レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

415LAP2026.07.22

「2026 FIFAワールドカップ総括〜観客の熱狂」

2026 FIFAワールドカップが、興奮の余韻を残したまま幕を閉じた。
今大会は、「波乱」と「王道」が見事に交差した大会だった。48か国参加という新フォーマットの中で、ブラジルやポルトガルといった優勝候補が姿を消す一方、ノルウェーやモロッコが快進撃を見せるなど、序盤から世界を驚かせる番狂わせが続いた。

しかし、大会が進むにつれ、やはり地力がものを言い始める。準決勝にはスペイン、フランス、アルゼンチン、イングランドという世界屈指の強豪が顔を揃えた。優勝したのは、自力で勝るスペインだった。

夢は誰のもとにも訪れる。だが、その夢を現実へと変えるのは、積み重ねてきた実力なのである。

そして今大会を彩ったのは、選手たちだけではなかった。スタンドを埋め尽くしたサポーターは、試合前から歌い、跳び、歓喜し、ため息をつき、もうひとつのドラマを演じていた。スポーツは選手だけで完成するものではない。歓声や拍手が重なって初めて、世界中を熱狂させる舞台が出来上がるのである。

サッカーの応援文化

それにしても、スポーツは競技によって応援の作法がまるで違う。

サッカーは熱狂である。試合前から歌い、跳び、旗を振り、ゴールが決まれば見知らぬ者同士が抱き合う。歓喜も落胆も隠そうとはしない。スタジアム全体が巨大な感情の渦となり、選手を後押しする。その姿は応援というより、もはや「12人目の選手」と呼びたくなるほどだった。

もっとも、その熱は時として一線を越えることもあった。相手への罵声や挑発は少なくない。

情熱はスポーツ最大の魅力である一方、敬意というブレーキを失った瞬間、熱狂は狂気へと姿を変えてしまう。

整然としたバレー応援スタイル

それに比べると、バレーボールの応援はじつに整然としている。

ラリーが続く間は静かに見守り、得点が決まった瞬間に大歓声が沸き起こる。その切り替えが見事なのである。これまで何度も会場で観戦した経験があるけれど、サーブの瞬間には自然と声が止み、スパイクが決まると堰を切ったように拍手が響く。選手への気遣いが、観客の所作にも染み込んでいるように感じるのだ。

サッカーが感情を爆発させる「祭り」だとすれば、バレーボールは呼吸を合わせて選手を支える「合唱」である。同じ応援でも、その競技が持つ文化やリズムが、観客の振る舞いまで育てている。そんな違いを眺めるのも、スポーツ観戦の楽しみのひとつなのだろう。

野球・相撲の応援文化

野球には、ヤジという独特の応援文化がある。もちろん、度を越した誹謗中傷は論外だが、愛情とユーモアに満ちたひと言には、思わず吹き出してしまうことがある。

「おい、今日は寝坊したのか!」

「無理して走るな。つまずくぞ」

「かわりに投げてやろうか。俺の球のほうが速いぞ」

そんな絶妙なひと言に球場がどっと沸き、選手まで苦笑いする場面も珍しくない。プレーを楽しむだけではなく、そんな人間臭いやり取りもまた、野球観戦ならではの味わいなのだ。

一方、相撲の応援風景も時代とともに少しずつ姿を変えてきた。近年は力士の名前を掲げた垂れ幕が増え、館内は以前にも増して華やかな雰囲気に包まれている。

アイドルを応援するような、お手製のキラキラうちわを目にすることもある。

もっとも、大相撲には古くから受け継がれてきた品格がある。過度な声援や相手を挑発するような応援は慎むよう呼びかけられているという。土俵は勝負の場であると同時に、日本の伝統文化を映す舞台でもあるからだ。

歓声を上げることは許されても、節度は失わない。その絶妙な距離感が、静寂と熱狂を美しく共存させている。力士だけでなく、観客もまた大相撲という文化を支える一員なのである。

人はなぜ応援するのか

そもそも、人間はなぜスポーツを応援するのだろうか。ふとそんな疑問を抱いた。こう言ってしまえば身も蓋もないのだが、とくに利害関係のない、いわば「他人」がボールを蹴ったり投げたり、飛んだり跳ねたり、クルマを走らせたり横に向けたり、それとてどこに生産性があるのかわからないのに熱狂する。不思議な感情なのだ。

勝ったから拍手を送り、負けたから肩を落とす。スポーツには数字だけでは説明できない熱が宿っている。

僕の勝手な想像なのだが、おそらく人は、自分では経験できない挑戦を、選手に重ね合わせているのではないだろうか。ゴール前で震える足も、最終ラップで限界まで攻める勇気も、自分の人生では味わえない。だからこそ、その一瞬に自分の夢や挫折を重ね、知らぬ間に「私たちの戦い」へと変えてしまう。

メッシの華麗な足技も、ハミルトンの鮮やかなパッシングも、自分にはできない妙技に見惚れてしまうのであろう。

しかもスポーツには筋書きがない。どれほど強い者でも敗れ、無名の挑戦者が王者を倒すことがある。その理不尽さと公平さが同居する世界は、予定調和に満ちた日常では得られない感動を与えてくれるのかもしれないと思うのだ。

かつて、こんな考察を見聞きしたことがある。

古代ローマ以来、人は競い合う姿に魅了されてきており、それは勝敗を見届けたいからではなく、極限まで挑み続ける人間の姿に、自分もまた明日を生きる勇気を分けてもらっているからだ。応援とは、声援を送る行為ではない。挑戦する誰かに、自分の希望を託す営みなのであると。そんな言葉が思い出された。

個性的なモータースポーツの応援スタイル

モータースポーツの応援は、とにかく個性的だ。サッカーのように歌い続けるわけでも、野球のように応援歌をそろえるわけでもない。それぞれが思い思いの方法で、好きなドライバーやチームへの愛情を表現する。

なかでも目を引くのは、観客が手作りする応援グッズである。巨大な横断幕、段ボールやベニヤ板を巧みに加工した看板、LEDを埋め込んだ電飾ボード、ヘルメットを模した被り物。なかには「どうやってサーキットまで運んできたの?」と思わず聞きたくなるような大作まである。そこには既製品にはない温もりがあり、「応援したい」という気持ちが、そのまま形になっている。

マシンは創作物の具体である。ならば観客も、創作物で挑む。

そして彼らには、もうひとつ密かな楽しみがある。テレビ中継や配信で、自分の作品がカメラに抜かれることだ。

「映ったぞ!」

「今の俺だ!」

そんな歓声がSNSに並ぶ様子を見ると、応援する側もまたレースの登場人物なのだと気づかされる。

ドライバーは速さを競い、メカニックはマシンを磨き上げる。そして観客は、誰よりも目立つ応援を競う。そんな少し大人げなくて、どこか微笑ましい競争が、サーキットにはある。

思えば、スポーツの応援には正解などない。歌ってもいい、静かに見守ってもいい。手拍子でも、ヤジでも、手作りの看板でもいい。ただひとつ共通しているのは、誰かの挑戦を「ひとりではない」と伝えたい気持ちなのだろう。

その思いが競技ごとに異なる文化を育み、スタジアムやアリーナ、そしてサーキットに、それぞれの景色をつくり出している。だから私たちは今日もまた、競技だけではなく、その応援の風景にも心を奪われるのである。

キノシタの近況

僕がスポーティングディレクターを務めるミハラレーシングは、KYOJO CUPに積極参戦している。今回はSUPER FORMULAのサポートとイベントという立ち位置だが、人気では見劣りしない。応援の対象は、絶対的な速さではないのかもしれないね。