レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

247LAP2019.7.10

灼熱地獄の珍事件

「いよいよ、日本列島は真夏のシーズンに突入する」
こう書き出すと多くの御仁は、ビーチやプールサイドでのくつろぎを想像してニンマリする。だがしかし、レーシングドライバーの多くはちょっと憂鬱になるらしい。”照りつける太陽と戯れる暑い夏…”ではなく、いわば”高速移動型サウナ…”をイメージするからである。かつて、灼熱のレースでは肌も露わに戦った木下隆之が、昔の珍事件を回想する。

爽やかな夏のモータースポーツシーズン到来

高温多湿の日本で生活し、タイやマレーシアを含むブランパンGTワールドチャレンジアジアを転戦する身としては、夏に対する備えを怠ることはない。何を好き好んで炎天下にガソリンをボンボン燃やしながら、1時間も2時間も同じ場所をグルグルしなければならないのか、35年もレースをやってきていまだに答えが見つかる気配がない。
とはいうものの、真夏のレースは嫌いじゃない。暑さに耐えかねたライバルが脱落していくことで、”ただ座っているだけのレースって楽そう”といった甘い認識を否定する根拠になるし、”ただ座っているだけで”順位が上がっていくのも痛快である。そもそも、夏のレースは得意なのである。

冷凍マグロじゃないんだから…

もっとも、地球の温暖化に逆行するように、コクピットの温暖化は抑えられている。真っ赤な顔で暑さに苦闘するドライバーを見掛けなくなって久しい。
コクピット内の温度の上限が定められたことで、チームはしぶしぶ空調関係に知恵と予算を割くことになった。発端はル・マン24時間だっただろうか。車内温度が60℃を超えてはならないと定められた。それ以来、ドライバーの職場環境は改善されたのだ。
エアコンの装備も珍しくない。我がBMW Team StudieのM4GT4も、レース用エアコンを装備している。インパネの「AC」スイッチをオンにすれば、ヘルメットに直結したダクトから送られてくる冷気が頭部を冷やす。バケットシートの背面から、冷気が体にみちびかれる。”汗ひとつかかない…”というほど冷やしてくれるわけではないが、少なくとも暑さで意識が遠のく心配はない。
サーキット近郊のホームセンターで買ってきた、洗濯機の排水ホースで外気を取り込む…というちょっとダサい光景を目にすることは少なくなった。開け放った窓から手をかざして、少しでも外気を体に当てようともがくドライバーも見掛けない。フラフラになって走り終え、その場でヘタリ込むドライバーを担いで氷を張った水槽に投げ込むシーンもまず見ない。冷凍マグロじゃないのだから、あんな無茶をしていて、誰も死ななかったのが不思議である。スポーツ医学のドクターが知ったら慌てて咎めることだろう。

今じゃ確実に失格だね

先日のこと、今から約30年前のレースビデオ(DVDね)を観ていて笑えた。それには全日本ツーリングカー選手権で戦う、自身のピントの狂った勇姿が映っていたのだ。
笑えるポイントは、その姿である。
映像は、熱いことで定評のある「筑波レース・ド・ニッポン」。スカイラインGT-Rで戦う僕がピットでドライバー交代する様子を映していた。相棒のA・オロフソンがピットイン。僕はすでに暑さに身構えているようで、乗る前から両腕の袖は肘までまくっている。胸のファスナーをヘソまで下げたまま。しかもアンダーウエアなど着ていやしない。肌を晒している。ほとんどレーシングスーツの意味を否定しているのである。
挙げ句の果てに、レーシンググローブも手首までたくし上げているのだから、防御力はないに等しい。フェイスマスクも非着用。ソックスも履かない。首筋の肌も露出したままだ。マシン火災が珍しくなく、頻繁にカチカチ山になった時代の話である。

しかも、そんな行為は僕だけではなかったはずだ。というのも、その時の僕らは総合トップを走行しており、ドライバーチェンジの一部始終をテレビカメラが狙っている。多くのモータージャーナリストが見守り、オフィシャルが監視している。その目の前で袖をたくし上げているのだから、おそらくアンダーウエア着用の義務もなく、はだけてはならないことが罪だとはちっとも思っていない素振りなのだ。チームはニスモ。装備品に関して厳しい規定があるのならば、ニスモのワークスマシンに乗るワークスドライバーが衆目の中で堂々とルール違反をするわけもない。という論法からすれば、規定がなかったとしか考えられない。もしくは、これから起こりうる地獄のような暑さを想像してすでに気が動転し始めていたか…であろう。火の熱さより、気温の暑さを恐れていたのは、僕だけではないはずなのだ。

プロも降参。高温サウナで1時間超

そのレースがどんなに暑かったって、そりゃもう、地獄とはおそらくこのことであろう。赤鬼や閻魔がいないだけで、環境的には血の池地獄と違わない。
狭いパドックに、グループAマシンが並ぶ。サポートレースはF3。総勢60台ほどのエントリーだ。さらにはポカールレースがあり、ザウルスカップが予定されている。それほど多くののマシンが一度に暖気するのだから、実測温度は50度℃超。体感的には60度℃。パドックに停めたワンボックスカーが暑さのあまりエアコン全開なのは当然のこと。精神的温度は70度℃超である。
実際に、キャンペーンガールのヒールが、溶けたアスファルトに食い込んだ…と言う珍事があったほどである。

ピットには食卓塩の瓶が用意されていた。といってもスイカやメロンを美味しくいただきましょう…ではなく、瓶の蓋を開け、食塩をそのまま口に流し込まれる。汗とともに塩分が不足するのが体に悪い…という程度の認識は昔からあった。「ならば」というわけで、大量の食塩を内蔵めがけて投入されるわけだ。脱水症状の前に腎臓への負担が心配である。
僕とコンビを組んでいたA・オロフソンは、クールスーツの着用を拒んだ。というのもアウトドア用のクーラーボックスを改造した当時のクールスーツは頻繁に故障したからだ。故障するとそれは、地獄の保温スーツと化す。「ならば、そんなものないほうがいい」と、スウェーデン人の彼は日本の暑さに耐えていた。さぞかし北欧の気候を懐かしんでいたことだろう。

意識がないままに…

そんなだから、意識が朦朧とするのは毎度のことだ。暑さで視界が狭くなってくる。ラップタイムが2秒程度落ちるのは正常のうちで、5秒落ちあたりで、そろそろヤバいかも…」となる。10秒ダウンになって初めて「こりゃヤバい」とピットが慌ただしくなるのだ。
不可解なクラッシュは、大概が意識朦朧とした挙句の出来事である。クラッシュでタイヤが外れたマシンが再びアクセル全開で走りだし、次のコーナーでまたクラッシュ。それでもアクセルペダルを緩めない。また次のコーナーでクラッシュ。マシンが物理的に動かなくなるまでクラッシュを続ける。そんなドライバーもいた。
そのドライバーは、緊急搬送された病院のベッドで「俺、何位?」って聞いたそうである。
アドバンから助っ人として招聘されていたK・アチソン(F1ドライバー)は、筑波レース・ド・ニッポンのレース中に突如としてピットイン、自らの意志でレースを放棄してしまった。
「こんなに暑くてはレースができない」
そう言い残して、イギリスへ帰っていった。おそらく相当の契約金を手にしたであろう。それを捨ててでも命を大切にした。それほど暑かったのだ。
タイサン・バイパーで全日本GT選手権のコンビを組んでいたターザン山田は、タフな野生児という印象だが、そんな彼でさえマレーシアでのレースがスタートする前のフォーメーションラップで根をあげて「ドライバー交代願います」と無線を飛ばしてきたほどだ。

短パンTシャツでレース?

ある鈴鹿の耐久レースは、異常な暑さに見舞われていた。レースを終えたドライバーが熱で意識が朦朧とし、パンツ一枚になったままピットロードを端から端までフラフラと歩き医務室に行った。だが翌日、搬送された救急病院のベッドで初めて事態を知った…という事件があったほどの暑いレースでのこと。
僕はスタートドライバーを担当、酷暑に耐えながら、1時間20分のスティントと格闘していた。そしていざピットイン。その時になって一つ困ったことに気がついた。
実はレース中、あまりの暑さに耐えかねて、スーツの両腕は肘までまくり上げ、下半身も同様に膝までたくし上げていた。だけど罪の意識はあった。人に見られてはならないとの認識もあった。だから、ピットインの数周前から、袖や膝を元に戻し始めた。だがしかし…。ストレートなど比較的仕事量の少ない区間を利用して少しずつ両腕を戻したまでは良かった。クラッチ操作のない区間を利用して、左足を引き寄せ、裾を戻したまでは成功した。だが、右足の裾が戻せないことに気がついた。右足はとても忙しい。アクセルペダルを床まで踏み込んでいるか、もしくはブレーキペダルを力いっぱい踏み込んでいるかで、常に足をピンと伸ばしている。裾を戻すためには膝を大きく引き寄せねばならない。右足にはそんな無駄な時間はないのである。
仕方なく、僕はスーツの右足部分だけをたくし上げたままでピットイン。転げ落ちるようにマシンから飛び出した。
だが間が悪かった。僕のマシンはスカイラインGT-Rである。右ハンドルである。右のドアから降りる。ます最初に地面に着くのは右足である。そこにはカメラマンが待ち構えていた。
「トップのニスモGT-Rがピットイン。木下隆之からドライバー交代だぁ〜」
場内アナウンスが煽る。
その実況に合わせて、たくしあげられ露わになった僕の右足が大写しになったことは言うまでもない。

いよいよ、夏のレース本番である。かつてよりレース環境は改善されている。マシンが速くなったことを除けば、体にも優しい。ドライバーの鍛錬も徹底している。だから夏の風物詩であった「誰かがぶっ倒れる」を見ることはできないかもしれない。
だけど、高温サウナが低温サウナに変わっただけで、熱いことに変わりはない。今年も珍事件を拝めるかもしれない。

キノシタの近況

ブランパンGTワールドチャレンジアジアの富士戦は、いきなりの厳しいBOP性能調整にあって戦闘力をもがれた。ストレートスピードが15km/hほど低下したのだから、サイズの高速サーキット富士では厳しい。だけど、こんなに真剣になったことは初めてじゃない?ってほどハードに挑んだことで、ギリギリのバトルを制して優勝。シリーズランキング的には圧倒的に有利になった。これからも応援宜しくお願いします。