レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

230LAP2018.10.24

難攻不落のサーキットが赤坂に出現

 ITの世界がモータースポーツに導入されて久しいが、最大のブレイクスルーはレーシングシミュレータの誕生だと思う。F1マシンの開発やセッティング出しはシミュレータで行われる。何よりもドライバートレーニングに有効なのだからこれ以上都合がいい技術はない。さすがにテレビゲーム音痴の木下隆之も、赤坂の東京バーチャルサーキットに顔を出すようになったという。その理由は…?

たかだかテレビゲームでしょ?

 レーシングシミュレータの存在が露わになったのは、F1チームがマシンの開発やドライバーのトレーニング用に本格的に開発したあたりからだと思う。F1ドライバーがサーキット攻略にシミュレータを用いていると聞いて驚いた。当初は、たかがテレビゲームだろってナメていた。エアコンが効いた静かな部屋で、テレビモニターを観ながら、風もGもない。それが生身のドライビングに役立つわけなどあるわけがないと、昭和のドライバーはハナから相手にしていなかったのだ。
 もともと僕はテレビゲームが苦手である。「君もレーシングドライバーに勝てるか?」といったお題目で、一般の方々と競争させられるイベントが少なくないけれど、まったく勝負にならず恥をかく。たかがゲームだとわかっていても、勝負となればジャンケンポンであっても負けたくない性分だから、いよいよゲームから距離を置くようになる。今じゃ、小学生とのチョロQバトルすらお断りさせてもらっているほどだ。
 だが、F1ドライバーが真剣にトレーニング用のツールとして取り入れていると聞けば、無視はできなくなる。年間数百億という資金で運営するF1チームが、マシン開発に活用しセッティングに利用しているとなれば、それは本物である。トヨタのWECマシンが速いのは開発拠点のTMG(ドイツ)に世界最高峰のシミュレータを備えているからだ…とまことしやかに言われ始めて、これはゲームごときと笑い飛ばすわけにはいかないぞと注目し始めたわけ。
 その後、F1チームだけではなく巷にレーシングシュミレータが普及し始めると、効果があるとかトレーニングに最高だなどと噂が飛び交うようになり、僕の中で存在が大きくなってきた。

  • 赤坂の東京バーチャルサーキットには、本物のポルシェ911GT3マシンに着座してのシミュレーションが体験できる。ステアリングの重さもリアルだから、大汗をかくことになる。

僕の一日30周が、一晩で30周

 最初に効果を実感したのは、最近のニュルブルクリンクに挑戦する日本人ドライバーを見てからだ。事前のトレーニングにレーシングシミュレータを活用するようになったことで、初見からソコソコの走りをするようになったのだ。
 僕がニュルブルクリンク詣でを開始した1990年には、レーシングシミュレータなど存在していなかった。だから一周25.8kmのコース上に連なる、170箇所だか200箇所だかコーナーの数さえも正確に分からないほど長いコースを、ひたすら走って覚えるしかなかった。初挑戦の時には、レースの数ヶ月前にニュルブルクリンクレーシングスクールに入校し、インストラクターの後ろに連なって周回を重ねたものだ。実際に、ニュルブルクリンク24時間に挑む世界各地のプロドライバーは、そのスクールに入校してコースを覚えてからレースに挑んだものだ。
「あの日本人、もう30周も走ったらしいぜ」
「あいつは、1週間も走っているんだってさ」
 巷で聞く僕の噂は、タイムの優劣ではなくて何周走ったかの周回の数だけが賛辞だった。事前にコースを知るすべのない時代だったから、とにもかくにも周回してコースを記憶することだけがニュルブルクリンク攻略の近道だったのである。
 その証拠に、ニュルブルクリンクで ニュルブルクリンク24時間レースを戦い始めて数年後、日本のトップドライバーと組むことになったのだが、難攻不落なニュルブルクリンクをナメてかかったそのドライバーは僕より1分以上もタイムが遅く、意気消沈していたことを記憶している。彼が乗るのは500馬力のスカイラインGT-Rだったのに、150馬力のミニクーパーに抜かれて笑いのネタになっていた。

  • シミュレータでは実際のドライビングをデータロガーで確認できる。画面は中国・寧波サーキットの走行データだ。
  • ドライバーからの目線では、走行風景以外はまったく目に入らない。テレビゲームとはそこが全く異なる。

僕もパイロット免許取得時に訓練で活用していた?

 僕が初めてシミュレータを体験したのは、じつはレーシングシュミレータではなく航空機用だった。日本航空のパイロットに知人がいて、プロのパイロットが訓練用に使用しているボーイング747のシミュレータを体験する機会を得たのだ。 
 プロのパイロットが半年に一度義務づけられている資格確認テストにも使われ慣れぬ空港での離着陸も、ここでのトレーニングで習得するという。レーシングシミュレータと活用方法は同じ。
 その経験は忘れ難いものだった。まずプロのパイロットによる見本フライトから始まるのだが、シミュレーションとはいえ、無言のまま真剣に操作していたのが印象的だった。それを見て、いくら熟練パイロットでも、ジャンボ機の操縦、特に着陸は楽ではないのだと思った次第。
 いざ自分がトライすることになったときには、まったく上手くコントロールできず意気消沈。それも道理で、プロのパイロットが苦労する離着陸を、素人がすぐにできるはずもない。
 それでも興味深かったのは、羽田空港B滑走路や成田空港A滑走路だけでなく、着陸が難しいとされている香港・啓徳空港やイギリス・ジブラルタル空港に着陸できたことだ。世界の主要な空港が忠実に再現されており、航空ライセンスを持たない僕が離着陸を体験できるなんて、シミュレータの世界はいよいよ本物に近くなってきたのだと感心したのである。何度もダッチロールし迷ったあげく、最後はほとんど墜落に近い状態で地上に降りたのだから、それが着陸と言えるのかどうかはともかく、希少な体験をしたわけである。

ニュルブルクリンクまで11時間、赤坂まで1時間

 いま僕らは頻繁に、東京赤坂にある東京バーチャルサーキットに通っている。「僕ら」と複数形にしたのは、ブランパンGTアジアを転戦する我々BMW Team Studieのドライバーが集まり、事前にコース習得をするために赤坂通いを繰り返しているのだ。
 東京バーチャルサーキットは、2基の本格的なレーシングシミュレータを備えている。一基はフォーミュラ、もう一基はツーリングカー。本物のコクピットから180度に広がる映像を見ながらドライビングするのである。ここが都会のど真ん中だとは思えない、不思議な空間が広がる。
コースは世界の主要サーキットのほとんどを網羅する。ブランパンGTアジアが開催された中国・寧波サーキットもすでにインストール済みだというから、事実上、赤坂に来れば世界のすべてのサーキットを走れるというわけだ。
 ブランパンGTアジアは、マレーシア・セパンサーキットを皮切りに、タイ・ブリーラムサーキットへと続き、日本の鈴鹿サーキットと富士スピードウエイをこなしてから中国・上海サーキットと中国・寧波サーキットへ遠征が続く。個人的にはブリーラムと上海、そして寧波の経験がない。少なくともコースくらいは覚えていこうぜってことで東京バーチャルサーキット通いを開始したというわけ。

 じつは東京バーチャルサーキットにはBMW Team Studieでコンビを組む砂子塾長がインストラクターとして常駐している。規定の金額を支払えば誰でも、プロのインストラクターの指導のもとシミュレータ体験が可能だ。実際に多くのレーシングドライバーが通っているほど本格的なのである。
 我々はレースウイークになれば、同じマシンを操ることで得たデータロガーで走りを分析し、走行精度を高めていく。それと同じことを赤坂でシミュレートしているのである。
 ブランパンGTアジアのスケジュールはかなりタイトである。金曜日の走行が1時間30分しかなく、なのに翌日すぐに15分の予選が行われる。その勢いで午後に決勝がスタートする。
 ほとんど練習走行をする機会がなくレース本番になだれ込むから、事前に走行経験があるかないかは勝敗に大きく影響する。参戦初年度の我々には酷な状況だ。そんな不利を、東京バーチャルサーキットがサポートしてくれるのだ。

  • 中国・寧波戦前に、ドライバーとマネージャーが赤坂でトレーニングしていた。
    我々がいきなり速かったのは予習の効果だと思う。
  • 中国へ移動する前からすでに50周は周回していた計算だ。
  • 走ってデータ解析し、休憩してまた走る。サウンドもリアルだから楽しい。
  • 仕事帰りにニュルブルクリンク攻略、なんてことも可能なのだ。そして赤坂の夜に消えていけばいい。笑

日本でもっとも走っている男

 コンビを組む砂子塾長は、10年前にレーシングドライバー業を引退している。つまり彼にとっては10年ぶりのレースなのに、まったくブランクを感じさせず、どのサーキットでもいきなり速いのは、東京バーチャルサーキットで日々走行を繰り返しているからだ。
 最近はプロドライバーでも、実際にサーキットでステアリングを握る機会が限られている。ということを考えると、砂子塾長はどのプロドライバーよりも多くサーキットを周回しているということになる。10年のブランクはないに等しいのである。どうりで速いわけである。
 時代は変わったものだ。正直に言えば僕はシミュレータがいまだに苦手である。1周をまともに完走すらできないで苦労している。だからいつも人の走行をただ眺め続けて記憶させるしか方法がない。それでも初めてのコースを数周で攻略できているのはやはり、ただ眺めているとはいえ、レーシングシミュレータの残像が脳裏に刻まれているからだろうと思う。いやはや、とんでもない時代になったものだ。

キノシタの近況

  • キノシタの近況
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ブランパンGTアジアの全ての日程が終了しました。最終的なドライバーズランキングは2位。チームチャンピオン獲得。ポールポジションは最多の7回でした。応援してくださった方々に感謝します。鬼が笑いますが、来年もよろしくお願いします。