「なあ、これ見て。ルーキーの証やねんて」
リヤバンパーに貼られた黄色いテープを指差しながら小林可夢偉は楽しそうに笑った。
「黄色い帽子みたいやろ。ピカピカの1年生の」
9歳でカートを始め、14歳でトヨタのスカラシップを獲得。限定ライセンスが出た16歳にレースデビュー。その後フォーミュラトヨタ、フォーミュラルノー、フォーミュラ3、GP2、フォーミュラ1、WEC世界耐久選手権、スーパーフォーミュラ、スーパーGT、フォーミュラE、DTM、GT3、IMSA・・・と世界中の様々なサーキットレースで速さを見せ、いまや世界有数のトップドライバーになった小林可夢偉は今年9月で37歳になる。

国内ではもはや現役最年長ドライバーになりつつある可夢偉が、今回北米最大のモータースポーツNASCARに初挑戦した。なぜいまNASCARなのか。
「子供のころテレビで初めてみた自動車レースがNASCARで。それですごくクルマを運転したいと思って、親父に何度も頼んで最終的にカートに連れて行ってもらった。だからNASCARに出るのは子供の時からの夢でもあったんです。NASCARはアメリカでは間違いなくナンバーワンのレース。エンジン音もすごいし迫力もある。シンプルに自動車レースってすごいなという魅力が詰まっている。自分がそうだったように、子供たちにもすごくわかりやすいレースだなと思ってます。」
「たとえば日本だとちょっと当たったらすぐにペナルティとか出るけど、このレースはバトル中に接触するのが当たり前で、当たって飛ばされたらそれは当たり負けしたっていうだけ。すごくわかりやすい。(実際インディアナポリスのレース中に可夢偉は2回追突されてポジションを落としたが、追突相手にペナルティは出なかった)だからこそ、このレースをたくさんの人に見ていただいて、自動車レースって面白いなって感じてもらえるきっかけになればいいなと思っていた。そう思ってもらえる人が増えれば増えるほど、日本人がいつかNASCARに乗る可能性も増えるんじゃないかなって純粋に思っています」
幼少期の自己体験に基づいた可夢偉のこの思いに、豊田会長、佐藤社長が共感したことが、今回トヨタのNASCARに初めて日本人ドライバーとして乗るきっかけになった。
「豊田会長、佐藤社長はいつもドライバーファーストで話を聞いてくださるけど、今回僕がTOYOTA GAZOO RacingのドライバーとしてNASCARに参戦するのは、ただ僕個人の夢を叶えるだけはなくて、何か未来を変える、そんな一歩になるんじゃないかというところに共感してくださって。可夢偉がそういうなら応援しようということで、このチャンスのきっかけを作ってくださった。本当に感謝しています。
だからこそ僕は、TOYOTA GAZOO Racingのドライバーとして参戦するからには、レースの結果だけでなく、トヨタに共感してくれる「仲間づくり」をアメリカでしっかりやってくることも今回の目標としてました」


そして3台目の可夢偉は67。じつは3台の番号を並べると23 45 67と綺麗につながります。
インディアナポリスでは、多数の北米メディアから日本でのNASCARの関心度について質問されていた。それだけNASCAR側も日本というマーケットを意識しており、TOYOTA GAZOO Racingのドライバーである可夢偉がその架け橋になるのでは、という期待が非常に感じられる光景だった。
「日本のレースはヨーロッパのレース文化と距離感が近いし交流も盛ん。アメリカのレースはちょっと距離感が遠く感じていました。以前日本で開催したときは、今のようにSNSとかもなかったので、情報の拡散が限られていた。でも今はSNSでより多くの人に知ってもらえる時代。NASCARもここ数年変化があって、キミ(ライコネン)やジェンソン(バトン)だったり、他にもヨーロッパからのドライバーを受け入れるようになっていた。僕もここ数年IMSAに参戦して結果を出して、アメリカのレース文化を知り、友人も増えた。そんなタイミングだったり、いろんなことが重なっていきなり最高峰のカップ・シリーズに出ることができたと思います。だけど今日本で戦っているドライバーがいきなりカップ・シリーズに出られるかというと、そういう甘い世界じゃない。日本人ドライバーが参戦するというのは、やっぱり世界で活躍することがベースにあったうえでの話になると思います。実際にNASCARの人たちと一緒に仕事をしたり、話をしたりして、彼らもすごくアメリカンモータースポーツの未来のことを考えているし、日本という存在もすごく意識している。どういう形がいいのかは考えないといけないけれども、日本と交流できる可能性はとても感じました。」
「たとえばNASCARは移動前提で考えられているので、F1みたいなガレージがいらない。クルマも事前準備でセッティング出しをした後は、現場でクルマの作業をすることがほとんどありません。工具も棚一式だけだし、ピットのインスタレーションも簡単にパッキングできるようになっている。すごくシンプル。そうすると国内のサーキットのスペース的に、スーパーフォーミュラとNASCARの併催は可能なんじゃないかなと個人的には思いました。繊細なスーパーフォーミュラと、迫力あるNASCARは面白い化学反応をするんじゃないかな。多くの人にレースを面白いと思ってもらいたいし、日本とアメリカそれぞれが自分たちのモータースポーツの未来を考えているので、そこで一緒に取り組めることもあるのではと思う。」



話を少しレースに移すと、土曜日のフリー走行は20分間、予選は2アタックの15分間。そして決勝レースは82周、33位でフィニッシュ。上記にあるように レース中に2回追突され、しっかりNASCARの洗礼も受けた。この結果を可夢偉はどう感じているのだろうか。
「内容に満足しているかと聞かれたら、満足していないし、もうちょっとできたかなと思う。ただ、経験のないコースで、戦えそうな瞬間もあったから、もうちょっとこのクルマに慣れて、動かし方とかを理解すれば、充分良いレースができるんじゃないかなという手応えは感じています。
予選もやってみて初めて、このクルマはブレーキを頑張って稼ぐというよりも、ブレーキも頑張るけれど、そのあとクルマを転がし入れていくということが必要だと分かった。タイヤも限界を超えた瞬間に全然クルマがついてこなくなるから、やっぱりタイヤとクルマのここぐらいだよ、っていう限界を知ってる人は強い。
レースまでの走行時間がすごい短いので、この状況で戦っているNASCARのドライバーたちは素直にすごいなと思いました」
チャンスがあれば絶対もう一度トライしたい、という可夢偉だが、自分自身のためだけでなく、日本のレースのためというマインドが垣間見れる。
「これからも自分がドライバーとして自分の速さを追求することは大事だと思っています。だから自分を追求しきって、正直これからもまだ伸びると思うけど、その一方で、自分がやってきたことをいかにして伝えるか、ということも考えるようになりました。たとえば簡単に言うと、“僕はビジネスに成功しました” “僕は1兆円稼ぎました”となったとして、僕はこの1兆円を持ったまま死ぬよりも、死ぬ前に1兆円をみんなにばら撒いた方がいいと思ってる、そんなイメージです。自分の今までに得られた経験や知識を、ちゃんとみんなに戻していくことができたら、僕のレース人生よかったなって思えるなと」
2022年からWECではドライバーだけでなくチーム代表を務めるようになったことで、ドライバーやTGR-E(TOYOTA GAZOO Racing Europe)の従業員だけでなくその家族のことも意識するようになったと可夢偉は語っていた。また講師を務めた若手育成プログラムにおいても、セレクションに来た若いドライバーたちの将来への責任を常に考えていた。
「レースでは僕はまだまだ速く走りたいと思っています。でも実際に年齢のことを考えると、どこかでそうじゃないタイミングも来る。だから自分がバリバリ走れるうちに、できるだけドライバーの可能性を広げたり、若い子たちに挑戦する意義だったり、ドライバーに必要なマインドや、大事なものを伝えるということをやっていくことが、自分自身にとっても今は大事なのかなって思います。その時が来た時に、そこから始めても遅い気がする。だから今からちょっとずつスタートしていってます」
今回の可夢偉のNASCAR挑戦が、モータースポーツ界やドライバーを目指す若者たちにどのような影響をもたらすかはまだ分からない。ただ可夢偉流に、北米最大のモータースポーツに大きな種を撒いたことは間違いない。

おまけ)アメリカらしい光景
① シャッターが閉められたガレージ

NASCARでは現場でメカニックが作業できる時間が“ガレージアワー”というルールで制限されており、予選日の朝は9時30分までガレージを開けられず、予選終了30分後の14時ちょうどにはシャッターが閉められた。日曜日のガレージオープンは決勝レースが始まる3時間前。レースが終わるとクルマはガレージに戻ることなく、そのままトレーラーに積み込まれ、次々とサーキットを後にしていた。
② チームのチャーター機に向かう可夢偉

年間36戦というレーススケジュールのNASCARは、チームでチャーター機を乗合バスのようにして移動。レース後もメディア対応を終えてすぐ着替え、クルマからおりて1時間後には、チャーター機に乗って帰っていった。