レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

275LAP2020.9.9

レース界の「ホペイロ」

今年の富士24時間耐久レース「SUPER TEC」が華々しく開催された。レースそのものは、たびかさなる天候悪化に翻弄される展開になった。それでも、厄災に襲われ規模を縮小せざるをえない状況にもかかわらず、熱いレースとなった。疫病の拡大を恐れ、観客の入場を制限し、チームも人数制限される中での24時間レース。通常よりもレース距離が数倍に長くなれば、スタッフの数も膨れるのは道理なのだが、制限があることから少人数でやりくりしなければならない。どの役割を減らすのか。誰を入場規制するのか。チームの采配から考え方が透けて見えるレースでもあった。24時間という長丁場のレースということで「ホペイロ」を起用するチームも散見された。過去に40回以上も24時間レースに参戦した木下隆之が、「ホペイロ」の重要性を語る。

ホペイロとは…

僕が「ホペイロ」という職業を知ったのは最近のことだ。どこかのドキュメンタリー番組で、ホペイロを生業としている男性のことが報道されていた。
ホペイロを和訳すると「用具係」となる。ポルトガル語の「roupeiro(用具係)」から転じたようで、英語では「エキップメント・マネージャー」となるらしい。プロサッカーリーグではポピュラーな存在だそうだ。その番組では、イタリアのプロサッカーチームに所属しているホペイロがクローズアップされていた。
ホペイロの業務内容は、用具係という名から連想できるように、プレーヤーの用具を管理する。スパイクのメインテナンス。ユニフォームの洗濯や管理。練習用具の手配。試合や練習でのドリンクの手配や供給などになる。
選手は用具にこだわりがある。横並びで数を揃えればいいのではなく、個人ごとの微調整が求められる。提供メーカーから送られてきた用具を配ればいいのではなく、アジャストすることも仕事に含まれる。天候やグラウンドが変われば、スパイクのチョイスも調整も必要だろう。たとえば雨でピッチが滑りやすくなれば、よりグリップの高いシューズが必要になるからだ。用具係といっても、調達や欠品の有無を管理するだけにとどまらず、プレーヤー寄りの知見が問われるのだ。
それだけではなく、精神的にも選手に寄り添う関係だともいう。選手の好みや癖、あるいは筋肉の疲労状態、もっと踏み込んで精神的安定度といったフィジカルやメンタルまでを知る必要があるらしい。トップカテゴリーでは専門のメンタリストやフィジカルトレーナーが帯同する。それに加えホペイロがサポートするのだ。プロの肉体系スポーツ先進国の考え方には感心する。

レース界ではホペイロという職種を耳にしたことはない。チームにはマネージャーがいて、有力なプロチームになれば数人のチームマネージャー以下、数名のマネージャーがホペイロに似た業務を担当する。だが、人数が限られているだけでなく、滞りなくレースを消化するだけで多忙であり、ドライバーのフィジカル監視やメンタルケアまでは至らないのが現状だ。幸にして僕のチームは、手厚くマネージメントしてくれるマネージャー女史に恵まれている。
レース界の食生活は意外に貧相で、冷たい弁当をペットボトルのお茶で流し込むのが一般的だ。インスタント麺を添えるのがささやかな贅沢である。アスリートの栄養源としては心許ない。それを察して、ミネラル豊富な海藻や、ビタミン豊富なフルーツを添えてくれるマネージャーもいる。整体指圧や栄養学にも知見がある。まさにプロのフィジカルトレーナーであり、言うならばホペイロであろう。
チームのスケジュール告知表に、キュートなイラストを添えてチーム内の雰囲気を和ませてくれるマネージャーもいる。笑いが絶えない。メンタルトレーナー的である。まさにホペイロだ。

欧米のホスピタリティ

僕が初めて欧州の耐久レースに参戦するようになった頃のこと。欧州日産のサポートにより、イギリスチームに単身、文字どおり日本人ひとりで参画していた。スパ・フランコルシャン24時間やニュルブルクリンク24時間への参戦を繰り返していたのだ。体制は充実しており、1台のスカイラインGT-Rを走らせるのに、3台の巨大なトレーラーがコンボイをなして大陸を移動するという規模である。3台のトレーラーがドーバー海峡を渡り、フランスからベルギー、ドイツ、そしてハンガリーへとレースを求めて移動するのである。
初めてチームと合流したときに、腰を抜かしかけた。驚いたのは、3台ものフルサイズトレーラーが物資を輸送するというその体制のことではない。たしかにメーカープロジェクトの重責を担った24時間レースだから、10トン級トレーラーが揃っていても不思議ではないのだが、その3台のうちの1台の荷台は、ほとんとが調理用キッチンに占領されていたのだ。欧州ワークス体制といっても、総勢で20人規模の精鋭チームだった。その腹と舌を満たすために、2名のコックが帯同していたのだ。3台のうちの1台はキッチンカーだった。10トントレーラーのキッチンカーだから、高級レストランのキッチンよりもあるいは広いかもしれない。腰を抜かしかけたのはそのことである。
2名のコックは、朝から晩までパドックで調理をしている。サーキットにはおよそ似つかわしくない白衣で玉ねぎを剥いている。肉を干して焼いている。朝からパドックは煮込まれたシチューの香りが漂っていた。

「どうしてこんなにキッチンが充実しているの?」

僕の驚きに対してチームオーナーのM・オドールは、その質問の意図が理解できないといった顔をしながらこう言った。

「いい仕事をするのに大切なのは食事だからさ」

昼時ともなれば、パドックにテーブルが並べられる。テーブルクロスがかけられ、ナイフやフォークといったカトラリーがフルコースで並べられる。時間になればスタッフ全員がテーブルに着き、ランチが始まるのである。

「いいか、タック(僕の愛称だ)、レースでのミスのほとんどは人為的なものだ。食事がそれを防いでくれるんだ」

オドールの言葉が今も耳に残る。「手の空いた奴から飯食っちゃえよ」ではないのである。それが欧州スタイルだからと言ってしまえばその通りだが、24時間の戦い方を学んだ気がした。

閑話休題。

マネージャーは超多忙である。だから、ドライバーの管理など、自らの裁量でやるものとされている。ちょっと頼みごとをしようものなら、嫌な顔をされるチームもある。だから、軽はずみに声が掛けられないのが現状だ。
だが、我々は、有能なマネージャーに恵まれている。今年の富士24時間レースは、ホペイロがいる日本で初めてのチームだったのかもしれない。

キノシタの近況

富士24時間レースが終わりました。ポールポジションをゲット。助っ人荒聖治やJP・オリベイラの激走もあり、終始レースを支配した。だが、度重なるセーフティーカーのタイミングが悪く、その度に順位を落としていった。惜敗の2位。これからも応援よろしくお願いします。