レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

249LAP2019.8.7

サーキットの喧噪の中、耳に届く無音の音

一旦コース上に送り出されると、ドライバーは孤独である。そこで起こる出来事のすべては、ドライバーが自から解決しなければならない。だが、本当に孤独なのだろうか。ドライバーはチームスタッフと繋がっている。見えない電波の先には、多くの仲間がいる。気持ちは結びついているのだ。ヘッドセットを耳にした瞬間に広がる独特の世界観を、木下隆之が語る。

チームのココロを一つにしているのは…

ピットに設えた専用コンテナに、十数個のヘッドセットが並んでいる。次の走行に備えて、充電されているのだ。
ヘッドセットのイヤーカバーには、それぞれに名前が記されている。我々BMW Team Studieのそれには、誇らしげにBMWのエンブレムがプリントされている。
走行開始約30分前、チームスタッフがそれぞれの持ち場に分かれていく。
メカニックは、耐火スーツに袖を通し、ヘルメットを被る。自分の名前が記されたヘッドセットを奪い取るようにして耳に当てる。腰ベルトに括り付けた無線本体のスイッチをオン。離れたメンバーと目配せをする。そしてうなずきあう。無線が正しく交信されているかを確認しているのだ。その様子に萌える。それまでは和やかに語らい合い、時にはたわいもない会話に笑い合っていたメンバーが、ヘッドセットをした瞬間に仕事人の表情になる。

サインガードには、チーム戦略を握るメンバーが揃っている。それぞれが、それぞれの名を記したヘッドセットをしている。爆音に包まれたサーキットでは、無線を通じて語られる情報が最優先される。サインガードには数々のモニターが並んでいる。そこから得た情報を頼りに、マシンを勝利へ導くのだ。

実はピットの奥、ひと目にさらされないエリアにチーム戦略をつかさどるメンバーが待機している。マシンの状況をリアルタイムで管理するためには、サインガードの情報だけでは足りず、ピット内に設置された、いわば戦略室のメンバーが補う。彼らも皆、ヘッドセットをしている。

いよいよスタートです

ヘッドセットをしたドライバーマネージャーが歩み寄ってくる。
「あと、10分で走行開始です」
ピットの奥底の人目を避けた控室で集中力を高めていると、彼女がそうやって進行状況を伝えてくる。それが合図となり、僕らドライバーは一旦大きく深呼吸をして、レーシングギアを整えるのだ。
レーシングスーツを着る。そしてまず、イヤープラグを耳に装着する。イヤープラグは、自分の耳の形状を型取りしたシリコンに組み込まれている。それはぴったりと隙間なく耳を覆うため、一切の雑音が遮断される。
バラクラバスを被る。ヘルメットを被る。あご紐を締める。ハンスシステムを背負う。ハンスシステムとヘルメットを繋げる。不測のクラッシュに備え、頸椎の損傷から守るためだ。そしてイヤープラグと、ヘルメットに内蔵された無線ジャックを繋ぐ。
マネージャーが、無線ジャックとの接続部分をテープでとめる。何かの拍子に、無線ジャックが外れてしまうのを防ぐのだ。無線が不通になったら、レースに大きな支障を来す。それほど無線交信が命綱なのだ。

イヤープラグに耳を塞がれたとたんに、外界の音が遮断される。その瞬間に脳内が一点に集中する。普段いかに、集中力を削ぐ音に溺れているかを納得する。
自分の息づかいが、これほどまで感情に影響して変化することにも驚かされる。
「スー、ハー、スー、ハー…」
まだ僕の無線システムだけは作動していない。ただ、耳栓をしただけ。だというのに、まるでマイクを通じて自分の口が発する音や雑音を耳に伝えているかのように錯覚する。
骨伝導というらしい。口が発した声が空気を伝わって鼓膜を振動させ、声帯の振動が頭蓋骨に伝わる。聴覚神経に伝達するのではなく、聴覚神経への直接的な刺激なのだ。
いったん空気を介在していない分、それが本当の僕の声のような気がする。息づかいが感情を表現しているように感じるのは、いつもの外から耳に届くウソの声ではなく、僕の中の僕だけにしか聞こえない本当の響きだからなのだろう。
「あと5分で走行開始です」
一切の音が遮断されたことが、僕を無防備にする。周りで何が起きているかがわからないことで、人は人を頼りにする。
「はい、それじゃ乗り込もうかな」
「お願いします」

無音の中で感情が交錯する

マシンに乗り込む。シートをアジャストしたらまず、マシンに備え付けられているジャックに無線システムを繋ぐことから始まる。
情報が遮断されたことで精神集中を意識していながら、一刻も早く、情報が遮断されていることへの不安から逃れたいからだ。
ステアリング上の「RADIO」のスイッチを押す。すると、ブチブチっと小さな芥子粒のような雑音が耳元を駆け回った直後、サーっとデジタルな無音になる。
無音なのに音がある。
走行中はヘルメットを被っている。だから、イヤープラグとはいえ、オーバーヘッドタイプのように密閉されていながら空間がある。それが独特の広がりを意識させる。果てしない世界観を作り出してくれているのだ。

無音なのに、メンバーの感情が伝わってくるような気がするから不思議だ。小さく呟いても、僕の意思が相手に伝わる不思議。遠く離れているのに、まるで耳元で囁かれているように感じることの不思議。声帯から発せられた音を記号として伝えるのではなく、言語とは異質の「気持ち」として、鼓膜にではなく、ハートに直接伝えてくれているように感じる。

「イッキさん、そろそろエンジン掛けようか?」
コースイン直前、エンジン始動のタイミングを問いかけると、チームメカがうなずく。
とてもあたりまえのことなのだが、その瞬間に繋がっていることの喜びを感じる。
「コースオープン30秒前です。コースインしてください」
「嫌だ〜」
すると、森メカが笑う。
「頑張ってください」
「嫌だ〜」
「子供かっ」
繋がっていることを実感するために、ボケることもある。

レース中の無線交信は、僕の場合は比較的少ない方だと思う。レースに必要最低限の情報交換しか必要としないからだ。
ただし、その必要があれば、場所やタイミングは問わない。監督の指示が的確だったことに感謝するために、スタートが決まった瞬間に、真横にライバルが寄せてきているにもかかわらず「ありがとう〜」って叫んで、あとで笑われたこともあった。鈴鹿の予選アタック中のS字コーナーで、タイヤの発熱のミスを報告したこともあった。時速200km/hでも、限界コーナリング中でも、無線を通じて繋がっている安心感が、僕を常に平常心でいさせてくれるのだ。
チームからの応答はなかった。だが、伝わっていることは理解している。応答がないことは、信頼して見守ってくれていることの証なのだ。
時には「お腹がへった」と、その情報が必要かどうかの判断ができずに口にしてしまうことがあるのは、無線のせいだと思う。

走行中に無線を通じて届けられる、チームからのコメントは基本的に優しい。この時だけは、腫れ物に触るようにしてドライバーに接してくれる。タイムが良ければ褒めてくれるし、悪ければ鼓舞してくれる。言葉を選んでいることが伝わるからこそ、音という記号ではなく、感情の言語化として認識するのだろう。そんな気持ちを届けてくれる無線システムが嫌いなわけがない。

ドライバーは、孤独の中で戦っているといえるのかもしれない。走り出してしまえば、コース上でできることのすべてがドライバーに委ねられる。だが、一度も孤独なんて感じたことはないのは、無線を通じてすべてが繋がっているからなのだと思う。
それが証拠に、ピットからの無線交信が途絶えてしまう、鈴鹿のスプーンコーナーや、ニュルブルクリンクの遠く離れたセクションでは不安になることがある。その区間だけは、誰とも繋がっていないからであろう。

マシンですら感情を持つ生き物になる

相方にステアリングを託しているときには、サインガードに立つことがある。オーバーヘッド型の無線を被り、戦況を見守るのだ。基本的に僕がつぶやくことはないが、戦況を知るにはチームとの交信を傍受する必要があるからだ。
一方的に聞くだけ。有事に備えて。
レース用ヘッドセットは、いわゆるオーバーヘッド型である。分厚く強力なヘッドバンドを頭にかぶり、左右のスピーカーポックスで構成されている武骨なタイプである。
だから音質が良い。しかも、鼓膜に接するように近いポイントで小さなスピーカーが響くのではなく、耳全体を覆うタイプだから、密閉していながらも空間がある。それが独特の音質を届けてくれるのだ。
その空間は極めて小さく、お猪口いっぱい分にも満たない空間だけれど、その先に宇宙のような広がりを意識する。
目の前のストレートでマシンが疾走する。時速270km/hで爆音を響かせている。だというのに、密閉性の高いヘッドセットが雑音を遮断してくれるから鼓膜にうるさくはない。
それでいて、エンジンのバルブが激しく叩く音や、カムがのるサウンドがはっきりと聞こえるような気がする。まるで、エンジンが感情を持った生き物のように感じるから不思議である。時にはなげき苦しみ、時には狂喜乱舞しているように聞えるのだ。身体に染み入るイヤフォンのような音ではなく、身体を包みこむような音なのだ。そのまま身を委ねて眠りたいとさえ思うことがある。

さて今週も、ヘッドセットの世界を味わうべく、サーキットに向かうことにする。

キノシタの近況

ブランパンGTワールドチャレンジアジア第5ラウンド韓国戦は、第1レース4位。第2レースが優勝。最終上海戦を待たずしてドライバーズタイトルを獲得した。昨年のシリーズ2位で泣いた雪辱を晴らしたことになる。となると最終戦は、ターゲットはGT3か? ともあれ、応援ありがとうございました。