レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

255LAP2019.11.06

ニュルブルクリンクはレースオタクにとっても聖地なのだ

ニュルブルクリンクには、熱狂的なレースファン垂涎のファンキースポットが点在している。魅力はコースだけではないのだ。例えば、ごくありふれたガソリンスタンドや、とくに目立たないカフェさえも、木下隆之が親しく付き合う 異常なレースオタクはそこで大興奮するという。

お宝の数々

ニュルブルクリンク(ドイツ)は、ツーリングカーの聖地として名高い。我々TOYOTA GAZOO Racingが挑戦し続けていることからも想像できるように、走り屋の聖地なのだ。一方でニュルブルクリンクは、クルママニア、こう言ってよければ「クルマオタク」にとっても巡礼を欠かせない場所である。
通称北コース、ノルドシュライフェの名物ストレート「Dottinger Hohe」に平行して走る国道に、小さなガソリンスタンドがある。カフェと宿泊施設が併設された給油施設であり、ドイツの郊外のどこにでもある田舎町のガソリンスタンドだ。ドイツ名物のフランクフルトソーセージサンドが売られているのも、特に珍しくはない。
だが、この何の変哲もないガソリンスタンドが、特別な客を集める。それは、店の奥の目立たぬスペースに夥しい数のモデルカーが陳列され、購入可能なのである。
基本は43分の1のレジントップだ。世界に流通しているモデルカーが、ショーケースの中に保管されているのである。市販化されたばかりのモデルから、古き良き時代のレアモデルも少なくない。商品はちょっと乱雑に並んでいる。それがまたマニア心をくすぐる。ショーケースのガラスに頬を寄せながら、ひとつひとつ舐め回すようにしてお目当てのミニカーを捜し当てたのなら、店主に声を掛ければいい。
ニュルブルクリンクを訪れたときには必ず僕も、この店を覗くようにしている。というのも、僕もささやかながらモデルカーを収集しているからである。と言っても、手当たり次第に買い揃えるのではなく、自分がドライブしたマシンに限定しているのだ。モデルカーシヨップのどこにでも品揃えしているわけではないから、ここを訪れることになる。レア物の品揃えがいいからである。
そんなだから、世界から、ちょっと異常と思えるほどのモータースポーツマニアが訪れる。

職業柄とは言うけれど…

TOYOタイヤの世界耐久プロジェクトのドライバーとしてニュルブルクリンクを訪れた時に、チーフエンジニアである加トちゃん(加藤達也氏)とこの店を訪れた。そしてそこで、モータースポーツオタクの真髄を目の当たりにしたのだ。
加トちゃんは例によってガラスケースの中に並ぶミニカーに顔を寄せて、瞬きもせずに観察していた。
「あっ、マクラーレンのF1ですね」
銀色に赤なラインが入ったマシンを見つけて僕がそう言うと、加トちゃんは小さくブツブツとこう呟いた。
「2006年のマクラーレンMP4-21ですね。オフシーズンの開発モデルです」
「シーズンオフモデル?」
「はい、シーズンオフモデルです。というのは、このヘルメットのカラーリングは、ペドロ・デ・ラ・ロサですよね。しかも、ブリヂストンタイヤを履いています。このシーズンはミシュランで戦っていますから、開発テストのマシンだったことがわかるのです」
「…」
立て板に水の説明に僕は、あんぐりと口が開いたまま閉じることができなかった。

「じゃ、このマシンは?」
「マクラーレンMP4/5ですか?」
「セナプロの…」
マルボロカラーのマクラーレンだったら、さすがに僕にでも言い当てることができた。日本は第二期F1ブームに湧き立っており、その立役者がホンダエンジンの圧倒的な速さであり、A・セナとA・プロストを起用したマクラーレンMP4/5の快走だったからだ。
「1989年のイギリスグランプリのマシンですね」
「なぜ、イギリスGP仕様と?」
「この年のマクラーレンは空力性能に悩んでいました。ですので、ウイングの形状を巡って試行錯誤を繰り返していました」
「だから毎戦形状が異なる?」
「そうです。これはイギリスGPに持ち込んだウイングですよね」
「はあ…」
まるで、何かの教科書を読み聞かされているかのようだった。

ショーケースを巡っていると、あまり見掛けないマシンを発見した。1980年代前半だと思われるフォーミュラの形状をしており、オレンジのボディが印象的だった。
「こんなF1マシンもあったんですね」
初めて目にするマシンは個性的なフォルムをしており、僕の目を引いたのだ。
「キャラミかな…? 金曜日のマシンかもしれませんね」
「金曜日? どういう意味?」
「これは、金曜日に走ったマシンですね」
「はあ?」
「ウエットタイヤを履いていますからね」
「だからなぜ金曜日?」
「あの年の南アフリカ・キャラミはドライ路面で決勝を迎えています。ですが、金曜日はたしか小雨でした。土曜日から晴れたのです」
僕はもう、溜息すら口にすることができなくなった。
たしかにミニカーメーカーは、実際のマシンを採寸すると同時に、撮影した膨大なデータの中から抜粋して作品に再現するという。たまたまモデル開発者の琴線に響いたのが、キャラミのウェット仕様だったのだろう。
モータースポーツマニアである。もはや、「マニア」ではなく、尊敬の念をこめて「オタク」と呼ばせていただきたい。
「いや、僕はタイヤエンジニアだから、ついついタイヤに目がいってしまうのは職業病かもしれませんね」
カトちゃんはそう言って笑う。たしかにタイヤの関しても 異常にマニアックである。

実車よりミニカーに乗りたいんじゃない?(笑)

先日、やはりニュルブルクリンクでのこと、走行前の空き時間にカフェに行こうということになり、桂伸一先輩と店に入った。「Adeneu」の街にある、ノルドシュライフェを仰ぎ見る小さなレストランである。
レーシングドライバーでありモータージャナーリストでもある桂先輩は、業界では有名なモデルカーオタクである。オタクの対象はモデルカーだけでなく、ウエアやグッズ、写真やステッカーにいたるまでジャンルを問わない。オタクのターゲットは、モータースポーツ全般に及ぶのである。
二人で足を踏み入れたその店は、モーターレーシング一色に染まっている。ニュルブルクリンク近郊のレストランは、例外なくモーターレーシングの雰囲気に包まれるのだが、ここも壁一面にマシンやサーキットの写真が貼られており、テーブルもチェアも、それこそコースターにもニュルブルクリンクのコース図が描かれている。
ある壁には、一面に往年の名ドライバーの写真数十枚が掲げられていた。時代を感じさせるセピア色の写真である。
その中の一枚の写真に、桂伸一先輩の目が止まった。
「なんだよ、これ」
眉をしかめて僕を見た。
「なにか?」
「いや、『なにか?』じゃないよ。間違っているよ」
懐かしそうに一枚一枚を眺めていたのに、急に眉間に皺を寄せたのだ。
「どこか間違いでも?」
「これだよこれ、フランソワ・セベールでしょ」
「はあ、フランソワ…セブール?」
「そうじゃないよ、フランソワ・セベール」
言い捨てた。
「そのセブールじゃないセベールが何か?」
「顔写真とその下の名前が違うんだよ」
一枚一枚、写真の下には名前が印字されていた。その印字が間違っていると言うのだ。その写真は、レーシングスーツではなく、ハンチングを被った若い、そのセブールだかセベールのポートレートだった。
「お言葉ですが、専門家が製作したポスターですので、そんなミス表記はしないのではないかと…」
「はあ? 誰がどう見たって、セベールでしょ」
「でも、昔の写真ですし…」
「じゃ、いくら古い写真っていっても、セナとプロストの顔を間違えるか?」
込み上げてくる怒りを抑えられない。
「再びお言葉ですが、そんな有名なレーサーには…」
「はあ?」
火に油を注ぐとはこういうことなのだろう。
「マトラかティレルで、そんなに活躍しなかったけれど、誰がどうみてもセベールだよ」
いやはや、いくらモータースポーツの頂点であるF1ドライバーだといっても、F1チャンピオンならまだしも、いにしえのヨーロッパでちょっと走っただけのドライバーに、これほど熱くなれることに驚いた。オタクはめんどうである。

買い物まで念入りに…

実は以前、桂先輩はアストンマーティン契約ドライバーとしてニュルブルクリンク24時間レースに参戦していた。ドクター・ベッツCEOともチームメイトだった。ある年のこと、僕がニュルブルクリンクでのテストで彼の地にいることを嗅ぎつけた桂先輩が、こんなメールを寄越してきたのである。
「グランドスタンド裏のアストンマーティンのオフィシャルショップに、僕が乗ったマシンがミニカーになって販売されています。それを購入してきてください。代金は帰国後にお支払いします」
行間に「絶対に買ってきなさいね」という強い思いが滲んでいた。
文末にこんな注釈が添えてあった。
「在庫しているすべてのマシンを出してもらってください。そしてすべてのマシンを吟味してください。タイヤメーカーのステッカーが曲がって貼られている場合があります。正しいモデルをお願いします」
製品のバラツキも嫌うのである。
さらに注釈は続いた。
「2台、お願いします」
桂先輩は、熱狂的なミニカー収集家だが、常に2台所有である。一台は観賞用である。もう一台は封を切らずに倉庫に保管するという。

コラムの題材にすることの承諾を得ようとカトちゃんと桂先輩に連絡すると、会話が止まらなくて難儀した。桂先輩に「所蔵のコレクションを写メして下さい」とお願いしたら、サーバーがダウンするのではないかと心配になるほど膨大な写真が送られてきた。その多くは、その筋のオタクの方々にとっては意味深い貴重な品なのだろうが、僕の知識と理解度では有り難みが理解できない写真ばかりであり、写真の意味を確認するためにさら連絡をすることになり、それがまた長電話になり…。(笑)
ここに掲載したのは、送りつけられた膨大な写真の中のほんの一部である。

ことほどさように、ニュルブルクリンクはプロドライバーにとっても憧れの地であり、走りに目覚めたドライバーにとっての聖地でもある。そればかりか、モータースポーツマニアにとっても一度は訪れなければならない巡礼の地でもあるのだ。
「Dottinger Hohe」のガソリンスタンドも「Adeneu」のカフェも、気にとめなければ見過ごしてしまうような小さな店だけれども、足を踏み入れればマニアのパラダイスになる。
一度訪れると皆が魅せられ、ニュルオタクになってしまうのも納得する。

キノシタの近況

東京モーターショーはますます大盛況でしたね。GRの文字もイベントを盛り上げているようで、なによりです。CASE時代を感じるショーではあったけれど、一方で内燃機関の魅力も再確認した次第。その中でもカワサキの存在が目立っていた。EV一辺倒のなか、ひたすらガソリンの可能性を追及していたのだ。