279LAP2020.11.10
ウエットレースでのセオリーが面白い
「ウエットライン」という呼び方がある。乾いた路面での走行ラインを示す「ドライライン」に対して、ウエット路面ではそれまでとは異なる走行ラインが有利だとされている。ドラテク指南書に記されている「アウト・イン・アウト」の攻略法も、ウエットの環境では当てはまらない。グランドスタンドから観戦していて、特徴的な走行ラインを走る姿を疑問に思った方も少なくないだろう。ウエットを得意とする木下隆之がウエットドライビングを語る。
「アウト・イン・アウトは嘘だった?」
「アウト・イン・アウト」ドラテク指南書の最初の1ページに必ず記されている。コース幅のアウト側から進入し、いったんイン側を添わせ、そこからまたアウトを目掛ける軌跡である。コース幅を大きく使うことで、旋回速度を高めることができる。回転半径が大きければ大きいほど、つまり、コーナーが緩ければ緩いほど高いスピードで走れるというわけだ。物理の法則で証明できる。古今東西、ドライビングする上での「イロハのイ」である。
ただし、ウエット路面ともなるとセオリーはくつがえる。ひとたび雨粒が路面を濡らすと、それまでアウト・イン・アウトに拘っていたドライバーが、一転ウエットラインを走行し始める。ドライラインの「アウト・イン・アウト」との対比では「アウト・アウト・アウト」。コース幅のアウト側から進入したのち、クリッピングポイントは無視する。イン側を添わせない。アウト側にとどまったままアウトを目指す。ウエットではそれが速いとされているのである。
ウエットラインを初めて知った時の衝撃は忘れられない。確か1990年代初頭の富士スピードウェイだったと思う。
WEC世界耐久選手権が開催されており、世界中から猛者が集結していた。まだ駆け出しだったものの、僕も末席を汚しており、世界の強豪達と戦うことを楽しみにしていた。ましてや富士スピードウェイは地元である。何百何千と周回しているわけで、世界の強豪とはいえホームの有利さは無視できない彼らを先行することを虎視淡々と狙っていたのだ。
そんなWECで雨が降った。
「これで勝てるかもしれない」
富士スピードウェイのストレートはハイドロプレーニングの影響を受けやすく、走行ラインを中央寄りに変えて突き進むほうが都合がいいことや、超高速300Rでは水深のある川がコースを横断しているから注意する必要がある…ということを熟知していたからだ。ホームの強みが生かされると自信を得ていた。
ところが、海外の猛者の速さを甘く見てはならなかった。さすがに世界を転戦し、トップの成績を残してきたドライバーだけのことはある。初めての富士スピードウェイでも臆することなく速さを披露した。特に驚いたのは、超高速300Rの走行ラインである。日本人のほとんどがアウト・イン・アウトのセオリーに忠実に列を作っているのに対して、海外勢はアウト側をスルスルと走行していた。それまでの日本人の感覚からすると、マシントラブルを抱えたドライバーが後続マシンにベストラインを譲る…そんな不可解なラインを走行していたのだ。
その様子を見て、当初は鼻で笑った。
「わかってないねぇ〜」
初見のドライバーが陥るであろうミスを嘲笑ったのだ。
だが、そのマシンがポール・ポジションを獲得すると考えは一転した。
「あっ、ウエットライン…」
それが、僕がウエットラインという存在を知った瞬間である。
「ウエットラインは理論的に説明ができる」
ウエットラインはつまり、良好な路面を走行することでメリットがある。ウエットでは水の膜に足をすくわれやすい。ウエットラインでは、そんな被害を最小限に止めることができるのだ。
その理由のひとつはまず、水深の浅さである。一般的にサーキットは、カントがついている。アウト側を頂点に、イン側に向かって傾斜がついているのだ。遠心力に打ち勝ちやすくするための配慮であろう。バンク、という言い方もする。そのため、クリッピングポイントであるイン側は川下であり、標高の高いアウト側から水が流れ込んでくる、ましてやイン側の縁石は盛り土のようだから水が溜まりやすい。水深が深いのだ。
さらに路面の問題がある。日頃から、多くのマシンがドライラインを走行していることから、路面の目にはタイヤのゴムが付着している。それは路面の目に摺り込まれ、目地がつぶされる。水捌けが悪い。さらに水にのりやすいのだ。
ドライラインは路面が磨かれている。ハイパワーなマシンが路面の舗装を蹴り込むものだから、いつしか石粒は滑らかだ。ミクロの目で観察すれば、アウト側の路面は石粒が尖っている。その鋭角な突起にタイヤが引っかかる。磨かれて滑りやすくなった路面よりもアウト側のグリップが高いのはそのせいである。一般的にアウト・アウト・アウトのラインがウエットで有利だとされるのはそんな理由によるのだ。
さらに僕は、タイヤの特性の変化も理由のひとつではないかと想像している。かつてタイヤは、スリップアングル15%前後で最大のグリップを発揮するとされてきた。タイヤの向きと実際の走行ラインとのズレをスリップアングルという。そのアングルが15%を超えると、グリップは低下する。アンダーステアが強くなると、ハンドルを切ってもむしろ曲がらなくなる現象が起きる。その境が15%前後なのだ。
そのスリップアングルとの耐性が、15%を超えた領域に変化したのではないかと想像している。つまり、これまでアンダーステアが発生すると考えていたスリップアングル以上でもグリップの低下は少ない。アウト・アウト・アウトという、大きくハンドルを切り込む必要にあるラインでも走行可能なことを意味する。タイヤの特性変化がウエットラインを生み出したとも考えられるのだ。
雨には雨の注意点がある。降り注いだ雨が排水溝にたどり着くまでに、たいがいコースを横断する。その「川」を斜めに渡ろうとすると、スピンの危険がある。直線的に渡るようなラインが必要だ。
あるいは渡る瞬間に、スロットルを緩めることが重要だ。駆動輪が空転し、やはり同様にスピンの危険がある。
「柔軟な発想が走りを高める」
それにしても感心するのは、ウエットラインを考えついたドライバーの発想の柔軟性である。これまで長い間、アウト・イン・アウトが正しいと頭に叩き込まれてきた。それは雨が降ろうが同様で、旋回Rを大きくすることが有利なのだとされてきた。だから雨が降っても、アウト・イン・アウトに拘ってきた。そんな常識に凝り固まった考え方を取り払って、邪道ともいえるラインに挑戦した勇気を讃えたいのだ。
不肖この僕も、案外と発想の柔軟性には自信がある。「なぜなんだ?」 いちいち疑ってみるのは性分のようで、昔から突飛な発想を掲げて成功してきたという自負がある。そんな僕でも、ウエットラインの存在には気がつかなかった。だからこそ、ウエットラインの発案者を尊敬するのである。
とすると、まだまだ走りは完成していないのかもしれない。見落としている穴があるのかもしれない。ドラテク教本ですら、どこかに誤解や勘違いが残されているのかもしれない。頭のネジをゆるゆるに緩めて、脳味噌を豆腐のように柔軟にして、そしてさらに横目で走りを振り返ってみれば、必殺技と思えるような「新ドライビングテクニック」が発明できるかもしれないのだ。
さらに走りを極めたくなってきた。
Photo by
Hiroyuki Orihara
Wataru Tamura
キノシタの近況
レースシーズンも佳境に入ってきた。といっても、スーパーGTは7戦を消化し、残すは富士スピードウェイの最終戦のみとなった。一方のスーパー耐久はまだ3戦が終わったばかりであり、シーズンはまだまだ長く続く。未曾有のコロナ禍によりスケジュールがかき乱され、なんともアンバランスなシーズンとなってしまった。だが、年を越すまでレースは続く。それはそれで悪くはない。