レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

409LAP2026.04.10

「デジタルが裁き、人間が語る」

正確さは、いつの時代も正義として歓迎されてきた。誤りや不満は減り、競技はより「公平」に近づく。だが、スポーツは本当にそれでいいのだろうか。ロボットが判定し、人間が競い、人間が観る。その関係性が変わろうとしている今、我々は何を得て、何を手放そうとしているのかを、木下隆之の論調とともに少し立ち止まって考えてみたい。

ロボットが誤審を減らす

数々のプロスポーツの判定が、ロボットに置き換えられ始めている。特に最近話題になっているのは、アメリカ大リーグに導入された「ロボット審判」である。

正式名称は「自動ボール・ストライク判定システム」、いわゆるABSだ。各球場に設置されたホークアイと呼ばれる複数の高性能カメラがボールの軌道を正確に捉え、ストライクゾーンを通過したかどうかを瞬時に判断する。

現時点では、すべての投球に適用されているわけではなく、チャレンジ制度として運用されている。打者や捕手が「今の判定はおかしい」と感じたときに異議を申し立て、機械による再判定が行われる仕組みだ。

今年のオープン戦でこの制度を導入したところ、1試合あたり平均2.3回のチャレンジがあり、その成功率は51.3%だったという。つまり、およそ2回に1回は判定が覆された計算になる。言い換えれば、これまで人間が下していた、チャレンジの対象となるような際どい判断の約半分が、機械によって修正されたことになる。

数字は雄弁だ。誤審を減らすという目的において、デジタルは確実に成果を上げている。

さらに米国のマイナーリーグの一部では、すでに全投球にロボット審判が試験導入されているという。審判はイヤフォンから送られてくる判定結果をコールするだけの存在となり、いわば「声を出す装置」と化している。

ここまでくると、ふと考えてしまう。審判とは何なのか、と。

かつて、ストライクゾーンには「人間の幅」があった。広いゾーンを取る審判もいれば、厳密なゾーンを守る審判もいた。投手と捕手はその癖を読み取り、試合の中で適応していく。そこには、ルールの中で揺らぐ余白と、それを読み解く知恵が存在していた。

そして、その余白の上に成立していたのが、フレーミングという技術である。ミットをほんのわずかに動かし、ボールをストライクに見せる。単なる小細工ではない。投手の球質を理解し、打者の反応を読み、審判の視線を感じ取る。いわば総合芸術のような技術だった。

しかし、機械はそれを必要としない。必要としないどころか、存在そのものを無効化する。正確さが一つの技術を消していく。その光景は、どこか時代の必然でありながら、同時に一抹の寂しさを伴うのだ。

三笘の1ミリ

ロボット判定は野球だけの話ではない。テニスではすでにホークアイによるライン判定が一般化し、ウィンブルドンなどの国際大会では線審がほぼ廃止され、完全な電子判定へと移行しているという。

時速250キロにも及ぶスピードで飛来するボールが、ラインの内か外かを肉眼で判断することの難しさは想像に難くない。ホークアイの導入は合理的であり、多くの人が納得する進化だっただろう。

サッカーにおいても同様だ。VAR、すなわちビデオ・アシスタント・レフェリーの導入は、試合の重要な局面において判定の精度を高めてきた。

その象徴が「三笘の1ミリ」である。2022年カタールW杯、スペイン戦。ゴールラインを割ったかに見えたボールは、VARによってわずか1.88ミリ残っていたと判定されたと言われている。

テレビでその瞬間を観た多くの人が「ゴールラインから出ている」と感じたはずだ。僕もそうだった。しかし、VARはインプレーと判断した。スパゲティの直径ほどの差だ。

この判定は、技術の正確さを強く印象づけると同時に、人間の感覚の限界をも浮き彫りにした。肉眼では捉えられない領域を、機械は迷いなく切り取るのである。

4輪脱輪の判定

ここまでカメラやセンサーの性能が進化したのであれば、ロボット判定がサーキットレースに取り入れられるのも当然の流れだろう。いや、むしろモータースポーツは、この分野において他の競技に先んじてきたと言っていい。

フライング判定はすでにほとんどのサーキットでデジタル化されている。かつてはオフィシャルが目視で、動いた、動いていないを判断していた。だが、現在では路面に埋め込まれたセンサーがマシンの動きを正確に検知する。

ゴール判定も同様だ。時速300キロ、あるいはそれ以上の速度でチェッカーフラッグを通過するマシンの差を、人間の目で見極めることは不可能に近い。高性能カメラがその役割を担い、1000分の1秒の世界を可視化している。

インディカーのように、ほぼ横並びでフィニッシュするレースも珍しくない。そうした場面での判定は、もはや高性能カメラや計測機なしには成立しないのだ。

陸上競技やスピードスケートでも同様に、ゴール判定はデジタル化されて久しい。高速化が進むほど、正確な計測は不可欠となる。

F1では「4輪脱輪」、すなわちすべてのタイヤがコース外に出たかどうかの判定にもデジタル技術が用いられている。あの速度域での1ミリの差を、肉眼で判断することは現実的ではない。

このように、モータースポーツにおいてデジタル判定はすでに不可欠な存在となっているのだ。

デジタルとの親和性

もっとも、モータースポーツはロボット判定に対して独特の難しさも抱えている。

野球やテニス、バレーボールといった競技は、プレーとプレーの間に明確な区切りがある。ボールが戻る時間、選手が入れ替わる時間。その間に判定を挟み込むことができる。

サッカーも基本的には連続した競技ではあるものの、ラインを割ったり、プレーが中断する場面は少なくなく、それがゲームの一部となっている。VARの介在には違和感はないのだ。試合の流れを完全に断ち切ることなく、判定の精度を高める仕組みが成立している。

しかしレースは違う。スタートからゴールまで、基本的には途切れることなく進行する。セーフティカーや赤旗による中断はあるものの、それは例外的な事象であり、通常は連続した時間の中で競われる。

さらに、バトルはコース上の至るところで同時に発生している。1位と2位、3位と4位、もし20位と21位の争いに対してチャレンジが行われ、そのたびにレースを止めて検証するとなれば、競技として成立しなくなるだろう。

ゆえに、レース後に5秒ペナルティが与えられたり、それによって後日順位が入れ替わることもある。表彰台でシャンパンファイトを浴び、君が代に涙した翌日に失格…などという滑稽も起こりうる。ここはレースの判定の悩みの一つだろう。

このような意味で、レースはビデオ判定との相性が必ずしも良いとは言えない。それでもなお、デジタル技術を積極的に取り入れてきたのは、1000分の1秒で勝敗の行方が入れ替わる競技の特性がそうさせているに違いない。

ヒューマンスポーツらしさ…

では、この流れはどこまで進むのだろうか。

接触の責任、危険運転の判断、さらにはペナルティの自動付与。すべてのマシンは膨大なデータを記録している。速度、舵角、ブレーキ圧、位置関係。それらを統合すれば、「誰がどれだけ悪いか」を数値として導き出すことも、理論上は可能だ。

レースはついに、完全無欠の判定を手に入れるのかもしれない。

しかし、ここに落とし穴がある。

レースは単なる物理現象の競争ではない。人間同士の駆け引きが織り込まれた、極めて繊細な競技である。

わずかな揺さぶり、相手の一瞬の迷いを突く判断、限界ぎりぎりのブレーキング。それらはデータとして記録されるかもしれないが、その背後にある意図や覚悟までを読み取れる時代が訪れるのだろうか。

同じ接触であっても、果敢な挑戦と無謀な突進の違いは、数値ではなく感覚が決める。

さらに言えば、観る側もまた人間である。判定に議論が生まれ、賛否が分かれ、ときに不満が噴き出す。その摩擦が、レースに温度を与えている。

もしすべてがアルゴリズムによって瞬時に決定され、誰も異議を唱えられない世界になったとしたら。それは正確である一方で、どこか味気ないものになるような気がする。完璧な判定は、同時に物語の面白さを奪うのだ。

判定を欺くのも技なのか…

野球に目を戻せば、前述したフレーミングという技術がある。ピッチャーの投球を受ける瞬間にキャッチャーは、ミットのわずかな動きでボールの印象を変える。その技は、単なるごまかしではなく、長年培われてきた知恵の結晶だ。

完全なデジタル判定が導入されれば、その技は不要になる。だが、それを進化と呼ぶべきかどうかは、簡単には答えが出ないのである。

かつてのレースでは、スタートの駆け引きも今とは異なっていた。シグナルが消える前にマシンがじりじりと動き出す。今なら即座にペナルティだろうが、当時はそれも戦略の一部だった。審判の目をかいくぐることもまた、技術の一つだったのである。

スポーツは、ルールの中で人間が工夫する余地にこそ面白さが宿る。効率と正確さだけを追い求めれば、競技はどこか無機質なものになる。少しの曖昧さがあるからこそ、選手は技を磨き、観る者はそこに魅了されるように感じるのだ。

完璧な判定と引き換えに、技を削るのか。それとも、人間らしい不確かさを残すのか…。白線を越えたかどうかは機械が判断できる。だが、その一線を巡る攻防にどれほどの価値があったのかは、人間にしか語れない。

技術はこれからも進化し続けるだろう。それでもレースは、最後まで人間の領域を残し続けるはずだ。なぜなら、速さだけでなく、その速さをどう使うかということこそが、この競技の本質だからである。

完璧な判定が支配する世界では、勝敗は決まっても、記憶に残る物語は生まれにくい。ほんの少しの曖昧さが、ドラマを生む。その余韻を、どこまで残すのか。 いま、スポーツは静かな分岐点に立っているのかもしれない。

キノシタの近況

ニュルブルクリンク参戦のための資金集めもリミットが迫っている。4月19日までに400万円に達しないと、夢への挑戦を断念することになるのだ。ぜひよろしくお願いします。
https://readyfor.jp/projects/168144 >