387LAP2025.05.14
「レース観戦のお国柄」
勝負の世界に生きる者にとって、観戦は娯楽ではない。それは学びであり、修行であり、未来を賭けた視察旅行のようなものである。だが、心の奥底で、あの頃の鈴鹿を今でも覚えている…と、F1日本グランプリを観て、楽しかったあの頃を木下隆之が回想する。
あの日の焼きそばに勝るご馳走なし
レーシングドライバーという肩書きには、ある種の不自由がついて回る。レースを観戦するという行為一つとっても、それは純粋な楽しみではなくなるのだ。
勝負の駆け引きを読み取り、戦略を分析し、ドライビングのヒントを探す。まるで、敵地に潜入するスパイのような緊張感がある。
レースを楽しめていたのは、まだプロの世界に片足すら踏み入れていなかった頃。
あのF1ブームが巻き起こった時代にまで遡る。
ホンダが第二の黄金期を迎え、赤と白のマルボロカラーが世界を席巻し、セナとプロストが戦いに火花を散らしていた時代だ。
僕はその頃、ようやくF3のシートを手に入れたばかりだった。プロになったのか、それともアマチュアの域を出ていなかったのか、自分でも定かでない曖昧な時期。まさに人生の分岐点、レースという迷路の入口に立っていた。
そんな僕の前に、世界最高峰のドライバーたちが現れた。
鈴鹿サーキットへは、友人から借りたミニバンで向かった。西コースから遠く離れた駐車場に停め、車中泊とバーベキュー。それが、僕にとっての“初めてのF1観戦”だった。
金曜日、早朝からねぐらとなる場所を確保し、小さなコンロに火を点ける。フライパンは家から持ち込んだもので、焼いたのはマルちゃん焼きそばと安い豚肉。味付けは市販の焼肉のたれという、涙が出るほど質素なメニューだった。
だが、こういう時に限って、その質素さが胃袋にしみる。冷えた空気の中、湯気の立ち上る焼きそばの匂いは、三ツ星レストランのフルコースにも勝る贅沢だった。
キャンプなのか観戦なのか、判然としない時間。だけど、その曖昧さが、妙に心地よかった。ストイックさを手放した時、人は初めて本当の意味で“レース”を味わえるのかもしれない。
その晩は、寝袋の中でミニバンの窓越しに星を数えながら、「このままプロになれなかったら、俺は焼きそば職人になるべきか」と本気で悩んだものだ。ま、翌朝には忘れていたが。
ドイツの森で建てる夢の城
ニュルブルクリンク24時間レース──その名を聞くだけで、身体の奥底が騒ぎ出す。一周25km、アイフェルの深い森を縫うようにして走るそのコースは、世界一過酷な舞台として知られている。だが同時に、世界一自由な観戦空間でもある。
このレースの観客、いや、むしろ“キャンパー”たちは常軌を逸している。毎年20万人以上がコースサイドに陣取り、火曜日にはすでにキャンプを開始。レースのスタートは土曜の午後であるにもかかわらず、である。
その本気度たるや、レースチーム顔負けだ。ただの観戦用テントでは済まされず、巨大なキャンピングカーを並べる者もいれば、木材を持ち込み、即席の観戦ステージを組み上げる猛者もいる。
ある者は木からブランコを吊るし、またある者は地面を掘ってプールを作る。さらに上を行く者たちは、なんとツリーハウスまで建ててしまう。それも、日曜大工のレベルではない。梁の通し方、足場の組み方、配線に至るまで、まるで本職のような精度なのだ。
中には、「俺の応援席にはエレベーターがあるんだ」と言い張る者もいて、まさかとは思いつつ確認すると、油圧ジャッキを使った昇降装置がそこに。レースを観に来たのか、家を建てに来たのか、もはや判別不能である。
炊飯器を車載バッテリーで動かす者、煙突付きの薪ストーブを設置する者、そして巨大なスクリーンでレース中継まで始める者もいた。そこにはもう、“家”どころか“小さな文明”が成立していた。
ドイツのものづくりの底力は、BMWやポルシェだけにとどまらない。この観戦キャンプ群こそが、“DIYのワールドチャンピオン”たちの集結なのだ。
応援という名の芸術、ニッポンの底力
だが、日本も黙ってはいない。昨年のF1日本グランプリ──記録的な観客数を叩き出したその会場には、世界に誇れる“観戦スタイル”があった。鈴鹿にはニュルブルクリンクのようなキャンプサイトはない。しかし、観客たちは指定された座席に、自分なりの世界を作り上げていたのだ。
フェラーリカラーに染めた和服、レーシングカーを模したヘルメット、旗を組み上げて立体造形に仕立てた応援団。コスプレも応援も、どれも一級の“ものづくり”であり、日本的な工夫と情熱の結晶であった。
「これはどこかの工芸高校の卒業制作か?」と思わせるような完成度の応援グッズが、各地のスタンドで花咲いていた。
さらに、観客席のあちこちで “謎の儀式”が繰り広げられていた。段ボールで組んだF1マシンに乗って記念撮影を繰り返す家族、スピーカーからエンジン音を流しながら応援する中年男性、そして、なぜかカツラで風に挑む応援団長。
オランダGPではオレンジ一色。イタリアGPでは赤一色。確かに壮観だが、応援スタイルにおける技巧という点では、日本の右に出る国はない。
観戦とは、ただ観るだけではない。応援とは、心をどう表現するかという芸術だ。そこに、僕は誇りを感じた。いや、感じずにはいられなかった。
予選はすでに始まっている
ニュルブルクリンク24時間レースは、今年の6月に再び開催される。またあの森に、情熱という名のハンマーとスパナを持った人々が集まるのだろう。
そして日本のF1グランプリは、来春まで待たねばならない。だが、ファンたちはすでに心の中で準備を始めている。
どんな衣装を着ていこうか。どんな応援旗を作ろうか。来年のスタンドをどう彩ろうか──そうした妄想が、レースの始まりなのだ。応援は準備が9割、あとの1割は度胸と天気運である。レースとは、サーキットを走る者だけのものではない。そこに集う人々一人ひとりが、それぞれの情熱で“戦って”いるのだ。
誰よりも早く、心のエンジンを温めている者こそ──真のファンである。
キノシタの近況
ニュルブルクリンク第2戦は4月26日ですが、それから隔週でレースが続いている。そこで思案した。ずっと通しで滞在するか、もしくはレースごとに往復するか・・・。飛行機代を節約するために、40日間の長逗留することにしました。僕を忘れないでくださいね。