マスタードライバー成瀬弘が豊田章男に伝えたかったこと
豊田章男は事あるごとにこのオトコの話をする。成瀬弘(なるせ・ひろむ)、トヨタ自動車に在籍する約300名の評価ドライバーのトップガンで、豊田氏の運転の師匠でもある。
2010年6月23日にニュルブルクリンク近郊の交通事故で亡くなってから14年が経つが、成瀬氏を振り返ると豊田氏が「もっといいクルマづくり」に徹底してこだわる理由が見えてくる。
成瀬氏は1963年にトヨタ自動車に入社。車両検査部に臨時工として採用されるという異例のスタートだったが、幼い頃からクルマに触れてきた経験もあり、異例の速さで頭角を現した。当時、モータースポーツの車両開発やレース活動を担う「第七技術部」に所属し、レーシングカー「トヨタ7」のチーフメカニックを務めた。
1973年、トヨタがレース活動を中止する直前に、スイスのトヨタディーラーがセリカ1600GTで耐久レースに参戦する際、日本からメカニックとして渡欧。この時、生涯をかけて走り込むことになるニュルブルクリンク(通称:ニュル)と出会う。そこで成瀬氏は「道がクルマをつくる」と直感した。
その後、1980年代に初代MR2の評価を皮切りにトヨタのスポーツモデルはニュルでの開発が行われるようになった。
「路面が綺麗な日本のサーキットでは、10のうちの1しか見えないが、ニュルではすべてが丸裸になる。だから、ごまかしは一切通用しない。ニュルで鍛えたクルマは強いですよ。スープラが今でも高い能力を持っているのは当然。だから、トヨタからなかなかスープラを超えるクルマが出てこないのが困りものですが(笑)」。
ちなみにこのスープラは現在も社内の運転訓練車として使用されている。成瀬氏のニュルでの走行経験年数と周回距離は日本人トップクラスで、その実力は海外メーカーも認めるほど。当時のトヨタのラリーチームからドライバーとしてのオファーがあったという噂もあるほどだ。
量産車開発では、スープラを筆頭にスポーツモデルには何らかの形で関わっていたが、レクサスLFAは成瀬氏一人に評価が委ねられた。それ以外にも初代セルシオや2代目プリウスなどの車両評価も担当。成瀬氏は「僕の中ではレーシングカーもトラックも同じクルマで、すべては“材料”で決まる。僕はその材料を100%活かすだけ」と。

しかし、当時のトヨタは「いいクルマ」より「売れるクルマ」や「つくりやすいクルマ」を重視しており、成瀬氏の理想の実現は難しかった。試作車で実現していた乗り味が量産車では再現できないジレンマから、自社のクルマでも歯に衣着せないジャッジを下し、仲のいい自動車メディアに「俺が言っても聞かんから、外の声として伝えてくれ」とぼやくこともあった。
現場で鍛え上げられたスキルから、評価ドライバーの頂点として「トップガン」と呼ばれた。またニュルをはじめとする現場を直接見てきた経験から、「世界で通用するメーカーになるためには、もっと人とクルマを鍛える必要がある」と考え、自らが先頭に立って人材育成も行っていた。
それは社内だけでなく関連会社や自動車メディアも対象にしていた。そして豊田氏の運転訓練に至るあの言葉を成瀬氏は語った。
「あなたみたいな運転のことも分からない人に、クルマのことをああだ、こうだと言われたくない。最低でもクルマの運転は身につけてください」「我々評価ドライバーをはじめとして、現場は命をかけてクルマをつくっていることを知ってほしい」。
ここだけが注目されがちだが、この話には続きがある。
「月に一度でもいい、もしその気があるなら、僕が運転を教えるよ」。口下手だが面倒見のいい成瀬氏らしいやりとりだった。
成瀬氏にこの時のやりとりの話を聞いてみたことがあるが、「章男さんのモノづくりのこだわりは、英二さん(豊田英二:トヨタ自動車工業5代目社長)や章一郎さん(豊田章一郎:トヨタ自動車販売4代目社長、トヨタ自動車初代社長)と全く同じです。それは『儲かっているからいいでしょ』ではなく、『こんなクルマじゃダメでしょ』という危機感です。章男さんは『モノづくり屋として自分もクルマに乗ってその感覚を分かるようになりたい』という強い想いがあったんだと思います」と語ってくれた。
豊田氏は「不思議と嫌な気がしなかった」と当時のことを振り返る。これをきっかけにドライビングにおける師弟関係が生まれ、成瀬氏は運転訓練を通じて自分の経験やノウハウを惜しむことなく豊田氏に伝えた。
それは「大事なことは言葉やデータでクルマづくりを議論するのではなく、実際にモノを置いて、手で触れ、目で見て議論すること」、そして「いいクルマをつくるためには、人を育てること」だった。

