406LAP2026.02.26
「空気の壁と友達になるために…」
ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックは、観戦する観る人を興奮のるつぼに落とし込んでくれました。人間の限界に挑む姿は勇ましく、まるで神のような崇高なオーラを発散させていましたね。誰よりも高く、どこまでも遠くに、そして美しく…。そんな肉体の美しさが競われる五輪ですが、勝敗には空力的な作用が効いているように感じたと、木下隆之は言います。
空気の壁を切り裂くように…
今回の大会で僕がもっとも速さを感じたのは、アルペンスキー競技のハイライトともいえるダウンヒルです。
日頃モータースポーツの世界で速度と向き合っている僕にとって、速さへの興味は尽きることがありません。この競技のスピードには、素直に驚かされたのです。
舞台となったのは標高差およそ800m、距離にして3,000mを超える難コース。選手たちは崖を滑り落ちるかのような急斜面を、わずか1分30秒ほどで一気に駆け下ります。最高速度は、150km/h近くに達したのです。
斜面はフラットに整備されているはずもなく、地形そのままに凸凹しています。モーグルのような”こぶ”はありませんが、スケートリンクのように整っているわけでもありません。
それでも彼ら、彼女たちは挑みます。エンジンなどの動力を一切持ちません。重力だけを頼りに滑り降りる姿は、常識の枠を超えた挑戦であり、美しさと危険が紙一重で共存している世界だと感じました。
男子ダウンヒルで金メダルを獲得したのは、スイスのフラニョ・フォンアルメン選手です。
ダウンヒルは重力を利用した落下運動ですから、最大の敵は空気抵抗です。速度域が上がるほど支配的になるのは風の抵抗です。フォンアルメン選手はその見えない壁を最小限に抑え込み、わずかなロスも許さない滑りで最速タイムを刻みました。
その姿勢は、まるで空気の壁の裏側に潜り込む、そんな執念のようなスタイルだったのです。
飛ばないことが有利
もう一つ興味深かったのは、ジャンプの姿勢です。
僕は当初、空中に浮いている間のほうが雪面との抵抗がなく、むしろ有利なのではないかと考えていました。しかし実際には「飛ばないほうが速い」と言われています。その理由もやはり空気抵抗です。
解説を務めていた、元プロスキーヤーの三浦豪太氏も指摘していましたが、彼の強さは徹底したクラウチング姿勢の維持にありました。
ジャンプで体勢が崩れると、着地後の姿勢回復に時間を要するだけでなく、空気の当たり方が変わりブレーキがかかってしまいます。フォンアルメン選手はジャンプ中でもクラウチングを崩さず、できる限り低く、滑らかに雪面へ戻っていました。
そもそも板が宙に浮くことは、落下方向、つまり下からの風を受けることでもあり、それが空気抵抗を増幅させるのです。であれば、雪面のわずかな抵抗を覚悟してでも、飛ばないことが有利というわけです。
速さとは、ただ勇気にまかせて突き進むことではありません。風をどう受け流すか、無駄な動きをどこまで削れるか、その冷静さと技術の積み重ねが最終的な差になります。極限のスピードの中で空気抵抗を削り落とした者だけが勝利に手を伸ばせるのだと、今回のダウンヒルを見て改めて実感しました。
日本のお家芸
ダウンヒルにおいて、空気抵抗が勝敗を左右することを目の当たりにした直後だっただけに、同じ「風」との戦いが氷上でも繰り広げられていることに気づかされたのが、スピードスケート・チームパシュートでした。
一見すると、三人の選手が整然と周回を重ねる競技に見えます。しかし、その裏側では、空気抵抗との緻密な駆け引きが続いています。
チームパシュートは、三人一組で隊列を組み、交代しながら滑走する団体競技です。タイムは最後の三人目がゴールラインを通過した瞬間で決まるため、単純な個人の速さだけでは勝てません。重要になるのは、いかにチーム全体のエネルギー消費を抑えつつスピードを維持できるかという点です。そして、その最大の敵が空気抵抗なのです。
もはや、多くのメディアで報道されていますから、周知のことだと思いますが、改めて空気の力を感じさせる競技でした。
スケートリンクは摩擦が少なく、氷上を滑る抵抗は小さいように思えます。しかし、時速50km/hを超える速度域になると、支配的になるのは空気の壁です。先頭を滑る選手は、常にこの抵抗を正面から受け止め続けます。まるで見えない坂道を登っているかのような負荷がかかるため、長時間先頭を維持すれば、体力はみるみる削られてしまいます。そこで重要になるのが、いかに空気抵抗を減らすか…なのです。
前回の北京2022冬季オリンピックでは、日本チームはメダルを獲得しました。その時に賞賛されたのは、一糸乱れぬ隊列の妙技です。身体はもちろんのこと、腕や指先まで、まるで先導スケーターの影に隠れるように揃っていました。
モータースポーツの世界でも、空気抵抗は常に課題です。わずかな形状の違いが最高速を変え、燃費を変え、レース結果を左右します。エンジンという強力な推進力を持つ世界ですらそうなのですから、人間の力のみで戦う氷上競技において、空気との付き合い方がどれほど重要であるかは想像に難くありません。
結局のところ、速さとは力任せに突き進むことではなく、いかに無駄を減らし、自然の力を味方につけるかという知恵と技術の結晶なのだと思います。ダウンヒルでも、チームパシュートでも、風を制する者がレースを制します。目に見えない空気という存在が、勝敗の分かれ目を静かに握っている。じつに見応えのある戦いでした。
もちろんジャンプ競技でも…
空気抵抗という観点では、スキージャンプもまた、極めて繊細な競技です。
踏み切り直後の姿勢がわずかに乱れるだけで空気の流れが崩れ、浮力が得られず飛距離を失ってしまいます。選手たちは空中でスキー板をV字に開き、体を前傾させながら、風を翼のように受け止めます。
これも前回の北京2022冬季オリンピックの話ですが、日本のエース高梨沙羅選手がスーツの規定違反で失格になりました。寸法が数mm大きかった、つまり、空気抵抗でアドバンテージがあったというわけです。それほど空気抵抗には神経質なのです。
今年のミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックでは、新たにスーツのサイズにも規定が加わったようです。選手は空気の力、つまり浮力を得るためにオーバーサイズのスーツを着たがるわけです。ですが、それを防ぐために、スーツをタイトにすることで浮力の影響を抑えるための新規定なのです。
スーツのサイズは、体重に係数をかけて導き出されるそうです。ですから、自らの体重管理は徹底しています。ジャンプ直前に、水分を口にして規定の体重に合わせるような緻密な努力をしています。”グラム単位の空力” そんな言い方ができるかもしれません。
空力時代を迎えて
こうして見てくると、雪上でも氷上でも、そして空中でも、勝敗を分けるのは常に空気との向き合い方であることが分かります。スキーもスケートもジャンプも、競技の形は異なっていても、本質は同じです。目には見えない空気の流れをいかに整え、味方につけるか。そのわずかな差が、コンマ数秒、あるいは数mという結果の違いとなって表れます。
この感覚は、僕たちが身を置くモータースポーツの世界にもそのまま通じます。モータースポーツ、とりわけF1に象徴される最高峰カテゴリーでは、戦いの大部分が空力性能の追求に費やされていると言っても過言ではありません。
エンジン出力が拮抗する現代では、空気の流れをいかに制御するかが勝敗を決めます。マシンのわずかな形状変更、ウイングの角度、車体下を流れる空気の整え方ひとつで、最高速もコーナリングスピードも変わってしまうのです。あれほどゴテゴテと奇妙なスタイルになったのには、全て理由があるのです。
選手が体を数cm低く保つ努力と、エンジニアがmm単位で部品形状を詰める作業。その方向性は驚くほど似ています。どちらも空気という見えない存在を相手に、ほんのわずかな抵抗を減らすための工夫を積み重ねています。速さとは、力や勇気だけで手に入るものではなく、自然の法則を理解し、そこに逆らわず、味方にする知恵の結晶なのだと強く感じます。
さて、今年のレーシングマシンは、どんな形をしているのでしょうか。空気を味方につけるチームはどこかなのか、興味は尽きません。
キノシタの近況
今年もニュルブルクリンクに参戦する資金を集めるために、クラウドファンディングをスタートさせました。昨年の24時間では1ミリも走ることができず、失意の帰国になったわけですが、今年はそのリベンジです。ぜひご支援をお願いします。
下記のURLを覗いていただければ幸いです。
https://readyfor.jp/projects/168144 >