レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

347LAP2023.09.06

「ドライバーにとっての瞬きは?」

レーシングドライバーにとって、もっとも大切な身体機能は目であろうことは想像がつく。300km/h以上の高速で移動しながら、数センチ単位の正確な走行が欠かせない。高速で競り合うライバルとのコンタクト。優れた動体視力が重要なことは論を待たない。超高速のニュルブルクリンクで戦う木下隆之が、ドライビング中のアクションを語る。

レース中のまばたき

旧聞に属するが、朝日新聞にレーシングドライバーの視覚情報に関する記事が掲載されていた。NTTコミュニケーション科学基礎研究所が、スーパーフォーミュラを戦うドライバーのヘルメットにカメラを装着し、富士スピードウェイを走行中のまばたきを確認したという。
それによると、1コーナー進入時や100R旋回中ではまばたきはせず、コーナーを凝視していたという。
まばたきは瞳を潤す効果がある。そのまま瞼を開き続けていては目が乾く。そのために、ハードブレーキングや限界コーナリングを終えた時にはまばたきが増えるそうだ。そしてまた、次の迫りくる難所の前でまばたきが止まる。その繰り返しだという。
人間に必要なまばたきの回数は、平均して1分間に2回から3回と言われている。だが、走行中のドライバーは1分あたり10回から40回と多い。しかも、今回テストに立ち会った数名のドライバーの間で回数に開きがあったという。
このデータから想像できるのは、激しい減速Gが発生する場所や限界コーナリング中には、まばたきをせずに視覚から情報を取り入れているのではないかとのことだ。
まあ、ドライバーからすれば、とても当たり前のことだ。わざわざテストをしなくても、そうだろうねと予測することはできる。
減速できるかできないかのギリギリのポイントでブレーキングを開始するその時に、まばたきをしている隙はない。カッと目を見開いて、たとえばコーナーまでの距離を表示するブレーキング看板や、あるいは個人がそれぞれ決めている目印を凝視しているのだ。
まばたきは一般的に約0.2秒ほどだ。200km/hで走行していると仮定すると、瞳を閉じている隙に約11メートルも移動しているというのだから、視覚情報が途切れるのは好ましくないコーナリング中は、クリッピングポイントであったり、コーナー出口の縁石だったり、自分が理想だと思われるラインを描こうと、見定めている。大いに自覚しているのだ。

コーナリングを終えた後にまばたきをすることは、瞳を潤す効果があるという意味に加え、緊張を和らげる効果もあるとしている。あるいは、精神状態をリフレッシュしているのかもと付け加えている。

これも自覚がある。僕の場合は、コーナー手前で深呼吸をして、コーナーに挑むことが多い。何かをする前に、深呼吸しながら「さあ、やるぞー」と腕まくりをするようにだ。
「スーハースーハー」大きく呼吸していますねと、たびたび指摘されることがある。
おそらく、限界ギリギリのアタック中には、息を止める人が多いのだと思う。それが証拠に、予選アタックは、たった1周しただけなのに息が上がることがある。それでいて、コンスタントラップでは呼吸は穏やかだ。タイムに比例して、つまり、集中度に比例して、息の荒さが違うのだ。
まばたきの回数や場所をデータとして可視化するのは研究としては有効だが、できれば呼吸との関係も調査してもらいたい。

ドライバーそれぞれの癖

このデータは、一般的な人間共通の現象だが、ドライバーそれぞれにも緊張と弛緩の癖がある。
実は僕がニュルブルクリンクを走るとき、あの長いストレートに差し掛かると、シートベルトのたるみを整える癖があることをあるときに知った。
ノルドシュライフェ後半の、高速右コーナーのガルケンホフを立ち上がってからドッティンガーホーへーを経由してティアガルテンまでのひたすら長い直線で、左右の肩ベルトをしきりに絞める癖があるのだ。
ガルケンホフが6速全開だから、僕がドライブするトーヨータイヤGRスープラGT4ではすでに約190km/hに達しており、そこから約40秒間をひたすらフルスロットルで突き進む、ティアガルテンのエンドでは最高速度に達しており、しかも左旋回での深い下り区間である。その数十メートルで最高速度が10km/h跳ね上がる。コースサイドは木々が生い茂る林だから、もしそこで何かトラブルが発生したら、はたしてマシンがどうなるのか予想がつかない。身体の危険すらある。そこで僕は、身体をバケットシートに強く固定するために、シートベルトをタイトに締め上げているのだ。

それを知ったのは、自身のインカー映像を確認したときだった。不自然に何度も何度も肩ベルトに手を添えていた。本人は無意識なのだが、おそらく恐怖を感じ、身の安全を担保するために、シートベルトの緩みをなくしているのだと思う。

限界ギリギリのコーナーに差し掛かる時に、口をあんぐりと開ける癖を知ったのも、インカー映像からである。
その時は、滅多にかぶることのないジェット型ヘルメットを着用しており、表情が丸見えだった。その画は、なんとも間抜けで、とてもこれから現界ギリギリに挑もうとするレーシングドライバーには相応しくない緊張感のないものだった。おそらくヘルメットの微妙にたるんだ顎紐を、顎を下げることでタイトに締め上げているのだと思う。
というように、ドライバーにも、臨戦体制に転じる前に行う儀式のような癖があるのだ。

まばたきだけではなく…

ストレートで盛んに指先を動かす癖を持つドライバーもいる。パドルシフトを俊敏に遅れることなく操作するための、緊張を和らげるための指の弛緩なのかもしれないし、あるいは、コーナーリング中に肩の無駄な力を抜くための、定めている儀式なのかもしれない。
ピアニストが指を遊ばせるようなそれは、僕のあんぐりと口を開けるよりは遥かにスマートだが、緊張と弛緩をコントロールすることで、自己を臨戦体制に落とし込むという点では共通なのかもしれない。

たとえばプロ野球プレーヤー当時のイチローが打席で必ずする、あのバットを剣のように垂直に立てるのも、欠かせない儀式なのかもしれない。バットとピッチャーを交互に見遣ることで、動体視力のための眼球調整のための弛緩だと僕は思っている。垂直と並行を交互に見遣ることで、身体の支点を定めているのかもしれない。

相撲取りが、立ち合いの直前に頬を激しく叩くのも、何かしらの科学的な理由があるのかもしれない。それは、ユニフォームの袖を右から通すとか、出掛けには左足から敷居を跨ぐとか、そんなこだわりのルーティンではなく、実利があるのかもしれない。

新聞に掲載されていた実験データは、それほど驚くほどのことではない、ドライバーだったら習うまでもなく本能的にこなしているまばたきだが、その研究をもっと追い込めば、アスリートの成績をさらに高めることが出来る「何か」が発見できるかもしれないと思った。

レーシングドライバーは、危険と隣り合わせという特異な世界で戦っている。それでいて、1000分の1秒を削り取らなければならない。精神的な重圧もある。
だからこそ、個性的な癖が現れる。そんな癖を探すのも面白いし、それを科学的に侃侃諤々と議論されるのを想像してみるのも楽しいかもしれない。
ここで紹介した癖の多くは、おそらく緊張と弛緩をコントロールするものであろう。まばたきも同様のことなのかもしれない。

キノシタの近況

この号がアップされる日には、僕は既にドイツにいることになっている。NLSニュルブルクリンク第6戦と第7戦に参戦するために、アパートでの合宿生活をしているはずだ。
さて、ドッティンガーストレートで、肩紐を絞めているのであろうか。

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