木下コラム208LAPイメージ写真
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写真協力 塚本雅彦

キノシタの近況

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 スペシャルオリンピックとトヨタの調印式に顔を出してきました。オリパラだけじゃなくて、知的障害者の競技も盛り上がりはじめてますね。手で投げるカーリングみたいな「ボッチャ」。面白そうだったなぁ。