レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

388LAP2025.05.28

「武士道とアンリトゥンルール」

スポーツの世界には、ルールブックには書かれていない“お約束”が存在する。これは単なるマナーでありながら、その実、競技者としての品格や矜持を示す行動指針でもある。柔道の両者反則負け、メジャーリーグでのブーイング、NASCARの暗黙の了解。勝敗の向こう側にある“勝ち方の美学”を、木下隆之が追ってみた。

両者反則負けに込められた、柔道の精神

先日、柔道選手権の決勝戦で「両者反則負け」という珍事が発生しました。お互いに組み合ったまま、打つ手がなく技が出ない。それを柔道の規範である消極的なプレーとして反則ととなり失格です。したがって敗者だけで勝者なし。表彰台のトップが空いたままの表彰式は間が抜けていましたね。

ただ、それは柔道の美徳の一つかもしれません。柔道は日本発祥の格闘技です。武道ですから、なによりも精神が重んじられます。技が出ないとスポーツとして面白くない…という興業的な考え方が表層的にはあるのかもしれませんが、根底は「前に出る」という思いなのでしょう。

両者の実力が拮抗している場合、攻撃に転じた瞬間に逆転されることがあります。組んでいる選手には、相手がその瞬間を待っている気配がわかります。ですから動かないのではなく動けないのです。しかし、それを含めて、攻撃しない弱さが反則になるのです。

僕は剣道を嗜んでいましたが、剣道は柔道よりも武士道の意識がさらに強いようです。興行よりも精神を優先するのです。礼に始まり礼に終わる。

かつて全日本の剣道大会決勝で勝利した剣士が、道場から退出する際に小さく拳を握りました。それをガッツポーズと判断され、失格になったことがあります。理由は、敗者への礼節を欠いているとのことです。それほど礼儀には厳しいのです。柔道はそこまで厳格ではありませんが、勝ち負けよりも礼儀が欠かせないのです。

「勝つよりも、“美しくあること”が強さ」 柔道も剣道も、試合そのものが自己修養の場。勝っても“品”がなければ、観ている者の心には残らないのですね。

思えば、僕がまだ十代の頃、道場の木の床は冬になると氷のように冷たく、足の裏がしびれて感覚を失うほどでした。稽古が終わり、正座して師範に一礼するたびに、その冷たさが不思議と心地よく、まるで心の垢まで洗い流してくれるような気がしたものです。

「勝ちに貪欲」なプレーを観てもらうこともスポーツのエンターテインメントですが、武道の「勝ちの美学」も、まさに静かなるエンタメですね。

メジャーリーグに潜む、陽気な礼節

米国メジャーリーグは、武士道とは無縁のように思えますが、マナーに厳しいという点においては共通しているようです。かつてイチローが渡米し活躍した頃、守備の隙を狙ってポテンヒットを量産するそのバッティングスタイルが酷評されたことがありました。メジャーリーグの精神は、力強く打って豪快に走るというわけです。

メジャーリーグでは、得点差が大きく開いた場合、勝っているチームが盗塁をするとブーイングが起こるそうです。試合がすでに大差(例:7点以上)で決まったような状況で盗塁をすると、「もう勝ってるんだから、そこまでやるなよ…」という“アンリトゥンルール”(unwritten rules:暗黙の了解)に触れてしまいます。相手チームも観客も、「勝っている側の礼儀知らず」としてブーイングすることがよくあります。さらに小さな1点を欲しがるスタイルがマナーに欠けるというわけです。

たしかにメジャーリーグで”送りバント”をするシーンを見ることは滅多にありません。ルールに抵触するわけではありませんが、アウトを献上してまで進塁することが非効率と感じているのかもしれませんし、そもそもそんな器用なプレーヤーがいるとなど想像ができません。1点を確保するよりも、ドカンと大量得点を狙うほうが好みなのかもしれませんね。

ましてやスクイズなど、僕はこれまで一度も見たことがありません。聞くところによると、かつてはブーイングになったスクイズが、いまではとても珍しいという理由で、大喝采だそうです。わからないものですね。

余興のようなブレー

先日、あるチームが大量得点で10点差としました。するとどうでしょう。優勢なチームのピッチャーが、日頃マウンドに立つことのない野手と交代したのです。しかもそのピッチャーは、ドジャースの山本由伸や佐々木朗希の投球フォームを真似たのです。スタジアムは笑いに包まれました。まるでファン感謝デーの余興を見るような雰囲気になりました。

感心したのは、バッターが本気でヒットを狙いにこなかったことです。ピッチャーは緩い球しか投げません。打つ気になればヒット性の当たりにするのは簡単でしょう。どんな形であれ、ヒットはヒット。自身の打率を上げることも可能です。ホームラン争いの選手だったら、この時こそとばかりにスタンドめがけて大振りをするかもしれません。ですが、ピッチャーもピッチャーですがバッターもバッターです。そこはメジャーリーグですから、余興を利用してアベレージを上げようなどというダサいことはしませんでした。

このとき僕は、かつてボストンのフェンウェイ・パークで観戦したときのことを思い出しました。ビール片手に、見知らぬ観客と肩を組み、寒風のなかでホットドッグをかじるその時間には、国境を越えた何かがありました。そこには確かに、陽気で、でも確かな"礼節"があったのです。

どんな状態でも全力を尽くすのが武士道の精神でもあります。真剣勝負を期待する観客に対して、あるいは失礼な行為かもしれません。ですが、メジャーリーグにはメジャーリーグのマナーがありますからね。

NASCARの“騎士道”

アメリカンモータースポーツの最高峰NASCAR(ナスカー)は“アンリトゥンルールの宝庫”です。ルールブックより厚いんじゃないかってぐらい、「お約束」が多いのです。

残り数周の“バンプ・アンド・ラン”は許容範囲ですが、レース序盤で強引に突っ込んだら「あいつ空気読めない」と総スカンを喰らうかもしれません。

ラップダウンのマシンがトップ争いに絡むのも御法度です。ナスカーでは、ドライバーとスポッター(ドライバーにレース全体の状況を伝えるコントロールマン)の無線交信は観客に公開されています。無線で黙ったままというのは、ファンサービスを無視していることになるのだそうです。

勝ったのにウイニングドーナツターンをしないのも無粋ですね。その派手さを期待してサーキットに足を運ぶ観客も少なくないのです。というあたりは、武士道ではなくエンターテインメントのお約束ですが、それを守るのもマナーです。

行間を走る精神

サッカーでは、相手選手が倒れていたらボールを外に蹴り出してプレーを中断することがあります。せっかくキープしていたボールは相手に渡りますが、プレーヤーの体を最優先にするのです。治療が終わればプレーは再開されますが、相手チームがボールを蹴り出してくれたことで得たマイボールを相手の足元に渡します。お礼と言うわけです。

ことほどさように、スポーツには、ルールブックにないマナーが存在するのです。プレーヤーならば、規則書の行間に滲み出るようなマナーを知らなければなりません。

僕がニュルブルクリンク挑戦に際してフル参戦を希望したのは、行間を読みたかったからです。それは文字に記されているわけでもありません。実際に走って空気を感じる必要があるからなのです。レース開始前、スタートラインに並ぶときの静寂――ヘルメット越しに鼓動が聞こえるような瞬間。その一秒一秒が、マナーと敬意の積み重ねで成り立っているのだと、肌で知るのです。

それは誰かに勝つためではなく、自分の矜持を貫くためのスタートです。そんな思いが、静寂の中にこだまするのです。

「ルール違反じゃないけど、ちょっとカッコ悪いよね」──そんな声なき声に耳を澄ませる。それが、本当の一流ってやつかもしれません。

キノシタの近況

2025年のニュルブルクリンク耐久シリーズもはやくも3戦が終了。トーヨータイヤに移籍して18戦目にして初の優勝です。長らくお待たせしました。

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