モータースポーツジャーナリスト古賀敬介のWRCな日々

  • WRCな日々 DAY13 - 摩訶不思議だった2020年シーズン、古賀敬介の印象に残った5つのトピックス

摩訶不思議だった2020年シーズン、
古賀敬介の印象に残った5つのトピックス

WRCな日々 DAY13 2020.12.25

「摩訶不思議」なWRC2020年シーズンが終わった。かれこれ20年以上WRCを取材してきたが、これほど特殊な1年は初めてだった。新型コロナウイルスが、ありとあらゆることに影響を及ぼし、何もかも変わってしまった。個人的なこととしては、第3戦ラリー・メキシコが現場で最後に取材をしたWRCイベントであり、それ以降海外取材には行くことができていない。とても大きなフラストレーションを感じているが、同時に物事をじっくりと考える時間が生まれ、これまでなかなか叶わなかったSUPER GTの取材をきちんとできたのは大きなプラスで、決してネガティブな1年ではなかったと今は思える。とはいえ、やはり自分の軸足はWRCにあり、早く現場に復帰したくてウズウズしている。

改めてこの1年を振り返るとWRCでは様々なことが起こった。そこで「古賀敬介の2020年WRC 5大トピックス」と勝手に銘打ち、激動のシーズンを振り返ってみたいと思う。

まず、第5位は「コロナ禍でラリー・ジャパン中止」。
今年、WRCは新型コロナウイルスの影響で第3戦ラリー・メキシコ終了後、長い休止期間に入った。多くのイベントが延期や中止を余儀なくされ、どんどんイベント数が減っていった。11月に予定されていたラリー・ジャパンもそのひとつだ。2019年、WRCのテストイベントとして開催されたセントラルラリー愛知・岐阜が非常に盛り上がり、2020年のラリー・ジャパンを多くの人が楽しみに待っていた。しかし、新型コロナの蔓延が止まらず、主催者は開催を断念。僕は思わず、子どものように「新型コロナのバカヤロー!」と叫んでしまった。本当に残念でならなかったが、その時、その後の状況を見ると中止は正しい判断だったと思う。もちろん、準備を進めてきた人々は落胆しただろうが、ポジティブに考えれば、2021年の開催に向けてさらに入念な準備ができるということで、より一層魅力的なイベントとなることを確信している。

続く第4位は「新しいWRCイベントが誕生」。
多くのラリーが開催されなかった一方、本来は今年のカレンダーに入っていなかったラリーが、初めてWRCとして行なわれたのは興味深かった。9月の第4戦ラリー・エストニア、12月の最終戦ラリー・モンツァは、以前からとても人気のあるイベントだった。そして、WRCとして開催されてみれば、どちらも非常に魅力的なラリーであることが、映像からも伝わってきた。特にラリー・モンツァは、古のオーバルコース、レーシングコース、グラベルロード、山岳ステージと、従来のWRCとは一線を画す構成で、それぞれのステージが非常にスリリングだった。そして、これがWRCとして成立するのならば、富士スピードウェイを舞台とした本格的なラリーイベントの開催も充分可能だし、盛り上がるに違いないと思った。既に富士ではラリー開催の実績があるが、工夫をこらせばWRCレベルのラリーも開催できるぞと、今回のラリー・モンツァを見て確信した。考えてみれば、昔のオーバルの跡地もあるし、モンツァとの共通点は意外と多い。スーパーフォーミュラ最終戦富士を取材しながら、ついつい妄想にふけってしまった。

第3位は「勝田貴元のパワーステージ優勝」。
そのラリー・モンツァで、僕が1番興奮したのは、勝田が最終のパワーステージで初めてSSベストタイムを刻んだことだ。既に、その前日と前々日にはSS2番手タイムを出していたが、やはりベストタイムは別格。しかも、サーキットの敷地内とはいえ降り続いた雨により、グラベル路面は大荒れ&ウルトラスリッパリーという、とんでもなくトリッキーなコンディションだった。そのような状況下で勝田は、攻めの走りで他の誰よりも速いタイムを刻んだのだ。ライブ映像とタイミングモニターで彼の走りを追っていた僕は、勝田のパワーステージ優勝が決まった時、仕事を忘れて大興奮してしまった。日本人ドライバーが、初めてWRカーでベストタイムを刻んだのだ。僕はすぐ、パソコンのカレンダーに「勝田がSS初ベストタイムをマークした日」と記した。それくらい、素直に嬉しかった。

勝田は、今年既にトップドライバーと互角に戦えることを、タイムで示していた。それこそ、WRC初開催のラリー・エストニアでは、経験豊かなチームメイト達よりも速いタイムを出していた。以前からそうだが、勝田はエストニアのようなハイスピードなラリーで滅法速い。サポートカテゴリーのWRC2で初優勝した、2018年のラリー・スウェーデンも雪道の超高速ラリーだった。高速ラリーでのスピードは、トップ選手と遜色なくなってきている。一方で、テクニカルなセクションではまだ課題が多く、ミスも多い。そこは改善すべき点であるが、2021年はWRC全戦へのヤリスWRCによる出場が決まった。これは、経験を積む上で最高のビッグチャンスである。緩急をつけたアプローチでシーズンを戦い、得意な高速ラリーでは表彰台を目指す戦いをしてほしい。今の勝田ならば、必ずやできるはずだ。

第2位は「セバスチャン・オジエ7度目のタイトル獲得」。
オジエのタイトル奪還ストーリーについては、前回ラリー・モンツァのコラムで書いたので、詳しくはそちらを見ていただきたい。あの1戦、そしてこのトリッキーなシーズンの戦い方を見て、改めてオジエというドライバーの凄さを確認した。彼は、まだ世の中が新型コロナウイルスによって大きく変わる前の今年冬、開幕2戦で優勝を逃した。彼の実力を考えれば、いずれも勝ちを狙うことができたラリーだった。しかし、トヨタに移籍し、まだクルマを完全には自分のものにはできていない状況で、全てを失うようなリスキーな走りを、彼はあえてしなかった。シーズン全体を見据えた戦いを続け、クルマに対して自信を持ち始めた第3戦ラリー・メキシコから攻めに転じ優勝。その後、長い休止期間を経て、後半戦でも安定した戦いを続け着々とポイントを積み重ねていった。

オジエの計算が大きく狂ったのは、優勝のチャンスがあった第5戦ラリー・トルコでのエンジン破損だった。そこまで積み木のように組み上げてきたタイトル奪還への階段が、大きく崩れた瞬間だった。それでも、気持ちを荒げることなく、冷静に現実を受け止め、諦めずに前に進んだことに、今のオジエの底知れぬ強さを感じた。何が起きても最後まで諦めず、戦い続ける。その不屈の精神とポジティブさが、最終戦ラリー・モンツァでの逆転王座獲得に繋がったのだと思う。もしかしたら、以前よりもライバル達に対する相対的な速さは落ちてきているかもしれない。しかし、気持ちは以前よりはるかに強く、ピンチに陥った時もまったく動じない彼の表情を見ると、無の境地に到達しつつあるのではないかとさえ思う。残念ながら、オジエのタイトル奪還シーンをこの目で見ることはできなかったが、引退を1年先延ばしにしてくれて本当に良かった。2021年は、オジエのラストイヤーをしっかりとこの目に刻みたいと思う。

そして、いよいよ第1位。それは「トミ・マキネンのチーム代表退任」だ。
そのニュースを最初に聞いた時、約30年分の思い出が頭の中を駆け巡った。最初にトミの姿を見たのは、1992年のラリー・フィンランド(当時1000湖ラリー)で、その時の彼は苦労を重ねチャンスを掴もうとする若手ドライバーのひとりだった。その後、三菱に入り話す機会が増えた。ランサーエボリューションの助手席にも乗せてもらったし、色々な事を教えてもらった。成功へのステップを凄まじい勢いで駆け上がり、4度のワールドチャンピオンに輝いたが、彼自身は何も変わらなかった。

やがて、三菱で勝てなくなり、2001年のとあるラリーの現場で「スバルに移籍しようかと考えている」と打ち明けられた時は、本当に驚いた。マキネンは、永遠に三菱の顔であり続けると思ったからだ。しかし、彼は翌2002年スバルに移籍、ペター・ソルベルグのチームメイトとなり、2シーズンを戦い現役を引退した。ひとつの時代が、終わったように感じられた。

その後、自らのプライベートチームである、トミ・マキネン・レーシングを立ち上げ、僕はユバスキュラ郊外の広大な畑の中にある彼のファクトリーを何度も訪れた。ラリー・フィンランドの前や後に顔を出すと、事務所でコーヒーやサンドイッチをご馳走してくれて、将来の夢を語ってくれた。「いつか、WRCにワークスチームを率いて参戦したいんだ」と。まさか、その時は、そのこじんまりとしたファクトリーが、TOYOTA GAZOO Racing World Rally Teamのメインファクトリーになるとは、想像もしなかった。

その後、まだトヨタとWRCに取り組む前の2009年、マキネンは近くの敷地に立派なファクトリーを建て、そのオープニングパーティーに招待してくれた。多くのWRCレジェンドに加え、当時フェラーリF1チームのドライバーだったキミ・ライコネンの姿があったことも覚えている。いよいよトミが大きな夢に向かって本格的に活動を開始したのだなと、僕も興奮したが、そのファクトリーはすぐに閉鎖されてしまい、トミがWRCワークスチームを率いる可能性はなくなったんだなと、寂しく感じた。まさか、その後こんなことになろうとは……。

もうひとつ、忘れられない思い出がある。2008年にトミのファクトリーを訪れた時、全日本ラリーチームのラックを率いる勝田照夫さんもその場所にいたが、その時一緒に来ていたのが、まだ中学生か高校生くらいのお孫さん、勝田貴元君だった。彼はF1ドライバーになることを夢見ていて、その後全日本F3選手権のトップ選手になるのだが、当時はラリーにほとんど興味を持っていなかった。父親が、全日本ラリー王者の勝田範彦選手であるにも関わらずだ。範彦選手は「息子は息子、好きな道に進めばいい」というスタンスで、貴元君をラリードライバーに育てようという考えはまったく持っていなかった。

しかし、照夫さんと僕は、その時貴元君に将来のWRCドライバーの姿をうっすらと重ねていた。何とか少しでもラリーに興味を持ってくれないかという下心もあり、トミにそれとなく頼んでみた。「貴元君をラリーカーの助手席に乗せて走ってくれませんか」と。すると、トミは「いいよ」と快諾。ファクトリーの周りに広がる自分の農場の未舗装路で、貴元君を横に乗せて全開走行してくれたのだ。その時、貴元君は「本当に凄かったです。そして、お父さんがこんな凄いことをしているんだなと分かり、改めて尊敬しました」と顔を輝かせていた。僕は「これでラリーに興味を持ってくれるかな」と心の中でほくそ笑んだが、彼はその後フォーミュラレースの道を突き進んでいった。「ああ、もうラリーには興味を持ってくれないだろうなあ」と諦めていただけに、今WRCのトップカテゴリーで戦う「貴元選手」の姿を見ると、実に感慨深い。

他にも、トミとの思い出はたくさんあるが、彼はWRCワークスチームの代表となっても、昔と変わらずに接してくれた。TGRの立派なホスピタリティを訪れると、農場内の小さな事務所時代と変わらず、歓迎してくれた。チームを立ち上げ、運営するにあたっては、現役時代の走りと同様、やや力づくな仕事の進め方もあったと思う。しかしトミは、本当に短い時間でチームを成功に導き、優勝とタイトルを獲得した。要所要所で勝負を仕掛ける、闘将らしいスタイルだと思った。

そのトミは、今シーズンを最後にチーム監督を退き、今後はトヨタのモータースポーツアドバイザーの任に就くという。ラリーの現場に行ってもなかなか会えなくなるかと思うと寂しいが、またいつか、コーヒーでも飲みながら「夢」の話しの続きを聞きたいと思う。トミさん、ひとまずお疲れさまでした。

古賀敬介の近況

12月第3週のスーパーフォーミュラ最終戦で、今シーズンの全てのモータースポーツ取材が全て終わりました。結局、WRCは開幕3戦しか取材に行けず、とても悔しい気持ちですが、現場に行けない分、徹底的にデータを見比べるなど細かな分析を行い、それはそれで勉強になりました。来季もどうなるか分かりませんが、少しでも早く選手達に直に話しを聞きたいですし、彼らの走りをこの目で見たいですね。年末年始、皆さんどうかご健康にお過ごしください。あ、写真は自宅のベランダから見た夕暮れの富士山です。しばらく床屋に行けず頭がボッサボッサなので、近況写真のかわりに(笑)。