レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

290LAP2021.4.28

水素燃料でレーシングカーが走る?

トヨタ自動車広報部から1通の案内が木下隆之の元へ届いた。4月22日、午後2時からのオンライン発表会に参加して欲しいとのこと。登壇者はトヨタ自動車代表取締役社長CEO豊田章男氏と、トヨタ自動車執行役員兼GAZOO Racing Company Presidentの佐藤恒治氏だという。タイトルは「モータースポーツを通じた技術開発について」とされていた。木下隆之は重大な参戦発表があるのだろうと想像がついたという。そしてその内容は…。

突然の参戦発表

オンライン発表の冒頭、豊田章男社長はいつもの柔和なモリゾウの顔に戻って語り始めた。
「ついさっきまで、自工会会長としてカーボンニュートラルに関して思いを語ってきました。ここからは、オートサロンのような肩の力を抜いた雰囲気で話を進めたいと思います(笑)」
氏はいくつもの重責を担っている。自動車工業会の会長として、トヨタ自動車の代表として、あるいはトヨタ車のマスタードライバーとしての顔を持ち、そしてモリゾウに姿を変えてレーシングドライブもこなす。この日は、トヨタ自動車の代表としての立場とモリゾウとしての優しい表情を入れ替えての会見となったのだ。

発表の内容はこうだ。水素を燃料とするカローラで、スーパー耐久・富士24時間レースに参戦するというのである。チームはROOKIE Racing。今年から新たに新設されたST-Qクラス。どこのカテゴリーにも当てはまらないマシンの走行が組み込まれる、いわば開発車両クラスからの参戦となる。
「我々はカーボンニュートラルに向け、全方位的に数々の施策を施しています。そのひとつが水素燃料電池車の開発です」
トヨタは二代目のMIRAIを発表したばかりである。
「その技術を磨くために、水素を燃料とするマシンでレースに参戦することにしたのです」かつて僕がGAZOO Racingから参戦していたニュルブルクリンク24時間レースも引き合いに出した。
「我々が参戦を続けているニュルブルクリンク24時間同様に、もっとも過酷な環境で戦うことにより、技術が早いテンポで進むことを期待しています」水素を燃料とするマシンでの参戦が企画された経緯をこう語る。
「ある日、開発のためのテストコースにこの車があった。それをドライブした瞬間に、可能性を感じたのです」マスタードライバーとして、近未来の車両開発、あるいは発売を控えた完成車両の最終的な味の確認の場であろう。
「走り始めて、モータースポーツマシンとしての資質の高さを感じました。パワーレスポンスが優れていたのです」

佐藤プレジデントが技術的な狙いを続ける。
「車両はヤリスのエンジンを搭載したカローラです。MIRAIとは異なり、内燃機関の燃料を水素にします。ガソリンよりも燃焼圧が高い。より緻密な燃料噴射技術が鍛えられます」まさにモータースポーツが開発に直結するのだという。
「それでいて、MIRAIで構築した技術を流用します。水素燃料タンクや供給システムはMIRAIのものです」トヨタはカーボンニュートラルに向けて、全方位的に開発を続けている。そのひとつがEVであることはあきらかだが、それだけですべてを満たすことはできない。盲目的なEV信仰には僕も否定的な立場である。その意味では、水素を燃料とするマシンの開発には賛成する。
「水素を燃料としますから、走行中のCO2排出量はゼロです。微量なオイルの燃焼はありますが、極めて環境に優しいマシンになります」モリゾウ氏の言葉を受けて佐藤氏も続けた。
「テストコースに水素燃料のカローラを持ち込んだのも発端でした」モリゾウ氏も続ける。
「あれは昨年のことですが、すぐにレースに参戦できるところまでプロジェクトを進めることができた。これは私が社長になった11年前では考えられない早さです。トヨタもここまでテンポが早くなったのかと思うと感慨深いですね」。関係者の努力にも感心するが、モータースポーツは人を動かす能力があるのかと嬉しくもなった。

Q&Aは次々と…

オンライン参加者から、いくつかの質問が届いた。
Q:「ドライブした印象は?」
モリゾウ:「私はまだグラベルでしか走っていませんが、加速感はいいですね。おそらく富士の最終コーナーまでは追いかけていけるでしょう。ですが、ストレートでは抜かれる。そんな感じではないでしょうか(笑)」
佐藤:「燃焼圧スピードが速いですから、レスポンスがいいのです」
その言葉から想像するに、エンジンの反応が良い分だけタイトコーナーからの脱出などが有利なのかもしれない。だが絶対的な出力は低いのかもしれないのだ。

Q:「成績は期待できますか?」
佐藤:「レースでは大きな水素燃料タンクを積みます。さらには開発のための計測機をたくさん搭載します。相当に重いマシンになると思います(笑)」
あくまで勝利云々ではなく、開発のための参戦であろう。
モリゾウ:「おそらくメカニックが大変でしょうね。頻繁にピットインを繰り返しますから。しかも、交換しなければならない部品も少なくない。メカニックの耐久レースになるかもしれません(笑)」
水素を燃料とする内燃機関の燃費は、いま時点では期待するほどよくはないのだろう。大きな燃料タンクを搭載しても、すぐにガス欠になるに違いない。モリゾウ氏のウィットに富んだ表現は、燃費の悪さを意味するのだ。そしてそれは、燃費を改善するための参戦をも意味する。
モリゾウ:「スーパー耐久には3時間のレースも5時間のレースもある。ですが、我々が続けてきたニュルブルクリンク24時間のように、24時間レースだから鍛えられることがあります」
燃費改善や消耗部品の耐久性向上などは、長距離レースだからこそ有効なのである。

Q:「サーキットには水素ステーションがありませんが?」
佐藤:「スーパー耐久リーグの計らいで、ピットに水素タンクローリーを設置することが 許されました。供給はそこで行います」
Q:「ル・マン24時間参戦の可能性は?」
佐藤:「まだ始まったばかりのプロジェクトなので今は何も語ることはできませんが、いろいろな可能性を探っていきたいと思います」

話を聞いていて、言葉の行間から滲み出る思いは、盲目的なEV信仰に対するアンチテーゼが含まれているようにも感じた。カーボンニュートラルに向けてEVが有効であることは事実だが、それだけで解決できるとは思えない。日本にはクルマに携わる550万人の人間がいる。その雇用を守るためにも、EV以外の可能性を示したいのである。
「水素というと爆発するという印象を持たれている人もいるでしょう。ですが、僕自らがドライブすることで、安全性を証明したいのです」
豊田社長の言葉からは、マスタードライバーの覚悟のようなものを感じた。
「トヨタには80年の技術の蓄積があります。フォーミュラEというレースもありますが、内燃機関を利用したレースはまだまだ可能性があります」
そう語るモリゾウ氏の瞳は、自工会会長として、あるいはトヨタ自動車代表としての輝きに戻っていた。

司会者が最後に、僕にコメントを求めた。
僕は冒頭にモリゾウ氏が告げた「オートサロンのように…」という言葉を受け、公式的な雰囲気を修正しようとした。
木下:「ところで、ドライバーラインナップは決まっていますか?」
モリゾウ:「トヨタの優秀なドライバーを起用します」
木下:「これから僕も営業活動できますか?(笑)」
モリゾウ:「残念ですが、締め切ってしまいました(笑)」
木下:「……無言(笑)」
モリゾウ:「ウインカーを出しますので、アニキはすみやかに抜いてくださいね(笑)」
僕は別のチームから富士24時間レースにエントリーする。コース上から水素を燃料とするマシンの走りを観察することにする。

キノシタの近況

ホンダのS660が2022年3月をもって生産終了となる。それはがっかりとばかりに改めて試乗したのだが、これが素晴らしくて腰を抜かしかけた。もうこんな魅力的な走りのKカー、出てこないんだろうね。