レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

280LAP2020.11.25

WRCが生んだ市販車

巷では「GRヤリス」の話題騒然である。コンパクトなボディに、1.6リッターの直列3気筒ターボエンジンを搭載する。典型的な3ドアハッチバックモデルなのだが、大きく張り出したフェンダーや眼光鋭いフロントマスクが、ただならぬオーラを発散している。デビュー前からたびたび開発現場がスクープされており、実際にトヨタ自動車の社長でマスターテストドライバーであるモリゾウ氏がステアリングを握り開発を先導。そんなマシンを、木下隆之がドライブすると…。

「もはやクルマじゃない」

このクルマを目の当たりにして、クルマと呼ぶのが適切なのか憚られる。というのも、クルマというよりもマシンといった方がいいかもしれないと思えるからだ。TOYOTA GAZOO Racingが主導し、開発が進んだ「GRヤリス」は、すでに実戦に投入。2020年スーパー耐久開幕戦でデビューウィンを果たしている。実戦で鍛え上げ、不具合を徹底的に洗い出し、確認してから市場にデリバリーするというトヨタのスポーツカー特有のスタイルで完成した。それはもう、ほとんどレーシングカーの開発手法なのだ。
そんな開発スタイルは、いわばトヨタGRシリーズのお家芸でもある。過去には僕もそのプロジェクトに参画していた。古くはレクサスLFAのステアリングをデビュー2年前から握り、ドイツ・ニュルブルクリンク24時間レースに遠征した。度重なる実戦投入により、マシンを鍛え上げる。それがもはや定番化されたのだ。レクサスLFAだけにとどまらず、86もC-HRも、GRスープラも、世界一過酷とされるニュルブルクリンクで鍛え上げられたのちにユーザーの手に渡る。
「GRヤリス」も例外ではなかった。いや、さらにスタイルを変えたように思う。というのも、「GRヤリス」はWRCマシンのディチューン版、つまり戦いの世界から舞い降りてきた天使のように映るからである。

トヨタがFIA世界ラリー選手権にデビューし、メーカーチャンピオンを獲得したのは記憶に新しい。トミ・マキネン率いる実戦部隊は、初年度から好成績を収めた。そしてそのマシンこそ「ヤリス」だった。
だが、ヤリスとはいうものの、僕らが街中で目にするヤリスとは大幅に内容が異なる。エンジンパワーは300psを超え、強靭な4WDシステムと組み合わされる。サスペンションはしなやかで伸びる。僕らが購入可能なヤリスとは似ても似つかない。顔つきやスタイルに面影を残すものの、それはFIAの規則と販売のためのイメージ戦略というメーカーの都合によるもので、実際の中身は別物なのだ。そんなモンスターなのである。
ところが最新の「GRヤリス」はそれとは異なるスタイルで開発された。世界を制したマシンのノウハウを注ぎ込み、それを市販モデルに落とし込んだ。希有な開発スタイルなのである。

「林道から公道へ」

だから実際にドライブすると、その熱く激しいハンドリングの先に、フィンランドの林道が見えてくるかのようだ。
搭載するエンジンは直列3気筒1.6リッターターボである。最高出力272psを発揮、最大トルク370Nmを絞り出す。感動的なのは、パワーバンドを外すことがほとんどないことだ。わずか1.6リッターという、激しく走るにはやや心許ない数値なのに、本来なら苦手とする低回転域から怒涛のトルクを炸裂させる。小径ターボチャージャーでレスポンスと低回転トルクに備えるのは簡単な話だが、それでは高回転域での絶対的な出力が稼げない。ところがこのエンジンは、常に戦闘態勢でいられる。様々なコーナーが次々に目まぐるしく迫りくるラリーでは、ワイドなパワーバンドと鋭く切れる刃物のようなレスポンスが求められる。そんなラリーの世界で鍛え上げられなければ得られない特性のように思えた。

フットワークも極めてラリーマシン的である。前後左右に荷重を入れ替えながら、いわば荒馬の鞍に跨がりながらしがみついているかのような激しさなのだ。前後左右に姿勢を入れ替えるのは、ホイールベースやトレッドは決して長くはないコンパクトボディだからだろう。狭いスタンスでも縦横無尽にコーナーを制することができる。
ラリーの世界において強いアンダーステアは命取りである。高いスタビリティが備わっていなければアクセル全開でブラインドコーナーに飛び込むことは不可能だし、飛距離数十メートルに及ぶジャンプでは二の足を踏んでしまう。とはいうものの、常に全開で走るためには、いつ何時でもドライバーの操作に対してフロントノーズが反応しなければならない。その特性が市販車の「GRヤリス」にも再現されているようだった。
試乗ステージは、タイトなつづら折りが連続するワインディングだったが、アンダーステアらしき悪癖が顔を出す瞬間は限られていたのがその証拠。「GRヤリス」はフロント60%、リア40%の駆動配分がデフォルトだが、スポーツモードにアジャストすればフロント30%、リア70%になる。より後輪に強いトルクが加わることから、さらにフットワークの自由度は増す。FR感覚のドライビングが可能になったのだ。
試乗は公道だったから、アンダーステア嫌いの僕としては、デフォルトが「スポーツモード」でもいいのではないかとさえ感じた。安定性を求めればノーマルモードが理想だろうから、ちょっと遊びたい時用のスポーツモードなのかもしれない。
ちなみに、トラックモードも設定されている。前後駆動トルクが50%対50%にアジャストされるそれは、ほとんどコンペティション用と考えていい。「GRヤリス」は前後駆動トルクがバリアブルに移行するタイプではなく固定式である。そんな「GRヤリス」のトラックモードは、時にはアンダーステアに陥ることもあるのだが、それでも求められているのはラリーやジムカーナや、あるいはレースなどの競技用だと思える。マシンをスライドさせながら走り、アクセルペダルを床踏みしながらフルパワーで立ち上がる…という速さ追求型なのだ。という設定があることも、「GRヤリス」がモータースポーツの世界から舞い降りてきたことを物語る。

そしてWRCで鍛え上げられて街中にやってきた「GRヤリス」が、また多くのドライバーに求められてモータースポーツの世界に戻っていくことが、なんだか不思議な感覚である。そう、これでモータースポーツと市販車がひとつのループで巡ることになる。その意味では「GRヤリス」の果たす役割は大きい。
そしてそれが、これからGRがみ出すクルマのスタンダードになるような予感がした。そう、これはもう、クルマではなく、登録ナンバーをつけて公道を走ることが許された「マシン」なのである。

キノシタの近況

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