レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

264LAP2020.3.25

無観客のサーキットを見て感じたこと

世界は、新型コロナウイルスの猛威に晒されている。スポーツも例外なくその煽りを受け、大会の中止や延期、あるいは無観客での競技続行など、翻弄され続けている。スーパーGT開幕戦を前にした公式テストも無観客で行なわれた。まだウイルスが収束する気配は見えない。だが、無観客のサーキットを見て木下隆之はポジティブに感じたことがある。それは…。

しんと静まり返った桟敷席

2020年の大相撲春場所は3月8日、エディオンアリーナ大阪で開幕した。驚いたのは、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、異例の無観客試合として行なわれたことだ。
観客のいないその異様な光景に戦慄をおぼえた。いつもなら土俵を360度グルリと取り囲む観客が一切いない。観客のいない桟敷席が物悲しい。相撲は特に、砂かぶりの語源にもなったように、土俵の砂さえも降りかかるほど近い位置から観戦できる席がある。力士の息遣いすら耳に届くような距離で観戦できるのが相撲の醍醐味だったのだが、そんな高価な特等席にももちろん人影はない。黄色い声も、熱狂する笑顔も見えない。
その代わり、テレビ画面を通してさえも、肉弾戦の迫力が伝わってくるのは皮肉なことだ。肉体と肉体がぶつかる瞬間の打撃音や、筋肉がきしむ音。張り手が決まったときのバチンと頬と叩く音さえ伝わってきた。観客の声援がない代わりに、生の音が耳に届くのである。 心なしか、力士も気合いが抜けているように感じた。観客がいようがいまいが、勝負は勝負である。成績次第で番付が変わることも、いつもと違いはない。だが、あきらかに力士は覇気に欠けた。観客の存在が、興行としてのスポーツにどれほど重要な要素であるかを実感したのである。

プロ野球オープン戦も無観客試合で進んでいる。もともとオープン戦だから、リーグ戦のように数万人が集まる訳ではない。それでも観客がゼロというのは異様である。
バッターがベンチから飛び出し、打席に向かう。その足下に向け集音マイクで狙いを定めているのかと思うほど、サクサクと芝を踏みしめる音が聴こえた。投球前の投手が、グラブのヒラをバチンと叩く鈍い音も聞こえた。
選手の言葉を借りれば、気持ちが乱れたという。ベンチのスコアラーがストップウォッチを押すときの「カチッ」と言う音が耳障りに感じたそうだ。ふだん聴こえない音が聞こえることで、集中力が乱れたというから不思議である。5万人もの観客が取り囲む中で、チームメイトの声すらも聞こえないほどの喧騒が余計な雑音を消し去ってくれている。応援団の太鼓の音が響き、がなり声がとどろき、時には野次罵声が飛び交っていたほうがかえって集中できるというのだから、精神のメカニズムは興味深い。

テレビ中継があるから、ホームランを打った選手が右手を高々と掲げながらダイヤモンドを一周した。人のいない観客席へのアピールではなく、テレビカメラの向こうにいる多くの野球ファンへの感謝の気持ちであろう。

大観衆に包まれて…

かつてバブル時代には、驚くほど多くの観客がサーキットに集結してくれていた。全日本ツーリングカー選手権には、5万人もの観客によってコースサイドが埋め尽くされたことがある。
僕の記憶に強く刻まれているのは、全日本ツーリングカー選手権・筑波サーキット戦である。1周2kmのタイトな筑波サーキットに2万人超の観客が来てくれていた。僕はスカイラインGT-Rでそのレースを戦っていたのだが、バトル中のコックピットの僕の耳にも、観客の声が響いていたあの日のことを思い出す。
僕はトップを快走するカルソニックスカイラインGT-Rとバトルを演じていた。背後にはタイサンアドバンGT-Rが迫っていた。影山正彦君がステアリングを握るカルソニックブルーと、土屋圭市先輩の赤黒のボディに挟まれる形で僕は、共石グリーンのマシンを必死に走らせていたのだ。
コーナー手前、人気絶頂の土屋圭市先輩が僕を抜きにかかると、大観衆の叫ぶ声が地響きのように轟いた。「抜け〜」と叫ぶ声が耳に届いた。逆に僕がカルソニックに並びかければ同様に、激しい応援の声が背中を後押しした。スカイラインGT-Rはターボエンジンだったこともあり、エキゾーストノートはNAエンジンほどやかましくはなかった。それゆえに、観客の声すらも耳に届いたのである。筑波サーキットはいわば、大相撲の砂かぶり席のように身近に観客席があったからでもある。観客の声援がいかにドライバーを鼓舞するのかを実感したのである。

 

2020年スーパーGT公式テスト岡山は、無観客で行なわれた。寂しいかぎりである。
ただ、僕が寂しいと感じたのはそれだけではない。観客席に人がいないというその現象だけではなく、応援団との交流ができないことに拍子抜けしたのだ。
シーズン直前の公開テストはつまり、初めて顔を合わせる場でもある。
「今年も頑張ってください」
「ありがとう」
そんな会話がないことが寂しいのである。
SNS隆盛の昨今ではありながら、スポーツは人と人が目を見つめ合うライブ感が欠かせないことを改めて実感した。爆音を響かせ、高速域のバトルをご覧いただくことがレースの本質かもしれないけれど、コース外での観客との接点も重要な楽しみなのだということを思い知らされた。

声援を制限するスポーツがある

ブラインドサッカーは、視聴覚障害をもつ選手によって戦われる。1チームが5名。フットサルと同じサイズのコートに、転がるとシャカシャカと音のなるボールを使用する。選手はアイマスクをする。視覚障害のないキーパーや監督が、声で相手選手の位置やゴールまでの状況を伝える。だから観客の声援は邪魔になる。観客は無言のまま観戦することになるのだ。
その競技を観た。
確かに慣れないと、うっかりと声援してしまいたくなる。だが咳払いを躊躇し、両手を口に当てて観戦していると次第に、耳に届くプレーヤーの生の息吹に興奮してくるのだ。無観客試合で闘う大相撲が、肌と肌のぶつかりあいや、すり足の音で臨場感を得るように、普段は大歓声でかき消されている音が蘇ってくる。

モータースポーツには武器がある

一方でモータースボーツには、爆音がつきものである。コンサートのように爆音という管楽器の演奏を聞かせるのも要素のひとつ。爆音もモータースポーツという興行の大切な要素なのだ。
それが証拠に、公式テストで突き進むマシンはいつもと同様に躍動感に溢れていた。春場所の力士がどこか気の抜けたように感じたのとは対象的に、マシンの咆哮は変わらずに激しかった。マシンがいつにも増して熱く叫んでいたように聞こえたのは気のせいだろうか。

改めて思うのは、レースにとって爆音は欠かせないということを僕らは再認識することだ。
F1が、かつてのV12エンジン時代の様にいななくことがなくなったことを嘆く意見は少なくない。ハイブリッドによって、もはやエキゾーストノートに酔いしれることもなくなった。それでも主催者は、時代の要請だと詭弁をふりかざす。メーカー資本を招き入れるには必然なのだと理由を語る。だが、爆音の魅力を再確認することになったいま、それはレースの本質を捨てることにはなりやしないかと想いを巡らした。
フォーミュラEが今ひとつ盛り上がりにかけるのは、爆音がないことであろう。インバーターのうなり音とモーターの回転する高周波音が無機質にサーキットに響く。その代わりに、タイヤが路面の石を跳ねあげる音が無用に響く。まるで城に忍び寄る隠密のような不気味さである。レースは爆音が響かないと寂しい。

新型コロナウイルスに端を発し、興行のあり方が問われている。そんな混乱はまだ収束の気配を見せないが、近い将来にスポーツが正常な形で再開したとき、この沈黙のひとときで得た経験を役に立たせれば、それはそれで負のシーズンとはならない。
しばらく冷静にレースを考えてみようと思う。

キノシタの近況

2020年はスーパー耐久に軸足を移します。チームは「SS/YZ RACING with Studie」マシンはもはや馴れ親しんだBMW M4GT4です。プランパンの経験を日本に投入。暴れますよ。