レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

396LAP2025.10.01

「無線が語るキャラクター」

陸上競技は、いかにライバルより優れた成績を残すかが競技の主体ではありますが、単に勝敗を決めるだけの舞台ではありません。ライバルを打ち破るだけでなく、その背中を称える言葉や態度が、時に記録以上の輝きを放ちます。モータースポーツも同様に、勝者の品格と敗者へのリスペクトが求められるのです。

ライブの至福、モニターの深淵

先日、電車移動をした時のことです。ドアが開くやいなや、椅子取りゲームよろしく人々が一斉に座席へ突進しました。僕の目の前で、スーツ姿の青年と新聞片手のおじさまが同じ席を狙って同時着席。結果、二人は文字通り“尻相撲”の体勢になったわけです。車内が一瞬ざわめいたそのとき、青年は「どうぞ」と笑いながら腰を浮かせ、おじさまは「すまんね」と頭を下げる。小さな一幕ですが、勝負に見えて実は譲り合いのドラマでした。

ふと考えます。人はなぜ競い、なぜ譲るのか。勝ちたい本能と相手を敬う理性は、どうやら共存しているようです。電車の座席争いという日常の“短距離走”にもそれが表れるのなら、先日まで日本で開催されていた「東京2025世界陸上競技選手権大会」という大舞台では、なおさら顕著に表れたに違いありません。ライバルを全力で打ち破ろうとしながら、その背中を誰よりも称える――そこにこそスポーツの真髄があるのかもしれませんね。

世界最高峰の真剣勝負であるF1世界選手権(以下F1)は、同時にもっともエンターテインメント性の濃いスポーツでもあります。20名の選ばれしドライバーが、時速300キロを超える刹那の世界で、己の技量と胆力をぶつけ合います。観客はその瞬間を五感で受け止め、昂揚と興奮に浸ります。

スポーツ観戦は、現地に足を運ぶべきだと信じています。サーキットを吹き抜ける熱風に混じるのは、タイヤの焦げた匂い、オイルの香ばしさ、そして鼓膜を揺らすエキゾーストの轟音です。大地が震え、胸が痺れ、観る者の魂を直撃します。あれを体験すれば、誰もが口を揃えて「スポーツはライブに限る」と言うに違いありません。

しかし、世界を転戦するF1を全戦追いかけられる観客など数えるほどです。だから僕たちは、テレビ中継の画面を通してこの狂騒の宴に参加するのです。幸いなことに、F1のオーガナイザーは心得ていますから、画面越しでも現場さながらの臨場感を提供してくれます。嬉しいことですね。

インカー映像はもはや定番になりましたね。ドライバーのヘルメットに取り付けられた“アイカメラ”が視線の動きを伝え、私たちをコクピットに座らせてくれます。

さらにラップモニターやトラックマップが情報を補完し、観客席では知り得ないデータを浴びせかけてくれます。ドライバーの個人成績やメモリアルな記録までもが逐一紹介されると、時には「自宅のソファの方がずっと濃密に楽しめるのでは」と錯覚するほどです。

耳障りな一面も

なかでも僕が惹かれるのは、モータースポーツのレース無線の公開です。ピットとドライバーのやり取りは、まさに戦場の会話です。

「タイヤの具合は?」
「あと10周は保ちそうです」
「では続行」
「了解です」

こうしたやり取りに耳を澄ませ、同時にラップタイムを確認していると、まるで自分がチームスタッフになったかのように錯覚します。

「もうタイヤが終わってます!」
「もう少し頑張ってください」
「いやダメです、ピットに入ります!」

画面は、即座にピットインのマシンを映し出します。実況解説が不要なほど、ドラマは無線の一言一句から立ち上がってくるのです。日本の能舞台のように、言葉の省略と間合いで観客の想像力を煽る。それが現代のレースの無線劇場なのです。

とはいえ最近、気になることもあります。公開される無線の中には、聞きたくない言葉が少なくありません。

「邪魔するんじゃねぇ、この野郎 !」
ピー音で隠される罵声。
「あいつに押し出された!ペナルティだ!」
「ライン変更は禁止のはずだ、失格にしろ!」

ドライバーは無線での会話が全世界に流れることを知りながら、敢えて抗議を口にします。平たい言葉で言うならば、競技長の耳に届くことを狙った“ちくり”です。これがどうにも耳障りに感じることがあります。

先日、友人の奥様がこんなことを言っていました。
「F1の無線は、子どもには聞かせたくないんです」

理由を尋ねると、教育方針にそぐわないというのです。他人を責める。蹴落とそうとする。自己正当化に必死になる。それらはこれまで「してはいけない」と教えてきたことの真逆だ、と。なるほど、耳の痛い話です。

確かに”ちくり”は耳に心地いいものではありません。世界から選ばれた英雄が吐く言葉として僕は、認めたくはないですよね。もっと正々堂々としているべきです。英雄なのですから。あれでは子供の喧嘩のようです。

世界陸上選手権大会に咲くスポーツマンシップ

先日まで日本で開催されていた「東京2025世界陸上競技選手権大会」では、見応えのある競技に感動させられました。そして記録と順位の祭典であると同時に、ライバルを敬う所作が可視化される舞台でもありましたね。

男子100m。優勝はジャマイカのオブリク・セヴィル、銀に同じくジャマイカのキシェーン・トンプソン、銅にアメリカのノア・ライルズという顔ぶれです。表彰台では、互いに視線を交わし称え合う姿が見られ、短距離王者の座をめぐる緊張感と同時に、勝負を共有した者同士の連帯感が滲みました。

男子3000m障害では、ニュージーランドのジョーディー・ビーミッシュが、世界大会の連覇を続けてきたスーフィアン・エルバカリの連勝街道に終止符を打ちました。終盤の切り替えで主導権を握ったビーミッシュが金、エルバカリは銀、ケニアのエドモンド・セレムが銅という並びです。

ここで見逃せないのは、敗れた王者の振る舞いです。メダル圏内の3番手にいた三浦龍司選手は、最後の一周でライバルに走路を邪魔されバランスを崩しました。その減速で8位まで転落、僕は俄かに、走路妨害をした(ように見えた)選手を非難しました。実際に日本陸上競技連盟は、走路妨害に対して抗議をしたそうです。

ですが、ゴール後の三浦選手のインタビューには、一切の恨み節は聞かれませんでした。3000m障害ではよくあることです、と。むしろライバルを称え、観客に感謝の言葉を残しました。負けを受け入れ、勝者の走りを認める態度は、勝つこと以上に難しいときがあります。

モータースポーツのレースも同様に、競技の特性上接触は少なくありません。というよりもむしろ、極論を言うならば、いかにしてライバルの走路を妨害して前に出るか、もしくは抜かれないかが試される競技なのです。なのに、「妨害された」「幅寄せされた」と騒ぎ立てる。何か不自然ですよね。

いつかどこかで三浦選手に感想を聞いてみたいものです。

陸上競技含めレースは常に思い通りには運びません。とりわけ障害種目や中長距離では、接触や駆け引きが結果に影響することがあります。東京大会の男子3000m障害は、ホームの期待がかかる日本勢にとっても試練でしたが、レース後に相手を声高に非難するのではなく、ともに戦った相手への配慮と、自身の課題を見つめ直す言葉がいくつも聞かれました。勝負の荒波を知るアスリートほど、沈黙の濃度を知っています。世界陸連の当該種目レポートが伝える“激変の結末”は、その静けさの背景を物語っています。

勝った者が相手を敬うのは容易です。難しいのは、負けた直後に敬意を示すことです。言い訳は一瞬、敬意は一生――そう教えてくれる受け答えが、トラックの外側に静かに積み重なっていきました。

それもレースの楽しみです

多くのレーシングドライバーが、このコラムを楽しみにしてくださっていると聞きます。嬉しいことです。ですが、彼らにとって今回のコラムは少々耳の痛い話かもしれませんね。

けれども僕は、こうした無線も含めてレースの魅力だと思っています。ドライバーは決して神ではありません。時速300キロの戦場で、恐怖と苛立ちと自己顕示欲に翻弄される人間なのです。そこにこそドラマがあります。

英雄が美辞麗句しか吐かない舞台など、退屈この上ありません。あらかじめ用意した文章を読むようなコメントでは感動は生まれません。嫉妬し、怒鳴り、泣き言を言う。時に子どもじみた振る舞いもします。それでもハンドルを握り続ける姿に、人間の弱さと強さを同時に見出すのでしょう。

つまりレースは、走る速度だけではなく、心の揺らぎまでも世界に配信する舞台です。モータースポーツのレース無線は、その人間臭さを生々しく伝える貴重な証言なのです。

友人の奥様には申し訳ありませんが、子どもにこそ聞かせたい気もします。他人を責め、怒りを露わにする姿を見せた上で、それでも彼らがチェッカーフラッグを目指す姿を伝えたいのです。人生とは、罵声と栄光が同じ舞台に並ぶ劇場なのですから。

F1は速さを競う競技であると同時に、人間の可笑しみと愚かさをさらけ出す壮大な芝居でもあります。無線のノイズもまた、人生の伴奏曲です。だから僕は今日も、モニターの前で耳を澄ますのです。

キノシタの近況

ニュルブルクリンク24時間レース以降の参戦をスキップしているわけですが、その間にビックなニュースが飛び込んできました。F1ワールドチャンピオンのマックス・フェルスタッペンが参戦する意向を持っていると言うのです。マシンはフェラーリのGT3(Groupe GT3(グループ GT3))だそうです。手合わせお願いしたいですね。