レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

294LAP2021.6.23

ピットストップの妙技

1コーナーになだれ込むマシン。熱く激しい先陣争い。ホイール・トゥ・ホイール。火花が散る。350km/h超の接近戦。ポディウムで見せる勝者の笑顔。キラキラと青空に舞うシャンパンの飛沫。地鳴りのような大歓声…。モータースポーツは多くのヒーローに支えられている。だが、その一方で、ともすれば影になりがちなピットクルーが光り輝く瞬間がある。それがレース結果を左右する。数々のレースに参戦してきた木下隆之が、ピットストップの華麗な技を紹介する。

コンマ一秒を削るために…

いやはや、何度観ても鮮やかである。作業の一部始終を繰り返し観ても、神業としか思えない。高度なテクノロジーと湧き出るアイデアと、そして勝利への執念があるからこんな曲芸が演じられるのだろう。
F1のピットストップのことである。
マシンがピットロードになだれ込んでくる。所定の位置にはカラフルな線が引かれており、マシンはピタリと停止する。
だが、時は進んでいく。カチカチと一定のリズムを刻みながら時は過ぎていく。
350km/h超の速度域で先を急いでいながら、ピットストップのその時間、マシンは1ミリも進んでいない。だが時は無情に過ぎていく。
マシンが停止してから発進まで、わずか数秒。だが、その数秒が勝敗を左右する。だから急ぐ。ピット作業を迅速にこなすトップチームの停止時間は、わずか1.9秒ほどだ。4本のタイヤを新品に交換する。1.9秒という瞬間的な作業によってリフレッシュしたマシンは、ふたたびコースに舞い戻る。何度観ても、ピット作業は神業としか思えないのだ。
本当に作業しているのか…と疑って、F1中継をスロー再生してみたら、本当にタイヤを交換していた(笑)…というほどの素早さ。メカニックの一糸乱れぬ迅速な作業は、感動的でさえある。

そこで思うのは、なぜこれほどまでタイヤ交換の作業が速くなるのであろうかという素朴な疑問だ。F1では過去からピット作業中のタイヤ交換は行われており、「ピット作業で1秒を無駄にすることは簡単だが、コース上で1秒稼ぐのは困難」と繰り返し語られてきた。だから、いつの時代もライバルを出し抜くために知恵を絞り、作業の手順を改善し、素早く作業を終わらせるために繰り返しトレーニングをしてきた。だというのに、過去のアーカイブを改めて観ると、ピットスップ時間はおよそ6秒前後。それが今では2秒を切る。タイヤを交換するという単純な作業だけなのに、当時から4秒も短縮しているというから驚きである。

ここにもハイテクが注がれている

先進的な技術も、速さに貢献している。ジャッキアップは瞬間的にマシンの適切な位置に噛むように細工が施され、おろした瞬間に進路を開けるように工夫がされている。インパクトレンチは高速で回転する。回転トルクが桁外れに強いから、素人がトライすればおそらく手首を痛めて病院送りだ。ナットの噛み合わせでさえ、クルクルとねじ込む時間を惜しんでいる。だから先日のF1グランプリでは、タイヤがハマらないというトラブルが発生。ナットがボルトの山をなめてしまい装着不能に。そのマシンはリタイヤに追い込まれた。というほど、リスクを背負いながらもコンマ1秒にこだわるのだ。

ドライバーの技量も無視できない。勢いよくピットロードに駆け込んできて、ピットの速度規制線を通過するその瞬間に、時速120km/hにピタリと合わせなければならない。ピットロードリミッターが作動しているとはいえ、自動減速してくれるはずもないから(たぶん…)、速度を合わせるのはドライバーのブレーキングテクニック次第。作業エリアの囲われた枠にピタリと停止させるのも、決して簡単ではない。

僕が参戦するレースもタイヤ交換があり、ピットロード制限速度がある。だから、その速度合わせが簡単ではないことを実感している。制限速度に合わせようとしてもピタリと合わない。例えば150km/hから60km/hに減速しようとしても、一旦50km/hほどに速度が落ちてしまう。その瞬間にピットロード速度リミッターボタンをオン。そこから改めて加速しながら60km/hに合わせるという失敗も少なくない。

F1では、ピットロードで逆転を狙うというアンダーカット作戦が常態化している。つまり、ピットロード進入のための減速から、タイヤ交換作業を終えてコースに躍り出るまでのタイムが最速でなければ、さらにそれが安定して叩き出せるタイムでなければ作戦は成立しないのである。正確に作業を遂行する前提で作戦が組み立てられているから、ミスは許されないのだ。

エンターテインメントの国ならではの、派手なショー

そしてあらためて驚かされるのは、NASCARのピット作業である。F1のピット作業員は20名。マシンを取り囲み、完璧な役割分担が出来上がっているから為せる技だ。だが、NASCARのピット作業員はたった6名だ。しかもその6名でタイヤ4本交換と給油とジャッキアップをこなす。そればかりか、タイヤは鉄の5穴ホイールに組み込まれておりサイズも大きい。フォーミュラではないからフェンダーがある。脱着が難しい。
給油タワーはなく、米俵を縦にしたような10ガロンのタンクを抱えてマシンに駆け寄る。そして自然落下給油。通常はそれを2本、マシンに注ぐのである。
しかも、である。ピット前でスタンバイすることは許されない。自チームのマシンが、迫ってきてから、タイヤと10ガロンの給油タンクと、そして重たいジャッキを抱えて飛び出して作業するのである。
費やす時間は約13秒という神業だ。
マシンが停止する直前に、6名のメンバーがウォールから躍り出る。まずは逆サイドをジャッキアップ。タイヤチェンジャーが、高速回転するインパクトレンチで5本のナットを外す。ナットが飛び散る。レンチの高周波サウンドが途切れることなく響く。
タイヤが外れると同時に、2本のタイヤを抱えて走ってきたキャリアマンが作業に加わる。インパクトレンチを高速で回しながら5つのナットを組み込み、ジャッキダウン。ここまでがおよそ6秒という素早さだ。
その作業を、逆サイドに回って繰り返す。その時間が13秒というのだから、これはもはやイリュージョンである。
一見すると、慌ただしく作業しているように見える。F1の方が遥かに整然と業務を遂行している落ち着きがある。だが、詳細に眺めてみると、NASCARの方が知恵を絞り、タイミングを合わせ、高度なフォーメーションであることがわかる。

例えば左後輪、チェンジャーは外したタイヤを肘を使って縦に立てかける。するとガスマンは給油中であるにもかかわらず、外したホイールの内側に左の足先をひっかけ、ウォール側に転がすのである。足先で、正確に、である。
例えば右前輪、チェンジャーは外したタイヤをウォール側に転がす。タイヤはマシンノーズの曲線に沿って、やや傾きながら弧を描いて転がっていく。その先には自陣の受け手が待っている。これはもう大道芸を見ているように鮮やかだし、6名の一糸乱れぬフォーメーションは、ダンスを観ているように芸術的だ。

NASCARは頻繁にピット作業があるから、一度のレースでそれを10回ほど繰り返すというのだから信じられない。アメリカにはピット作業専用の職業がある。彼らはファクトリーに設置された、ピット作業専用のオーバルで(それがあることが信じられないのだが…)、日々訓練をしている。たいがい、アメリカンフットボールやバスケットボールの経験者だそうだ。メカニックの兼務ではなく独立した職業で、それだけで高額の報酬が得られるのだそうだ。
だからといって、規則上ピット作業員を増やすことはできないし、ハイテクに頼ろうとはしない。だからその13秒はもはや人間の限界のようで、時代を追うごとのタイム短縮には至らないのだが、それはそれで楽しみである。僕のNASCAR観戦の楽しみの一つは、ピット作業にある。エンターテインメントの国アメリカでは、それ自体がショーなのである。

小柄なチーフの妙技

僕が所属するBMW Team Studieのチーフメカニックも、レース界でちょっとした注目の人になりつつある。あだ名は「ちゃんもり(森健太)」。キュートな笑顔の小柄なメカニックなのだが、仕事ができるからチーフの立場になった。
ピット作業の陣頭指揮をとりつつ、ストップボードでマシンを待ち受け、停止とともに助手席に回り、コックピットに飛び乗りドライバー交代をサポートする。そのすきに、トランスポンダーの交換をこなし、フューエルカウントをリセット、ドライバーのエアコンセットやシートベルトアジャスト…などなど、あの短時間に実は多くのミッションを抱えているのだ。

キュートなのは、マシンへの乗り込みかた。助手席を経由してコックピットに潜り込む。その瞬間彼は、“ピヨ〜ン”とバッタが何かに弾かれたような勢いでジャンプ、ジャングルジムのように張り巡らされたロールケージの隙間から飛び乗ってくるのだ。一般的にはゆっくりと、腰を曲げて乗り込むのに対して、彼の動きはそれとは異なって鮮やかだ。それこそ大道芸人かダンサーが舞うようにして、コックピットの中に瞬間的に飛び乗ってくる。
フロントガラスが汚れていれば、重ねて貼られているクリアフィルムを剥がす。それも彼の役割。だが小柄な彼には、ちょっとシートのめくり位置は高い。それでも彼は意に介さない。持ち前の身体能力を発揮、この時も“ピヨ〜ン”とジャンプしてフィルムを剥がすのだ。これも妙技である。
F1やNASCARといった世界最高峰のレースだけではなく、世界の様々な地域でピット作業は行われている。そしてどのレースでもコンマ一秒の短縮にこだわり、そしてそこにドラマが生まれる。そしてスターがいるのだ。
これからもぜひ、ピットストップの一部始終に見惚れて欲しい。

キノシタの近況

春は世界各地で24時間を行うにはちょうどいい季節なのかもしれない。日本では富士24時間レースが終わったばかりだというのに、ドイツでは伝統のニュルブルクリンク24時間が開催された。例年だと6月に開催されるはずのル・マン24時間は8月にずれ込んだが、スパ・フランコルシャン24時間もまもなく開催される。24時間男としては、興奮の季節を迎えているのだ。

OFFICIAL SNS

国内外の様々なモータースポーツへの挑戦やGRシリーズの情報、イベント情報など、TOYOTA GAZOO Racingの様々な活動を配信します。

GR GARAGE

GR Garageは、幅広いお客様にクルマの楽しさを広めるTOYOTA GAZOO Racingの地域拠点です。

OFFICIAL GOODS

ウエアやキャップなどチーム公式グッズも好評販売中。