レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

257LAP2019.12.11

スーパーGT285構想。タイヤサイズを細くしたら魅力倍増

ついに実現しましたね。「スーパーGT×DTM特別交流戦」。クラス1規定による日独バトルは、大きな一歩を踏み出した。同じシャシー、同じエンジン規程。いずれ世界選手権に発展するにちがいない。そんなレースを観戦していた木下隆之は、自身が温めてきた「スーパーGT285とスーパーGT255」構想の将来性を確信したという。その構想とは…。興味を示した関係者のリクエストに応えて、語ってもらおう。

スーパーGTマシンとDTMマシン、夢のコラボである

喜びを抑え切れずに、勇躍、富士スピードウエイに向かったのはレースウイークの土曜日。天気予報は晴れのち雨を予想していたけれど、見慣れたスーパーGTマシンと見慣れぬDTMマシンが混在するレースを観戦できるとあって心躍らされた。
興味の対象は、ドライバーとマシンにあった。
タイヤ戦争の最中にあるスーパーGT500マシンは、緻密なセッティングによって完璧な走りを披露する。一方のDTMは、ハンコックタイヤのワンメイク。絶対的なグリップは抑えられており、暴れるマシンをねじ伏せながらのドライビングが要求される。
DTMマシンは、スーパーGT500にはない「DRS」が装備される。ボタン一つでリアウイングの角度が変化するそれをストレートエンドで機能させれば、最高速度が一気に伸びる。スリップストリームから抜け出し、ライバルを抜き去る時に武器になる。ただ、今回のスーパーGT×DTM特別交流戦では、スーパーGT500マシンには装備されていないことが理由となり、DRSの使用は制限されていた。
ドライビングスタイルも興味の対象である。スーパーGT500は、モラルハザードが厳しく機能している。手荒なドライビングに対してはオフィシャルの監視が厳しく、パッシングを躊躇するドライバーも少なくない。4輪脱輪の監視も厳しい。一方のDTMは「世界一の喧嘩レース」とよばれるほどにバトルが熱く激しい。4輪脱輪には寛容で、むしろコース外を走行してでも抜き去ることが美徳とされている。接触も少なくなく、問答無用に前でゴールした者が勝者とする考え方が根底にある。
それを「農耕民族と狩猟民族の違い…」と分析することもある。今では、日本のレースに参戦する欧米人も多いわけだから、スーパーGTを農耕民族の闘いとするのには無理があるものの、なんとなく言わんとするイメージはわからなくもない。
じつは僕は、数少ない経験をしている。全日本GT選手権をGT500スープラで戦いながら、DTM・BMWM4のドライブ経験もあるのだ。もっと振り返れば、超ハイテクマシン時代のDTM、つまりITC時代のオペル・カリブラでホッケンハイムでのテストに参加している。
JJ・レート駆るオペル・ペクトラのオーディションにも参加している。そんな経験もあるから、スーパーGT×DTM特別交流戦に只ならぬ興味があったのは想像のとおりだ。

グリップが低いのは是か非か?

本音を言えば、もっとも観察したかったのは、ハンコックタイヤがもたらすレース展開である。
というのも、タイヤ戦争の最中にあるスーパーGTマシンが履くミシュラン、ブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマが、ギリギリまでタイヤ性能を追求しているのに対して、DTMマシンに装着されるハンコックはワンメイクであることから絶対的なグリップを追い求めていない。噂では、日本のタイヤよりもドライ路面で3秒から5秒ほどタイムは遅いと言う。低グリップなのではないかと予想されており、それがレースをよりエキサイティングなものにするのではないかと期待していたのである。
じつは僕は、タイヤの「ローグリップ化推進論者」であり、こんな提案を続けている。パワーの大小でスーパーGT500とスーパーGT300をクラス分けするのではなく、タイヤのサイズでクラス分けするべきだと。そう主張し続けてきているのだが、なかなか関係者による理解されず、あるいは笑って流される。いまだに実現できていない。だが本人は、いたって真面目である。本気でそう考えているのである。
それを名づけて「スーパーGT285とスーパーGT255」である。エンジンは自由とする。タイヤのサイズを285サイズ255サイズに限定することだけで性能差を付ければいい、という提案なのだ。
まっ、詳細は詰めるとして、根底の考え方は、タイヤのローグリップ化である。それが、レースをよりエキサイティングなものにし、ドライバーのスキルが露わになり、感情の視覚化に結びつく。縦に並んだままで周回数だけがいたずらに増えるような単調なレースにはならない。強烈なグリップに支えられたタイヤ戦争の元で行われているレースは、ただのオンザレールのようだ。ドライバーはただたんに運転席に座っているようにしか見えない。そんな現代のレースの元凶は、過分なタイヤグリップにあるのだと確信する。その解決策が、タイヤのローグリップ化にあるというわけだ。
そう、今回のスーパーGT×DTM特別交流戦では、ローグリップとされているハンコックタイヤのワンメイクである。それがレースをエキサイティングなものにし、僕の「スーパーGT285とスーパーGT255」提案が正しいことを証明してくれることになるのだと期待して、富士スピードウエイに向かったというわけである。

ほーらね

結論からいえば、僕の「スーパーGT285とスーパーGT255」構想は確信に変わったといえる。いつにも増して、走りに興奮したのである。
多くの関係者が口々から、こんなコメントが発せられた。
「スーパーGTマシンが生き生きとして感じられたよ」
「ドライバーが必死に走っている感じがしたね」
「ホイールスピンしているのに、よくもあんなに踏めるよね」
「彼があんなに攻撃的なドライバーだったなんて知らなかったよ」
特に、路面がウエットだった時間帯の走りは圧巻だった。
ドライバーのコメントも、それを裏付けるような内容だった。
スーパーGTチャンピオンの大嶋和也君はこういって好意的だった。
「グリップは思ったより高かったように感じました。それでも2〜3秒遅い感じですね。
でも構造がしっかりしているので、縦方向のトラクションは高いです。その半面、横方向が弱くてスライドさせると止りません。ウエットはとにかくグリップが低いんです。発熱させるのに苦労したし、みんなブレーキングに悩んでいましたね」
僕がフェンスの外から観た印象そのものなのだ。
石浦宏明君も、感想は同様だ。
「タレは大きいですね。コーナー立ち上がりでスライドするのでミスしやすい。その分、オーバーテイクはしやすかったです。うまくタイヤマネージメントする必要がありますね」
意訳すれば、グリップは低いからコントロールは困難だけど、だからこそ、パッシングシーンは増える。
そして腕自慢のふたりは好意的に「楽しかった」という。それこそ僕の「スーパーGT285とスーパーGT255」構想が正しいことの裏づけである。

スーパーGT500マシンのタイヤが285サイズに規制されれば、例えば富士スピードウエイでの1コーナーのブレーキングポイントは1.5倍に伸びるだろう。そしてハンコックタイヤが証明したように、ブレーキングミスが増える。パッシングシーンが増す。
ライバルを抜きあぐねたドライバーが焦って大胆なアクセルオンに挑めば、横グリップのないタイヤは激しくテールスライドをするはずである。抜きたいという感情が露わになるのだ。ヘルメットによって顔が覆われ、体の動きが見えないモータースポーツの致命的な欠陥である無感情が解決されるのだ。
グリップが低ければもちろん、ドライバーの腕が露わになる。今のスーパーGTのように、いいマシンに乗りさえすれば速く走れる…という弊害はなくなるのである。

想定される反対意見に、先回りしてお答えしよう。
絶対的な速さだけがモータースポーツの魅力ではないことを、今回のスーパーGT×DTM特別交流戦が証明した。ウエットでは、感覚的に10秒ほどラップタイムが遅く感じたのに、魅力が薄れることはなかった。むしろ興奮が増したのだ。
20年前のマシンは、今から比較すれば圧倒的に遅い。でも、観客は興奮した。今のスーバー耐久よりも遅かったはずなのに、グループA時代は20万人もの観客が熱狂したことがその証拠だ。絶対的な速さは副次的な魅力でしかない。
ドライバーの個性が明確だった。星野一義さんは、その走りに怒りや興奮が露わになった。マシンが暴れたからである。そして腕が成績と金に直結した。モータースポーツの理想型がそこにはある。

ただ問題が…(笑)

ただし、問題がひとつある。
スーパーGT255。見た目にタイヤが細過ぎる。駐車場に並ぶお客様のクルマのタイヤの方が太い…という風景は如何なものだろうか(笑)
トレッドは広いほど視覚的に安定感がある。タイヤは太い方が力強いし、迫力が増す。それとはちょっと逆行してしまうのが悩みである。
「まるで電車みたい…」
そう言って笑われることの解決策を教えてください。(笑)

キノシタの近況

ロサンゼルス国際オートショーでレクサスLC500コンバーチブルがデビューしましたね。噂を聞きつけ、デビューを見届けに行って参りましたよ。とにかくステキです。カッコイイ。ホレボレする美しさでしたね。