レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

235LAP2019.1.16

僕らはドーピングのない健全な世界で戦っている

 もし、それを口にしただけでハミルトンよりも速く走れる薬があったなら…と夢見るドライバーがいるかもしれない。ただ、それが違法行為だとしたら…。身体を蝕むことになるとしたら…。けして許されないことではある。はたしてレース界にドーピングは蔓延しているのだろうか。ドーピングを疑われた経験のある木下隆之が語る(笑)。

怪しいぞ、24時間男

「いつまでも元気ですねぇ。ドーピングでもしているんじゃないの?」
そんな憎まれ口を叩かれることがある。僕は24時間レースでも眠くなることはほとんどないし、疲れで走行が怪しくなることもない。宴会だってひたすら長いから、体質が耐久に適しているのかもしれない。それでいて、日頃からストイックに節制している気配を周囲に感じさせていないだろうから、なにかしら薬物の力を借りているに違いないと思うらしい。いやはや、体力の源泉がどこにあるのかは自分でもわからない。基本的には暴飲暴食をいとわない。健康のために「まずは野菜から食べ始めて…」などとサラダをつついている男には「OLじゃあるまいし…」と笑う。呑みの締めはラーメンである。それでいて徹夜レースが苦にならないのだから、ドーピングしているのではないかと疑いたくなるのも道理だろう。

ただし、公明正大に言って、ドーピングなど一切の経験がない。なぜならば、ドーピングの必要性を感じていないからだ。もし、24時間を走りきるのに体力が足りないのならば、ドーピングが気になった可能性は否定できない。もしくは、なにかの薬物を摂取すれば突然1秒も2秒も速く走れるのだったら、フラフラと迷いが生じたかもしれない。ただ、薬物に手を染めるほど心は弱くないし、自助努力と才能以外で勝負に挑むのは卑怯だと思っている。耐久レース前の点滴すらどこか恥だと思っているのだ。そもそも、体力のあるレーシングドライバーにとって有効な薬物などないような気がする。

興奮すればいいのか鎮静すればいいのか…

たとえば興奮剤を摂取すれば、闘争心は高まるかもしれない。男性ホルモンを体内に取り入れれば、テストステロンの分泌によって反射神経が研ぎ澄まされるだろう。だが、レースではむしろ興奮を抑え、常に冷静である必要がある。「レーシングドライバー=命知らず」といったイメージはあっても、命を粗末にして挑むドライバーはいない。ある意味では臆病なこともレーシングドライバーの資質のひとつなのだ。
いたずらに筋肉量を増やしたところで、速く走れるとは思えない。重たいバーベルを持ち上げるような瞬発力は、それほど必要ない。ハンドルはほとんどパワーアシストされているし、ブレーキ踏力ですら120kgほどの脚力があれば事足りる。
実際に、筋肉隆々のレーシングドライバーはいないから、おそらく筋肉増強剤を摂取していることはないのだろう。そもそもボディビルのような瞬発系筋肉はカロリーを消費するから、レースには適していない。長距離ランナーがそうであるように細マッチョの体型が理想なのだ。

興奮剤や筋肉増強剤が効果的でないのならば、鎮静剤はどうだろうか。もちろんこの効果も期待できない。野獣のように獰猛すぎるよりむしろ冷静でいる必要があるとはいえ、あまり呑気に、羊の群れのように譲り合いの気持ちでいても勝利は遠い。異常な血圧上昇でのレース参戦は危険だが、鎮静効果は勝負師としての資質を削ぐのだろう。
そう、興奮せずに鎮静もせず…などという都合のいい薬物はない。少なくとも、僕が懇意にしているドクターは、レースで有効なドーピングはないと断言するし、僕の周りでドーピングしているぞ…といった噂は聞いたこともないのだ。

アマチュアスポーツにも蔓延している?

五輪やプロスポーツでは、ドーピング違反の報道が後をたたない。ロシアの体操選手団がドーピングの疑いで五輪参加を拒否されているし、アメリカの陸上競技界でも多くのメダリストの不正が明らかになった。中国勢の明らかに不自然な体型にも疑惑の目が投げかけられている。魔の手はヒタヒタと、勝利至上主義の国々に忍び寄っているのだ。そればかりか、武士道の国日本でも、もはや他人事では済まされないほど浸透しているように思う。世界アンチドーピング機構が規定を犯した選手に積極的に目を光らせているのだが、後を絶たないのである。
昨年末、陸上長距離選手が「鉄剤注射」を受けていたことが問題になった。鉄剤が持久力向上に効果があるとされているからだ。それが、爽やかな青春の香り漂う高校駅伝にまで伝播しているかもしれないというのだから、事態は深刻だ。
とはいうものの、鉄剤注射は正式な禁止薬物には指定されていない。規則の網をくぐりぬけようとする医学会と、アンチドーピング機構とのいたちごっこが繰り返されている。
世界アンチドーピング機構では、毎年1月1日に、禁止薬物の国際基準を発表している。それでも犯罪を撲滅することはできない。

食後のお茶もダメ?

じつはレース界も、ドーピング検査が強化されたことがある。古くからレース前に行われてきた「メディカルチェック」は、血圧と握力と、目をつぶっての片足立ちで出場資格の有無を判断していた。サーキットによっては検尿が行われることもあった。握力と片足立ちがどれだけ重要な検査であるかは、疑問の余地を残す。だがそれは、長い間続けられてきた慣習なのだ。だが、ある時、五輪と同等のドーピング検査が行われると通達されたから我々は驚いた。というのも、ドーピングに関する知識がまったくなかったからだ。
「血液検査があるのか?」
「裸で身体検査されるのか?」
パドックに緊張が走った。
「カフェインは興奮作用があるから、コーヒーや紅茶の摂取は禁止らしいぞ」
おめざを日課としているドライバーたちはがっくりと肩を落とした。

唯一口にできるのは、カフェインを含まない水と麦茶だけ。それは序の口で、普段安易に口にしているサプリメントや、軽い風邪や下痢などのときに飲むちょっとした家庭薬にも禁止薬物が含まれているという。身体能力を高めるためではなく、持病の治療薬を摂取している人もいるに違いない。パラリンピアンは、薬を摂取することが治療である。
「この風邪薬が禁止薬物だとは知らなかった」
悪意がなく、発覚後にそう言ってうなだれる選手もいる。

結局のところ、レース界でのドーピング検査は行われていない。ドーピング検査だけでなく、レース前の慣例だったメディカルチェックすら廃止になってからずいぶん時が経つ。それでも問題が起こらなかったのは、レースが有利に働く禁止薬物が存在しないからだ。
明らかに薬物摂取をしていると疑われるドライバーもいない。ある一人のドライバーを除いて…。
「いつまでも元気ですねぇ。ドーピングでもしているんじゃないの?」
そう言われるあの人を除いて、である。

キノシタの近況

  • キノシタの近況

学生時代、冬の45日ほどをゲレンデで過ごしたぐらいウインタースポーツ好きなのに、レースを始めたことできっぱりと足を洗った。骨折などして人生を棒に振りたくなかったからだ。だが、いまでは格段に安全になった。骨折の心配もない。むしろ体幹を鍛えるには都合がいい。なのでスキー、再開しています。