レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

250LAP2019.8.21

ニキ・ラウダ写真展を観て思うこと

7月14日、スーパーフォーミュラの取材で富士スピードウェイにいた木下隆之は、サーキットの片隅で開催されていた「ニキ・ラウダ展」に気持ちが吸い寄せられたという。その場所はピットビルA棟のもっとも1コーナー寄りにある34番ピットであった。2019年5月20日に他界が報じられた伝説のF1ドライバー「ニキ・ラウダ」を偲んで企画された写真展なのである。日本人でもなく、日本に籍を置いたわけでもなく、こう言ってよければ、1度だけ富士スピードウェイを走ったにすぎないトライバーの写真展が企画されたことは不思議である。さらにいえば、豪雨に見舞われたそのレースでは2周を走ったにすぎず、自らコクピットを降りているのだ。そんなドライバーの写真展が開催されていたのだから、ニキ・ラウダというドライバーはまさに伝説に残る存在だったのだろう。 写真展のサブタイトルは、こうだった。 「ニキ・ラウダ 最初で最後のF1 in JAPAN」 木下隆之が思いを語る。

不死鳥伝説の数々

1949年2月22日、ニキ・ラウダは製紙工場オーナー家の長男としてオーストリアで生まれる。1966年、17歳のときにニュルブルクリンクでのF1ドイツGP観戦に刺激され、レーシングドライバーを志す。その後順調にステップアップしたラウダは、1971年にマーチからF1デビュー。1985年の引退までに、通算25回のF1優勝、54回のF1表彰台、24回のポールポジション、24回のファーステストを記録、3度のF1のシリーズチャンピンに輝いているのだ。
F1チャンピオンを獲得したのは1975年のフェラーリ312T、1977年のフェラーリ312T、そして1984年のマクラーレンMP4/2Bである。

そんな中、ニキ・ラウダというドライバーの存在を確立させたのは、1976年、彼の身の回りに起きた数々の出来事が衝撃的過ぎたからに違いない。この年にラウダはマレーネ・クラウスと結婚。第9戦のイギリスGPまでに5勝をあげ、ポイントリーダーとして選手権をリードしていた。だがニュルブルクリンクで開催された第10戦のドイツGPで大クラッシュ、頭部と肺に大火傷を負った。結婚という男性としての絶頂期と、ポイントリーダーというドライバーとしての絶頂期を同時に過ごしていながら、急転直下、瀕死の重傷を負ったのである。
だが、ニキ・ラウダ伝説はそれだけで終わらなかった。事故からわずか6週間しか経過していないというのに、第13戦イタリアGPで復帰したのである。一般的に想像できるのは、事故がトラウマとなり引退するか、あるいは復帰したとしても、かつての速さを失っているかであろう。だがラウダは、復帰レースで4位に入賞してしまったというから鉄人である。ドライビングテクニックはもちろんのこと、タフな精神力は想像を絶する。
さらなる逸話は、富士で生まれた。第10戦で大火傷を負い、第13戦で復帰入賞をしたその年の最終戦日本GPは、豪雨に見舞われた。そのレースでタイトルが決まるにもかかわらず、「リスクが大きすぎる」とし言い残してマシンを降りてしまったのだ。彼にとって、これほど波乱万丈のレースシーズンも珍しかったに違いない。
そもそも、1975年に世界王者に輝いた翌年に結婚と大事故を経験し、その年にレース復帰、最終戦富士で棄権、その翌年の1977年にはまた世界王者に返り咲いているのである。この3年間に、ニキ・ラウダというドライバーの伝説が形になったといっていい。

難攻不落のノルドシュライフェで…

そして僕は、写真展に掲げられていた一枚の写真に魅せられた。フェラーリ312Tを駆るラウダが、ニュルブルクリングのジャンピングスポットで豪快に飛んでいるシーンである。明らかに4輪が路面から浮き上がっている。しかも、着地の瞬間であることが、カウンターステアがあたっていることでわかる。ステアリングを持つ手がかすかに確認できる。そこから想像するに、ステアリング上で90度。10時の位置で握っていたであろう左手が、1時の位置にある。首の角度も、視点を水平に保とうと傾げている。仰角の立った前後の巨大なウイングにより強烈なダウンフォースを得ているはずのF1マシンが、離陸するほどの速度であることを思うと身震いするのだ。
その写真には、彼のコメントが添えられていた。
以下は、抜粋である。
「ただ飛ぶだけなく、着地地点で当てるカウンターステアが次のコーナーへの切り込み方向になるようにラインを選んでいることを著書の中で明かしている。ここを好きなコーナーと言ったのは、右から行くか左から行くか迷うけれど、見えなくても怖い右からジャンプすると、タイムが稼げるから。みんな怖がってそうしないので、ここは差をつけられるから好きといったけれど、結果がいいから好きなだけで、出来ればみんなと同じラインを走りたい」(原文ママ)
本当は怖いのだ。怖いけれど、ライバルよりも速く走るために怖い道を選んでいるのである。戦うレーサーとはこのことをいうのだと思う。
それでいて豪雨の富士では、自ら危険を感じてレースを放棄している。彼の中では常人には理解出来ない思考が渦巻いているに違いない。

僕がニュルブルクリンク24時間レースに初めて参戦したのは、1990年である。まず最初に腰を抜かしかけたのは、今でも通称「ラウダコーナー」と伝えられている例の大事故のコーナーが独特の暗さに包まれていたことである。樹木は生いしげり、陽の光は遮られている。ある種の、背筋にスーッと冷たい汗が流れるような負のオーラに包まれている。路面は急激に下っており、左直角に折れている。
おそらくこの高速コーナーを、ラウダはアクセル全開で抜けようとしたに違いない。ライバルが二の足を踏んで、アクセルを緩めていたであろうそのコーナーを、スロットル全開のまま挑んだに違いない。勝つためには恐怖心すら制御できるラウダがそこにいたはずなのだ。

才能は多彩に…

一方で僕は、F1という世界のスケールの大きさに度肝を抜かされた。その切っ掛けになったのが、彼が現役時代の1978年にラウダ航空を設立したことである。
現役のアスリートが、航空会社を設立するなどとは到底想像が及ばなかった。引退後の第二の人生のために備えていたのか、あるいはもともと金が唸るほどの資産家だったのか、ともかく、レースに対してあれほどの集中力を注いでいながら、一方で航空会社を経営するなど、彼の思考の全ては常人には想像できない。
脚色もあろうが、「ラウダがこのレースでどうしても勝ちたかったのは、その賞金でラウダ航空の赤字を補填するためだ」とか「オーストリア航空を買収するために賞金を稼いでいる」とか、ケタ違いの憶測にあんぐりと口を開けたものである。
真意の程は曖昧だけれど、ラウダのスケールの大きさから、あながち嘘ではなさそうに思った。それほど存在が超越していたのである。
実際に、1991年にはラウダ航空が所有するボーイング767が墜落事故を起こしオーストリア航空に経営権を売却するという危機を迎えたが、2003年にニキ航空を設立することで再び航空業界に復帰した。その後2011年にエア・ベルリンの社外取締役に就任。2016年にはビジネスジェットの「AMIRA Air」を買収するなど、次々に企業家としての手腕も発揮していった。
もちろん、フェラーリF1チームのアドバイザーを含め、引退後もF1界に欠かせない存在として君臨した。

富士スピードウェイの34番ピットで開催されていた「ニキ・ラウダ写真展」は、ある意味ひっそりと静かな雰囲気に包まれていた。その日のメインレースはスーパーフォーミュラであり、本コース上では国内最速のバトルが展開されていたのだ。そのなかにはF1を目指す若者も少なくない。
そんな若獅子のバトルをそっと見守るように、オーストリア国籍の彼の追悼写真展が、遠く離れた極東の静岡県で開催されることの意味がそこにある。

キノシタの近況

みなさまのお盆休みは如何でしたか?台風10号が日本列島を襲ったので、計画ダダツブレでお嘆きの方も多かったに違いない。何を隠そうこのぼくも、せっかくのクルージングも延期で意気消沈。だけど、台風が過ぎ去ると好天が続いた事で、個人的な海開きになりました。やっぱり夏は良いですね。