レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

253LAP2019.10.9

コーナーは真っ直ぐ走る

1980年代後半~90年代前半のモータースポーツ黄金期、日産契約ドライバーの鼻息が荒かった時代がある。砂子義一、高橋国光、北野元、長谷見昌弘、星野一義…。数多くの武闘派ドライバーが数々の伝説を刻み続けた。その中のひとり都平健二も輝かしい成績を残した。スカイラインGT-Rの50連勝を支え、伝説の日産R382をドライブした。ただ、都平健二の武勇伝はそれだけにはとどまらない。かつて都平健二のパートナーとして起用された木下隆之が、時代を華やかに彩った昭和ドライバーの武勇の数々を語る。

「スカイラインGT-Rのドライバーとして都平健二さんとコンビを組んでもらいます」
たしか正月気分がまだ抜けきらない1月のことだったと思う。当時日産契約ドライバーだった僕は、1990年の参戦体制を告げられるためにニスモの応接室に呼ばれており、その席でそう告げられたのである。マシンはスカイラインGT-Rだと言う。
今でもそのときの痺れるような感覚は薄れていない。今年はどんな体制を言い渡されるのだろうか…という期待にはことさら驚かされることはなかったものの、都平健二という名ドライバーの名を告げられると心臓がキュンとなった。都平健二さんと組むということは日産の看板を背負うことと同意であり、勝つことが命題となる。いわばそれはワークスドライバーとして認められたことでもある。いつかは掴みたかった憧れのシートなのだ。
だが、その一方で、尻込みしかけたのも事実。というのも、都平健二さんは、かつての日産契約ドライバーの多くがそうであったように、武闘派だったからである。鉄拳制裁も少なくないからだ。

それまでの都平健二さんは、気の優しい先輩ドライバーだった。いつも笑いに溢れており、何事も包み隠さずにアドバイスしてくれた。とても頼りになるドライバーではあった。だがそれは、僕が日産の後輩であり、直接競い合う関係ではなかったからに他ならない。それが一転してライバル関係になり、あるいは1台のマシンを走らせる立場になれば話は別だ。厳しさを増すのではないかと身構えたのである。
だが、かつては命を賭けた戦いの世界に身を置き、命を失うことなく活躍し続けた都平健二というドライバーの背中を間近で観察できたことは、僕の人生を正しく動かした。
1990年の第二世代のスカイラインGT-RはN1耐久であり、デビューレースを僕と都平健二さんにステアリングが託された。スパ・フランコルシャン24時間遠征も都平健二さんとのコンビで優勝している。一方で、WRCパルサーGTI-Rの開発テストもふたりでつとめた。数々のマシンを二人で走らせてきたのだ。

言動のひとつひとつが直接的で、行動のひとつひとつが勝利への欲求に満たされており、皺を寄せて笑う表情や、出身地である茨城県・水戸弁のイントネーションを隠さずに語る言葉の数々が、僕にとってのバイブルになった。
先日、2年ぶりに、すでにレースを引退している都平健二さんに会うことができた。プリンス&スカイラインミュウジアムに招待され、都平健二さんとステージに立ったのである。
表情は丸くなったけれど、かつての武闘派の面影は1ミリも薄れてはいなかった。今だから話せるマル秘話も、人目をはばからずに披露してくださった。こっちがヒヤヒヤしてしまうほどのストレートな言い回しは、いまでも都平健二健在を物語っていた。

他人には厳しかった(笑)

「JSS時代は全戦ポール トゥ ウィンでしたね」
「一度だけ負けそうになったけれど、いつも勝っていたなぁ」
かつて富士スピードウェイで開催されていたJSS(ジャパン・スーパースポーツ・セダン)レースは、オーバーフェンダーで武装したハイパワーターボマシンが競っていた。実質的にはスカイラインRSターボとサバンナRX-7にしか勝利の権利はなく、そのなかでも都平健二さんが操るマシンが圧倒的な速さと強さを発揮していたのだ。
「それでも、一度だけライバルが速かったのですね」
「そうだったんだよな。だって、奴らがエンジンに別のタービンを組み込んできやがった」
「ほんとうですか?」
「だから、懲らしめてやったんだ」
語尾をちょっと持ちあげるのは水戸をはじめとする茨城県出身特有のイントネーションである。
「懲らしめる?」
「レースが終わって、エンジン見せろって言ったら、嫌がりやがった。だからコラ〜ッてね」
「ぶん殴っちゃった?」
「だってあいつら怪しいことしやがったからなぁ」
「なんで怪しく思ったんですか?」
「そりゃすぐに分かるよ、俺も凄いタービンを組んでいたのに、それより速いんだから、こりゃズルイだろうって」
それはズルではなく、ライバルのエンジニアが努力した結果なのですが(笑)。

休憩するには…

WRCパルサーGTI-Rの開発テストは、市販車のパルサーデビュー2年前から極秘に行なわれていた。スクープカメラから逃れるために、開発テストは陽が落ちた午後8時からであり、陽が昇る午前6時まで続く。その時間を、熊か鹿しかいないような山の中、僕らふたりは交代で走り続けたのである。
いわばダートトライアルを続けているようなものである。身体はボロボロになる。唯一の休憩できるのは、マシンのセット変更の間や、トラブルシューティングの時間だけである。
ある日の深夜、僕らはクタクタに疲れていた。
「もう、身体がボロボロです。カウンターステアをあてる体力すら残っていません」
「もう、2時間も走っているからなぁ」
「ちょっと休憩させてほしいです」
すると都平健二さんが僕にこう呟いた。
「木下く〜ん、ストレートに岩が出てるな〜」
「はい、路面の土が削れてきたので、尖った岩が突き出ています」
「それを避けて走っているよなぁ」
「はい、それを踏んだらマシンが壊れますよね。たぶん」
「壊れるかどうか、やってみないと分からないぞ〜?」
「でも…」
僕はその命令とも提案ともとれる優しい誘いによって岩にトライしてみた。するとサスペンションは大破し、修復のために数時間の休みができた。

マシンを鍛えるということ…

それにも後日談がある。
「あれはサボるためにやったんじゃないぞ。開発テストのためだぞ。誤解しちゃ、だめだぞ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだぁ。メカニックは仕事を減らしたいからトラブルは嫌がるよなぁ。彼らが会社に戻って壊れたって報告すると上司に怒られるよなぁ。だから、なるべく壊さないように丁寧に走って欲しいとなる。だけど、それじゃ開発テストにならない。WRCはサファリを4000kmも走るんだぞ。あんな岩くらいで壊れちゃダメなんだぞ。だから鍛えてやらないとダメなんだぞ。難波社長から、壊してこいって言われてるんだ」
ともすれば嫌われ役になっても、テストの本質を突き詰めるのがワークスドライバーの正しい姿だと教えられた。そして同時に、それを理解してくれる幹部がいることにも嬉しくなった。マシンを鍛えてくれと指示していながら、いざトラブルが発生するとドライバーの走りが粗いと責任転嫁するエンジニアが多い中、日産契約の強固な結びつきを心地良く思った。

恐怖から逃げまどう

ある日、都平健二さんのその丸太のように太い二の腕で、ぶん殴られそうになったことがある。それは、筑波サーキットを占有して行われていたレース用スカイラインGT-R開発テストの時である。
同じ仕様のマシンが2台準備されていた。僕と都平健二さんがそれぞれに分かれて、それぞれのテストメニューを消化していたのだ。だがあるとき、都平健二さんがキレた。マシンを降りた僕に真っ赤な顔を突きつけたのだ。
「キノシタ〜、汚ねぇことするんじゃねぇ」
キレた理由はこうだ。
2台のマシンで別メニューをこなしていた。サスペンションテストは都平健二さんが担当して、僕はエンジンの仕様選定に取り組んでいた。
そんななか、エンジン担当エンジニアが僕にこう進言した。
「8000rpmまで回していいですから、ダンロップコーナーを2速で走ってくれませんか」
それまでコーナー手前でギアを3速に上げて走行していた。8000rpmまで許されるならばタイムが短縮することは分かっていたけれど、過回転でのダメージを嫌っていたからである。それは都平健二さんとの申し合わせでもあった。
だがぼくは、申し合わせの回転数を超えて走るように指示されたことが都平健二さんにも伝わっているものと信じ、担当エンジンニアの指示どおり、僕は8000rpmまで回転を上げて走行した。するとタイムが0.5秒縮まった。
だが、それを見ていた都平健二さんが激怒した。都平健二さんには、僕がエンジニアの指示で8000rpmを上限として走らせたことを伝えていなかったのである。
それからは、時代劇さながらの大捕り物帳である。
「すぐに、逃げたほうがいい」
エンジニアのその声に反応して僕はダッシュした。すると都平健二さんも追って来た。パドックの小さな建家の裏に隠れた。都平健二さんが迫って来た。
「どこに隠れやがった〜」
怒りの声がパドックに響き渡った。僕はその声の発信源を頼りに、建屋を右に回ったり左に回ったりをしながら身を隠した。そしてある瞬間を狙って、1コーナーを貫く地下トンネルを潜ってサーキットの外に逃げた。それから数時間、レーシングガレージ「メッカ」の倉庫の中で、怯える仔猫のように息を潜めたのである。
その顛末を、数十年ぶりに都平健二さんに笑いながら伝えると、優しい笑顔を浮かべてこう言った。
「覚えてないなぁ〜」
都合の悪いことは忘れてしまうのである。(笑)

ドライビングスタイルの決定的な違い

筑波テストの事件に関しては前段がある。
いくらコースを占有しているとはいえ、2台が1周2kmのコースを走ると、時にはマシンがクロスする事がある。
ある周のこと、前方に都平健二さんがステアリングを握るマシン迫ってきた。僕は履き替えたばかりの新品タイヤで走行を開始したところであり、都平健二さんは摩耗の進んだタイヤで周回を重ねていた。僕のペースが上回っていたのである。
1コーナーの立ち上がりで僕は都平健二さんの後ろに迫った。前後に連結したままS字を抜けた。ヘアピンに進入した。すると都平健二さんはイン側のラインを大きくあけた。僕にラインを譲ってくれたのである。レースではないから競い合う必要はなかった。お互いのメニューに障害がない範囲で、譲り合いながらテストを進めるのがセオリーなのだ。僕は遠慮することなく、エイペックス目掛けて進入した。
すると…。
僕にイン側のラインを譲るようにしてアウトに進路をとった都平健二さんが、きびすを返して振りかえり、僕が今目指そうとしていたエイペックスに突進してきたのである。
わ!正面衝突か?
アウト側縁石ギリギリで向きを変え、まるでフルターンをするようにコーナーを抉ろうとする都平健二さんと、イン側にそのまま進入する僕とは、走行ラインが全く異なっていたのだ。
なんとか正面衝突を回避し、パドックにもどると都平健二さんは僕にこう言って驚かせた。
「木下くん、あそこは俺のラインだからな」
イン側をガラ空きにして僕に譲ってくれたと思っていた走行ラインは、実は都平健二さんのベストラインだったのである。
勝手な想像で判断するのならば、都平健二さんの時代はバイアスタイヤが全盛である。僕の時代はラジアルタイヤ隆盛。通称クロスプライタイヤは減速しながら曲がることや、あるいは旋回からの加速などを不得手としている。一方のラジアルタイヤは、ブレーキングしながらの旋回や、旋回からのアクセルオンにも耐えられる。ドライブスタイルの移行期だったのである。それがラインの大きな違いを生んだと考えられる。

いまだに熱狂的なファンが集まるのは、都平健二という男が魅力的で愛されているからであろう。

だからこその男の格言

都平健二さんの生きざまとドライビングスタイルを表す言葉がある。
「コーナーは真っ直ぐ走る」
「ブレーキは踏まない」
もはや説明は不要だろう。都平健二という男のまっすぐな思想がその言葉に表現されている。

キノシタの近況

プランパンGTアジアの全てのスケジュールが終了しました。ドライバーズランキング2位。チームランキング2位。不本意な結果でしたが、速さでは圧倒していました。これでBMW Team Studieとともに参戦したプランパンプロジェントは終了します。これまで応援ありがとうございました。これから就活が始まります…(笑)。