史上最低の完走率13.7%という1970年

史上最低の完走率13.7%という1970年

 1968年は車両規定が大きく変わり、ワークス・フォードは不参加、フェラーリも撤退した。代わってポルシェ、アルピーヌ・ルノーが総合優勝目指して3リッタープロトを送り込んだ。しかし優勝はJWオートモーティブ・エンジニアリングがエントリーしたフォードGT40がさらっていった。この年、ヘリコプター用タービンエンジンを搭載したホーネットTXが2台参加したが、ともにリタイアに終わった。日本ではトヨタが初の純レーシングカー、3リッターV8エンジンを搭載したトヨタ7を開発。国内の耐久レースで連戦連勝を重ねる。
 1970年代のル・マン24時間はビッグスポーツカーによるポルシェ対フェラーリの対決で幕を開けた。同時にそれまで少数派だったGTカーが再び全参加台数の半数を占めるようになる。1970年はポルシェ917Kが優勝した。1951年に1,086ccの356で初参加したポルシェがついにル・マンを制したのである。この年は出走51台中完走わずか7台。13.7%という史上最も低い完走率だった。因みに最も完走率が高かったのは第1回大会の33台中30台、実に90.9%という完走率だった。
 翌71年もフェラーリ512Mの挑戦を退けたポルシェ917が圧勝する。H.マルコ/G.バン・レネップのポルシェ917Kが平均時速222.304km/h で5,335.313kmを走破。スピードを落とすためのコース改修もあり、この記録は実に39年後の2010年まで破られなかった。

1971年に優勝を飾ったポルシェ917K
1971年に優勝を飾ったポルシェ917K

日本車の挑戦が始まった1970年代

 1972年には再び大きな規定変更があり、ポルシェ、フェラーリの両ワークスが不参加。ル・マン24時間はオープン2シーターのアルファロメオ33T3、マトラ・シムカMS660Cなどが優勝を争うことになった。その中でF1エンジンを搭載したフランスのマトラが活躍。この年フランス車に22年ぶりの勝利をもたらした。アンリ・ペスカロロは1972年から1974年までマトラと共に3連勝を飾る。1972年にはペスカロロと組んでグラハム・ヒルがル・マン24時間を制覇。現在でもF1選手権、インディ500、ル・マン24時間の3つのカテゴリを制したのはヒル、ただ一人だ。
 1973年にはシグマ・オートモーティブが日本のチームとして初参加する。シグマMC73は予選14位と健闘するが決勝はリタイアした。しかしシグマは1975年まで3年連続参戦。その後、SARDとチーム名を変え、トヨタのグループCカーをひっさげて再びル・マンに挑戦するのは、1990年のことになる。

 1976年からはFIAグループ5、いわゆるシルエット・フォーミュラと呼ばれる量産車を大幅に改造した車両とオープン2シーターのグループ6カーが優勝を争うようになる。特にポルシェ、ルノー・アルピーヌといったグループ6カーによる戦いは激しく、1976、1977年とポルシェ936が制し、1978年にルノー・アルピーヌA442Bが優勝した。ターボ車がル・マン24時間を制するのはこれが初めてであった。
 1980年には地元ル・マンの英雄、ジャン・ロンドーによって自身の名を冠したマシンを自身がドライブして優勝するという史上唯一の偉業が成し遂げられる。J.P.ジョッソーとともにロンドーM379Bを駆り、ワークス・ポルシェを破っての快挙であった。この年、トムスが童夢セリカ・ターボで初挑戦するが予選不通過。

1972年、アンリ・ペスカロロとグラハム・ヒルのコンビでル・マン24時間を制覇したマトラ・シムカMS670
1972年、アンリ・ペスカロロとグラハム・ヒルのコンビでル・マン24時間を制覇したマトラ・シムカMS670
ルノー・アルピーヌA442A
ルノー・アルピーヌA442A