レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

248LAP2019.7.24

スーパーフォーミュラマシンの発進は両手両足で…

「フォーメーションラップを終えたマシンがグリッドに整列した〜」レースの実況MCが絶叫する。「さて、前方のシグナルに注目〜」マシンが咆哮を高める。「レッドランプが点灯した」爆音がサーキットを包み込む。「5、4、3、2…」「ブラックアウト、スタート!」「おっと、一台動かないぞ。エンストだぁ〜」「クラッチミートのミスか〜?」
スーパーフォーミュラのスタートを観戦しながら木下隆之は、レースカーの特殊なクラッチ操作を考えた。速く走ることのみを追求したレーシングマシンのクラッチ操作は難しい。システムも複雑だ。スーパーフォーミュラは特に珍しく、クラッチ操作は手動である。足元にはクラッチペダルはない。その特殊なクラッチシステムを木下隆之が明かす。

日本チャンピオンマシンを教材に、日本王者の解説で…

日本最高峰のスーパーフォーミュラ (SF)は、直列4気筒ターボエンジンをマシンに搭載する。スーパーGT500と基本構成が共通である。それでもピークパワーは650馬力オーバー。もちろん乗員は一人。タイヤは剥き出し。全ての贅肉をそぎ落とし、ひたすら速く走るためだけに開発されている。まさに2次元を戦う戦闘機である。
だからこそ、市販車にあるような固定観念は無用だ。レーシングカーデザイナーは、全ての常識を捨て去り、柔軟な発想で速さに迫る必要がある。それを顕著に表しているのが、スーパーフォーミュラのパドルクラッチのような気がしてならない。
スーパーフォーミュラマシンのクラッチ操作は、手動である。両手の指で、まるでバイクを発進させるときのように、指先の感覚を頼りにクラッチミートする必要がある。
ただし、バイクとは異なり、操作方法は特殊だ。そのあたりを、2015年と2017年の二度にわたりスーパーフォーミュラ年間チャンピオンに輝いた石浦宏明選手に解説してもらうことにした。場所はスーパーフォーミュラ富士戦の予選直後のピットである。走行直後だったからエンジンの熱はまだ冷めてはいなかった。たった今まで走っていた生々しいマシンに乗り込んでの解説を受けることになった。
本来ならば実際にコース上に乗り出してスタート体験をするつもりだったが、たとえドライバー本人ではない僕であってもテスト回数制限に抵触する可能がある。というわけで、ピットでの体験になったのは残念だが、それでも、レースのからくりが一つ解明できたことは収穫である。
マシンはダラーラSF19。エンジンはトヨタ製。チームは、2015年から3年連続で年間チャンピオンを獲得したセルモだ。取材対象としてこれ以上はない。

極秘事項はモザイクと“ピー”で

「撮影禁止の極秘個所はある?」
「いえいえ、やましいことはなにもしてませんので…(笑)」
目の前には、いま予選を終えたばかりのマシンがまだ熱を帯びているというのに、リラックスした雰囲気が漂うのは、石浦宏明という男の人柄によるものだろう。予選直後であり、メカニックは忙しく整備に没頭している。なのに、ピットに漂う空気感がおだやかだ。それは最強チームの余裕であり貫禄である。
「クラッチ操作はむずかしいの?」
「いえいえ、ただ握ったパドルを離すだけですから簡単です(笑)」
レーシングドライバーという人種は、決して難しいとは言わない癖がある。にわかに信じたらケガをする。
それでも確かに、スーパーフォーミュラマシンの特殊なシステムは、ミスなくスタートが完遂できるように開発されているように想像した。勝つためには、ドライバーのミスを減らし、無駄な操作から解放してあげる必要がある。操作が簡単であればあるほど、勝率が高まるからだ。
だがそれがかえって複雑な作業を要求するのも確かだ。その証拠に、レース中のドライバーは数々のスイッチやダイヤルを操作しながら戦わなければならない。スーパーフォーミュラのクラッチ操作が、足ではなく手の指先になったのもその表れだろう。

バスタブより狭く息が詰まる

コクピットに乗り込もうとすると、スタッフが脚立を添えてくれた。ドライバーを守るためのガード(ヘイローと呼ばれる)があるから、自宅の湯船に浸かる様に簡単には乗り込むわけにはいかない。まずは乗り込み用の台に足をかけ、大きく股を開いてボディシェルをまたぐ。骨太のヘイローを両手で握り、まるで体操選手が“鞍馬”に挑むかのようなアクロバティックな姿勢で乗りこむことになるのだ。
なんとかしてまずはシートの上に立つ。それから両足をまっすぐに伸ばしながら、“脚前挙”のような姿勢で、足先をペダルのある場所に導く。寝袋に潜る感覚に似ている。だから潜った後は、足を曲げる事も捻ることもままならない。
足元の空間はとても狭い。ブレーキとアクセルのペダルを2枚並べたらもう、それ以外の物を置くスペースはない。そう、つまり、スーパーフォーミュラマシンのクラッチが足元ではなく手元の操作になったのは、クラッチペダルを設置するスペースがそもそも足元になく、残された敷地はステアリングの裏にしかなったからだろうと思えるほど、足元の空間は狭いのである。
数年前の空力革命により、フォーミュラマシンはハイノーズになった。それまでの、「空気をフロア下に取り入れると浮き上がる…」という考え方から脱却し、フロア下に空気を掻き集め高速で流すことにより戦闘力を高める手法になった。そのために、ドライバーの足元は持ち上げられた。実際に座ると、湯船の縁に頭と両脚をのせながら、そのまま転寝をしてしまいそうな極楽な姿勢になる。
そんなだから、ドライビング姿勢はほぼ寝ている。リビングのソファーでくつろぎながらテレビでも鑑賞しているかのよう。首の力を抜いたら天を仰ぐようになる。顎を引いて、強引にコースを見やる感覚である。
生死をかけて極限で戦う陸上の戦闘機のパイロットが、バスタブでくつろぐような姿勢でいることが不思議に思えた。

ただひたすら狭い

とはいえ、バスタブとは異なる。寝たような姿勢でいながらも、左右の空間は狭い。肘を張る余裕はない。フォーミュラマシンの常で、座ったら最後、自らシートベルトを締めることは不可能だ。肘を張るスペースがないから、自分のヘソに触れることができないのである。足先と同じ様に、両腕は真っ直ぐに伸ばすしか所在がない。
伸ばした両手のその位置に、航空機の操縦桿の様なステアリングがある。導かれるようにして触れると、一瞬にして手に馴染んだ。ステアリングパッドに設置された夥しい数のカラフルなスイッチ類の意味や操作方法は、入念なコクピットドリルを授からないと分からないし、たとえレクチャーを受けても簡単には憶えられない。だが、伸ばした両手にステアリングが馴染み、親指を巡らせば、レース中に必要ないスイッチのどこかに届くという点では、理に適っている。
特に、左親指が自然に馴染むその位置にある赤い「OVER」ボタンは、レース中に100秒だけ使用が許されるオーバーテイクスイッチである。それが作動している瞬間は、燃料がパワーモードに移行し、約50馬力パワーアップする。
ちなみに、僕にとってドライビングポジションは見事に適切だった。まるでシート合わせをしたかのようだったし、このまま走り出してしまいたくなった。つまりそれは、長身の石浦宏明選手にとってはステアリングが近いのではないかという心配でもある。その理由は、安全規定によるという。クラッシュの際にはヘイローよりも先にステアリングに頭を打ち付ける位置にならなければならないとされているらしい。だからその位置なのだ。

着座して見ると、ヘイローは異様なほど存在を誇示する。明らかに視界の邪魔になると思えた。だが、石浦宏明選手によると、全く気にならないと言う。そもそもヘルメットを被ると、ヘイローの横軸はバイザーと重なり視界から消える。縦軸は目に入っているものの、意識には入らない。集中力の前では、存在すら消えるのである。

さて、肝心のクラッチパドルは、ステアリング裏側の左右に、両手の薬指と小指が触れる位置にある。パドルが、両手の人差し指と中指が触れる位置にあるのだ。
その上の、人差し指や中指が触れる位置にあるのはシフトチェンジ用のパドルである。右がシフトアップで左がシフトダウンのためのものだ。クラッチ操作のためのパドルは、その下にあるというわけだ。つまり、ステアリングを裏からみれば、アゲハチョウのように4枚の大小の羽根が組み込まれている。
シフトチェンジ用パドルは異様に小さい。チューイングガムサイズの薄い板に似ている。クラッチ用パドルはさらに小さくて、切手サイズである。
そう、ここで「あれっ」って驚かれた人もおられよう。クラッチ用パドルは、ステアリングの裏側に左右一対で2枚ある。クラッチが2枚? それがスーパーフォーミュラマシンの特殊なところ。左のクラッチパドルはクラッチを切るかつなげるかの役割をもつ。右のクラッチパドルは、半クラッチ状態のコントロールを担う。ピットスタートやスピンからのリスタートではまた別のオペレーションとなるものの、スタンディングスタートではその2枚のパドルを操りきらねばならないのだ。
「クラッチ操作はむずかしいの?」と質問した僕に、石浦宏明選手は「いえいえ、ただ握ったパドルを離すだけですから簡単です」といった。それはやっぱりウソだったのである(笑)。慣れを要することは明白であろう。

ドライバーの目線で、スタートの手順を紹介しよう

スターティンググリッドに着く直前に、左のクラッチパドルを握る。これでクラッチが切れた状態になる。ゆえにエンストはしない。
グリッドでシグナルがブラックアウトになるのを待つ。
ステアリング上の「START」ボタンを押し、スタートモードにセットする。
右のクラッチパドルも引く。
右手の中指で変速用パドルを引いて1速にエンゲージ。この段階で、正面のシフトポジションインジケーター「1」が点灯しているはずだ。
左足でブレーキペダルを踏み込む。
右足でアクセルペダルを、適度に踏みこむ。エンジン回転は、あらかじめ設定した状態でキープされる。回転リミッターが作動しているのだ。

ここからがハイライトだ。
シグナルがブラックアウト。
その瞬間に、左側のクラッチ用パドルを、一気にリリース。マシンは動き出す。ただし、この段階では、半クラッチ状態だ。過大なホイースピンはしない。
マシンが動き出し、タイヤが路面をとらえ始めたら、素早く右側のクラッチ用パドルをリリースする。その加減はドライバーの右指にゆだねられる。頃合いをみて全リリース。これでクラッチは全て繋がったことになり、マシンは全開加速モードになる。つまり、スタートの合図が振り下ろされたのならば、まずは左側のパドルを一気に離し、マシンのリアタイヤが路面を捉え始めた瞬間を見計らって右側のパドルをゆるやかに離す。あとはライバルを牽制しながら1コーナーを目指せばいいというわけだ。

ちなみに、適切な半クラッチ状態になるために予めコンピューターに、リリース加減をインプットしておく必要がある。タイヤのグリップ力とクラッチの圧着力とのバランスにより最適なスタートを切るためには、事前のプログラミングが勝負の分かれ道となるのだ。
決勝日早朝のフリー走行直後に、グリッドでのスタート練習が許される。あるいはプラクティスやクォリファイでのコースインのたびに、ピットエンドでスタートシミュレーションを繰り返す。
スタートの善し悪しを決めるのは、そのプログラミングの精度次第であり、スターティンググリッドに止まるまでのフォーメーションラップで、ドライバーが想定したタイヤ温度に合わせることが出来るかにかかっている。バーンナウトの回数、タイヤ空転の加減、そのときの路面温度など、すべてを計算しつつ、シミュレーションとの再現性を高めるところが勝負だ。タイヤ温度計はないから、感覚が頼りでもある。

一方で、スーパーフォーミュラマシンは、エンストしないような制御が組み込まれている。レース用クラッチはミートがとてもシビアでありエンストも珍しくはない。特に外部スターターシステムのスーパーフォーミュラは、一度エンストすると自力では始動が不可能だ。そのための保険システムなのである。
「アンチストールシステム」と呼ばれるのがそれで、急激な回転の落ち込みや、スピンをセンシングすると、自動的にクラッチを切るように設定されている。
あたかもスタートでエンストしたかのように失速する場面は実はエンストではなく、アンチストールによりクラッチが開放になり、再スタートの手順を整えるためにドライバーが右往左往している時間なのである。
コース上でスピンして再スタートしない場面もある。それも同様にエンストではなく、再スタートを試みる場面で、慌てるがあまり発進でミスしたことによるのだ。

スーパーフォーミュラは、特殊なクラッチシステムが採用されている。エンストはしないとはいうものの、それは適切な操作があってこそである。最適なスリップ率でスタートが可能だといっても、それまでの準備が決め手となる。そう思ってみると、日曜日朝のスタート練習や、飽きることなく繰り返されるピットアウトやバーンナウトも、とても意味のあることに思えてくる。
レース決勝日の早朝、ちょっと早起きして、スタート練習を観察してみようと思う。

キノシタの近況

ブランパンGTワールドチャレンジアジア富士ラウンドは、これ以上ないという厳しい性能調整が突きつけられ苦戦した。それでも予選から決勝までをまとめることができたのはチームの総合力である。ポイントリーダーの地位は死守したものの、苦戦はつづく。だから観ていて楽しいと思うよ。次戦は韓国ラウンドです。