レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

219LAP2018.5.9

僕の相棒だったラルトRT31の数奇な生涯を想う。

 1987年、木下隆之はラルトRT31+日産エンジンで全日本F3選手権を戦っていた、そのときの愛機がリビルトされているとの情報が届いたのは今年。そのマシンは海を渡っていたという。30年の時を経て偶然に重なった、マシンの不思議な生涯と木下隆之の人生とは…。

スマホに届いたメッセージが、再会を運んできてくれた

 ある日突然、僕のスマホの画面に見覚えのない名の外国人からメッセージが届いた。差出人は、ドイツ在住のマイクと名乗った。自ら顔写真も添えられていた。年の頃なら40歳代の、優しげに笑みを浮かべた口ひげの濃い男性だった。
 メッセージの内容はこうだ。

「Hello from Germany. I am Mike. I bought a formula 3 car from 1987. I find some results from the same year. I saw that you raced a Ralt RT 31 nissan. I want to ask if you have a picture from 1987. Do you remember the chassisnumber?
It would be very kind if you can help me.
Best regards
Mike」

 つまり、日産エンジンを搭載した1987年式のF3マシン「ラルトRT31を購入した。色々調べたら、木下が乗っていたマシンだと判明した。覚えているのならばシャシーナンバーが知りたい…」というわけである。
「そのマシンはイギリスで購入しました」
最後にはそう添えられていた。

愛機の生存は、ある日に届いたこんなメッセージが伝えてくれた。

愛機の生存は、ある日に届いたこんなメッセージが伝えてくれた。

僕のマシンはキャビンカラーではなかったけれど、ノーズとウイングには僕のものであった痕跡がある。

僕のマシンはキャビンカラーではなかったけれど、ノーズとウイングには僕のものであった痕跡がある。

日産エンジン搭載のフォーミュラが存在していた

 1987年式といえば、いまから31年の前のマシンである。当時の世界F3選手権はF1直結のカテゴリーとされていて将来を夢見る多くの若獅子が挑んでいた。その中でもイギリスのラルト社が開発したマシンはひときわ戦闘力が高く、ヨーロッパでの一大勢力となっていた。
 その勢力図は日本にも伝播していた。全日本F3選手権に参戦するマシンのほとんどはラルトだった。シェアは9割に達していたと思う。その後、レイナードやダラーラが台頭してくるまで、サーキットはラルト一色だった。1980年代を彩った華やかなマシンである。
 1980年代のあの頃を除いて、それ以前もそれ以後も、日産がシングルシーター用エンジンを本格的に開発したことはない。WECやル・マン24時間用のスペシャルエンジンを開発した経験はあるものの、F3やF2や、もちろん現在のスーパーフォーミュラエンジンの開発は避けてきたのである。
 ただ、1980年代後半のF3エンジン開発は例外だった。スカイラインRSに搭載されていた直列4気筒2リッターDOHCユニットの開発からスタート、その後シルビアに搭載され日産のスポーツカーを支えたCA18DE改に移行、さらにSR20DE改へとスープアップして戦われていたのだ。
 だが、あくまで日産エンジンユーザーは少数派で、当時はトヨタの3S-Gが主流。そこにスピースチューンのVWエンジンが食い下がりチャンピオン争いを演じていた。フォーミュラ経験値の浅い日産は劣勢だったし、限られた日産系チームにしかデリバリーされず開発も進まなかった。そんな日産エンジン搭載のラルトRT31なのだから、希少価値はむしろ高いと想像したのだ。
 僕はそのエンジンを搭載したマシンで全日本F3選手権を戦い、その後のプロドライバーへの足がかりとしたのだ。僕にとっては忘れることのできないマシンなのである。

※ドイツの有名なエンジンチューナー。シュピースと表記される事もある
F3参戦初年度。日産系チューナーだった東名自動車の熱い情熱だけで走らせてもらっていた。

F3参戦初年度。日産系チューナーだった東名自動車の熱い情熱だけで走らせてもらっていた。

鈴木亜久里も日産エンジンを搭載するF3マシンで戦った。ニスモの旧ロゴが懐かしい。

鈴木亜久里も日産エンジンを搭載するF3マシンで戦った。ニスモの旧ロゴが懐かしい。

ダンロップ、アドバン、ポテンザの3ブランドが競い合った。僕はそのダンロップ。マイクのメールには、それも手掛かりになったと記されていた。

ダンロップ、アドバン、ポテンザの3ブランドが競い合った。僕はそのダンロップ。マイクのメールには、それも手掛かりになったと記されていた。

大塚製薬とレナウンのスポンサードで戦った。背後のキャビンカラーはレイナード+トヨタ。イギリスで発見されたラルトRT31キャビンカラーとは異なる。

大塚製薬とレナウンのスポンサードで戦った。背後のキャビンカラーはレイナード+トヨタ。イギリスで発見されたラルトRT31キャビンカラーとは異なる。

日産が投入したF3エンジンは、ピークパワーに優れていた。だがその一方で、重心が高く剛性が不足していた。

日産が投入したF3エンジンは、ピークパワーに優れていた。だがその一方で、重心が高く剛性が不足していた。

メッセージを通してのマイクとのやりとりは、その後も続いた

 実はイギリスのとあるガレージでそのマシンに出逢い、即断で購入。ドイツに持ち帰り、今レストア中だという。リビルトが完了したら、サーキットレースに参戦するつもりだということだった。
 もちろん現役バリバリのF3ドイツ選手権に参戦するもわけもなかろうから、 ヒストリックカーレースやらで走らせるのだろう。
 決して投資のためにこのマシンを購入したわけではないから、すぐに売却するつもりはないとの思いも綴られていた。

 僕はマイクからのメッセージを何度も読み返し、彼が送ってくれた写真を眺めながら、懐かしさと嬉しさを感じた。
 レーシングマシンは最新の技術が注がれている。従って、シーズンを終えれば戦闘力が一気に色褪せる。レーシングマシンとしての臨終を意味するのだ。だからどこかのガレージの裏庭に打ち捨てられ、風雨に晒され、錆で朽ち果て、生い茂る雑草に絡まり置き去られているに違いないと思っていた。だが、僕のマシンは、はるばるイギリスに辿り着き、今ではドーバー海峡を渡ってドイツへ。あのマシンは生きていたのだ。
 マイクが送ってくれた写真には、かつての面影が残る。数々のパーツを寄せ集めて形にしたようで、ウイングやサイドポンツーンなどは、僕のマシンではないスポンサーカラーに塗られていた。だが、シャシーやアームのそこかしこには、確かに僕のマシンだった痕跡が透けて見えた。
 このマシンと別れてからも僕は、日産契約ドライバーとして歩むことになった。SR20DEとはその後、本来収まる場所だったシルビアに搭載してGT選手権にステップアップし、スカイラインGT-Rで様々なレースを経験していくことになる。その後はイギリスでのBTCC 経験を皮切りに、スパ・フランコルシャン24時間への遠征を続け、さらにニュルブルクリンク24時間に20数回も参戦したのである。
 その一方でこのマシンも、数奇な生涯を歩んだに違いないと。どんな縁によってイギリスに渡ったかは不明だが、ドイツにやって来たのはマイクに見初められたからなのだ。
 振り返れば、僕のマシンが日本からイギリスに渡り、ドーバー海峡を越えてドイツにやって来たことと、僕がF3を卒業してからイギリスを散々走ったことを手掛かりにドーバー海峡を渡ってベルキーでレースをし、最終的にはドイツのニュルブルクリンクに行きついたことに、どこか運命的な繋がりを感じずにはいられないのである。
 僕をプロの世界に導いてくれたラルトRT31と僕は、わずかにすれ違いながら同じ道を辿ってきたのだ。

イギリスでテストをしていたあの頃のBTCCマシンにも、F3と同様のSR20DEエンジンが搭載されていた。

イギリスでテストをしていたあの頃のBTCCマシンにも、F3と同様のSR20DEエンジンが搭載されていた。

僕はイギリスからベルギーに戦いの場を移した。スパ・フランコルシャン24時間では初挑戦にして優勝した。

僕はイギリスからベルギーに戦いの場を移した。スパ・フランコルシャン24時間では初挑戦にして優勝した。

ベルギーからニュルブルクリンクへ。僕の海外経験も、イギリスからドーバー海峡を渡ったのだ。

ベルギーからニュルブルクリンクへ。僕の海外経験も、イギリスからドーバー海峡を渡ったのだ。

いつか再会する日が来る

 マイクからのメッセージは最後に、こう結ばれていた。
 「リビルトが完了したら連絡します、もしそのときあなたがこのマシンをヨーロッパで走らせることを望むのなら、私がアレンジしますよ」
 僕と青春を過ごしたラルトRT31は、これから丁寧にリビルトされて華やかな第二の人生を過ごすことになる。そして僕はいつか、そのマシンをドイツで走らせることになるのだろう。
 その時僕は、どんな思いでそのマシンに触れ、どんな言葉をかけるのだろうか。

キノシタの近況

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 今年挑戦を開始したブランパンGTアジアも、早くも第2戦を迎える。5/12、13日が決勝ね。タイのブリーラムサーキットです。前回は0.15秒差で逃した優勝を取り戻してきます。