レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

330LAP2022.12.21

レースアナウンサーに驚愕

サッカーW杯で、木下隆之は睡眠不足の日々を過ごしているという。日本代表は惜敗してしまったけれど大健闘。数々の番組で活躍が報道されており、日本中をサッカーの虜にした。それを観戦していて、自身も頻繁にテレビ解説をする木下隆之が感じたのは…。

海外レースの解説で…

これまで何度も、テレビ解説などの大役を仰せつかってきた。DTM(ドイツツーリングカー選手権)、WTCC(世界ツーリングカー選手権)、スーパーGTシリーズ、ル・マン24時間、ニュルブルクリンク24時間、スパ・フランコルシャン24時間、etc…。
特に多かったのは海外のレース番組であろう。現地の実況席からライブ放送することも少なくないし、海外レースとはいえ現地まで飛ぶこともままならず、日本のテレビ局のスタジオで海外配信の映像を素材に、解説することもある。
解説をするようになってから、かれこれ30年近くの時が過ぎている。たしか、最初にゲスト解説の仕事をいただいたのはWOWOWだったと思う。DTMだった。都内某所の防空壕のような暗いスタジオにモグラのように籠り、海外から配信されてくる映像や音声に合わせて全戦解説をした。現地からのライブ映像だから、時差を考えるとたいがい日本は深夜である。
海外レースのライブ配信で苦労するのは、現地の空気感が伝わってこないことだ。現地に派遣したリポーターからの情報を頼りに解説を組み立てるものの、気温や天候の変化を肌で感じることができない。リアルな解説を届けるのはなかなか困難なのである。

そんな解説業務で最高に頼りになるのは、実況担当のレースアナウンサーの存在である。MC、つまりマスター・オブ・セレモニーである彼らは、オーケストラで言うところの指揮者。僕ら解説陣はMCの掌の上で、指示されたタイミングで言葉を紡ぐ。
「今回のゲスト解説は、国内外で活躍されているレーシングドライバーの木下隆之さんです。木下さん、今日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
「木下さんはこれまでもドイツのレースを始め数々の海外レースを経験しており、今回のニュルブルクリンクにも日本人最多の出場をされ…(中略)…今回もぜひ、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
ほとんどMC任せ。振られたら答える。タイミングもお任せなのである。MCの頭の中で番組の流れがすでにできている。そのタイミングを乱さぬようにテンポ良く言葉を挟むのである。

アナウンサーの高速頭脳には感心する

ほとほと感心するのは、MCの方々の頭脳の回転の速さである。
スタジオ収録の1時間ほど前に打ち合わせがある。進行のタイムスケジュール表が手渡される。オープニングが○時○分○秒から始まり、○時○分○秒からCM。○時○分○秒〜○時○分○秒まで現地映像で、○時○分○秒から国歌斉唱、○時○分○秒からスポンサーの開会宣言…といったように、秒単位で刻まれたタイムスケジュールが台本である。
それを忠実に追うのがMCの大切な業務だ。
国歌斉唱は、無言で映像を優先する。スポンサーは確実に紹介せねばならない。数々の制約があるのだ。全ては秒単位で進行するのである。
それでいて、レースが始まると台本はなくなる。
「○時○分○秒からレーススタート。○時○分○秒終了」
展開は読めないから、あとは自由にトーク展開するだけなのだ。

時おり、そんな秒単位の進行があるにも関わらず、だらだら解説を続けてしまう場面を見聞きしたことがあろうかと思う。
たいがい解説者やゲストは、進行表の存在を無視してしゃべりたがる。会話の途中で突然CMが流れてしまうシーンも少なくない。
進行に気づかずダラダラと話をやめようとしない解説者に、それとなく誘導するように話を中断させるのもMCのテクニックのひとつである。
「なるほど…」
「はい、その通りですよね」
「ではその辺りは、また改めて解説していただきましょう」
そんな文言で話を区切るのは、たいがい解説者が進行表を見ていないからである。

決まりごとも少なくない

レース番組には、言葉の決まりごとがある。オートバックスレーシングチームはARTAと表記されているから僕らはついつい「エーアールティエー」と欧文で呼ぶ癖がある。だが放送上は、正しくオートバックスレーシングチームスーパーアグリ」なのである。
鈴鹿のシケインは、シケインと呼ぶのがイメージしやすい。だが放送上は正確に「日立Astemoシケイン」である。
「おっと、シケインでクラッシュですよ」
僕らが軽はずみにシケインと呼べば、すかさずMCがさりげなくフォローしてくれる。
「おっと、日立Astemoシケインで接触がありましたね」

僕らのようなベテランにとって、レースを戦っているドライバーは後輩だから、親しみを込めて呼び捨てにすることもあるし、仲のいいドライバーを愛称で呼んで解説することがある。だが、放送ではすべてが「〇〇選手」なのである。
蒲生尚弥は、僕にとっては「ガモー」もしくは「ガモーちゃん」である。
井口卓人は、僕にとっては「イグチ」であり、「イグチー」である。
だが、放送上では蒲生選手、あるいは井口選手と呼ばねばならないのだが、ついうっかり「ガモーとイグチーのペースがいいですね」などと口が滑る。さすがに「ガモーちゃんとイグチーが…」とは言わないが、そこを有能なMCが「蒲生選手と井口選手が…」と言い直してくれるのである。
失言のフォローも、MCの重要な役目である。

レースアナウンサーの記憶力にも驚くばかりである。
ヨーイドンでスタートしてしまえば、あとはゴールするだけ、といった短距離のレースならまだしも、耐久レースではタイヤ交換の有無、装着しているタイヤの種類、ガソリン搭載量…。そういった全ての要件が複雑に絡まって目まぐるしくレースが進行する。そこを正確に伝える能力は並はずれている。
○周目に○〇がピットインし、給油のみでコースインした。
といったことを全て記憶している。僕ら解説人は、MCが目の前でいま起きているバトルを熱く実況しているすきに、手元の進行表に目を落とせる。ピットインの内容などをメモ書きする余裕がある。だがMCにそんな余裕は与えられない。だと言うのに、頭の中のメモ用紙にすらすらとポイントとなる出来事を記しているのである。ほとほと感心する。

膨大な知識量

F1ドライバーは、1チーム2名体制だ。つまり、マシンのカラーリングは共通であり、ドライバーの識別はヘルメットだけとなる。ゼッケンなどほとんど見えない。しかも最近は、ヘルメットカラーを毎戦変更することが流行になっている。瞬間的に見分けるのは至難の業だ。
「○○選手がトップ浮上した〜」
映像に映し出された瞬間にドライバーを言い当てる。
スーパーGTでは、複数のドライバーが一台のマシンのステアリングを握る。識別の参考になるヘルメットなど、ほとんど映っていないにも関わらず、それでも言い当てる。
おそらくレース展開を記憶しているに違いない。視覚的な判断ではなく、レース展開からその時々のドライバーを予測しているのだと思う。

サッカー解説の凄さ

レースアナウンサーは一方で、サッカーの実況をすることも少なくない。これはもう神業としか言いようがない。
ピッチ上には10名の同じユニフォームを着た選手がいる。キーパーは色違いだし、ポジションの移動が少ないからわかりやすいとはいえ、フィールドプレーヤーは目まぐるしくポジションを入れ替える。右のサイドバックだからといってピッチの右後ろにじっとしているはずもなく、時には左の最前線でシュートを打つ時もある。そもそも敵を欺くためにポジションを交錯させるシーンもある。芝生の上を激しく駆け回る選手の名を的確に言い当てる。

しかも、である。彼らは噛まない。滑舌が整っているのは当然のことかもしれないが、舌を噛みそうな選手名も、言い淀むことなく、なめらかに読み上げるのだ。
「ルカ・モドリッチがイヴァン・ペリシッチに高いパス、それをドミニク・リヴァコヴィッチがスルーしてマルセロ・ブロゾヴィッチがシュート…」
サッカーW杯、クロアチア代表戦は狂気である。
ビッチとは息子という意味が含まれているらしい。男子はたいがい誰かの息子である。紛らわしい。
なぜこれを噛まずに正確に実況できるのかは、人類の永遠の謎である。
想像できるのは、選手を視覚的に識別しているのはごくわずかでありゲーム展開が理解できているからであろう。この流れだったらルカ・モドリッチとイヴァン・ペリシッチがこのスピードでこの辺りにいるはずであり、となれば、ドミニク・リヴァコヴィッチとマルセロ・ブロゾヴィッチがゴール前に迫るはずだと予測できているに違いないのだ。
「蒲生選手」すら言えずに「ガモー」などと口にしてしまっている自分が情けない。
レースアナウンサーは、自転車レースやアイスホッケーにも精通していることが少なくない。先日観戦したアイスホッケー・スウェーデン代表戦も狂気だった。
レースよりも攻守が目まぐるしく展開するサッカーの実況も困難だが、アイスホッケーはもっと複雑である。
「ラーシュ・ヨハンソンがゴールを死守する中、ルカス・ベングトソンからの長い縦パスをリヌス・ヨハンソンがシールで合わせ、フレドリク・オロフソンがシュート〜」
コートはサッカーのピッチよりも狭く、それでいてプレーヤーはキーパーも含めて同じユニフォームである。しかもご丁寧に、ヘルメットを被っている。髪型や髪の色での判断も拒絶する。黒人なのか白人なのか。それすらも判別不能なのだ。

さらに言えば、攻守が目まぐるしく変わるとはいえ、サッカーはおおむねポジションが決まっている。日本代表のキャプテン吉田麻也はディフェンダーだから、たいがいゴール前の中央で敵を防御する。身長も高い。予測はある程度つく。だがアイスホッケーは、定位置がほとんどない。しかも、防具を纏っているから体格すら識別できない。
さらに付け加えるならば、ゲーム中に頻繁に選手が入れ替わる。およそ1分ごとに、何度でもプレーを中断せずにコロコロと入れ替わるのだ。
実は、過去に何度かアイスホッケーを観戦したことがある。だが、全くわからなかった。理解できたのは敵と味方が何やらゴチャゴチャしていることだけであり、選手名はおろか、高速移動するパックすらどこにあるのかわからない。足元でパックを隠してもいる。もうお手上げである。
ちなみに、ソンとは息子という意味が含まれているらしい。男子はたいがい誰かの息子である。紛らわしい。

まさにマスターオブセレモニーである

そんなサッカーやアイスホッケーを実況しているMCにとって、レース番組は容易いことなのかもしれない。
それが証拠に、解説陣を巧みな話術で誘導しているのである。視聴者が期待しているコメントを、さりげない言葉で誘い出してくれるのだ。
「木下さん、これからの展開はどうなりますでしょうか」
番組の流れを整える。
まず最初に名前を告げてから話を展開するのは、次にコメントを求めますからね、という合図である。解説者に考える時間を与えてくれているのである。

トークレベルも頼りない解説者が時おり陥る間違いも、さりげなくフォローする。
「そうですね、○○さんのような考えもありますが、別に考えがあるとすれば…」
露骨に解説者のミスを指摘するのではなく、恥をかかせない配慮にも感心する。

そんな実況アナウンサーの高速回転頭脳を楽しむのもスポーツ観戦の楽しみかもしれない。

キノシタの近況

最近はスーパーカブにぞっこんである。世界一売れているバイクには、人を惹きつける魅力がある。蕎麦の出前をするわけではないのに、純粋に走りが楽しいのだ。

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