モータースポーツジャーナリスト古賀敬介のWRCな日々

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色彩のフィエスタ、ラリー・メキシコ

WRCな日々 DAY3 2020.3.24

カレンダーを1枚めくり、3月が始まると気持ちが浮き立つ。ニット帽やスノーシューズをクローゼットの奥にしまい、しばらく目にしていなかった半袖シャツを引っ張り出す。3月上旬の日本はまだまだ寒いけれど、向かう先は春とはいえ気温は摂氏30度前後に達する。気分は春を通り越して初夏。毎年この時期、つまりWRC第3戦メキシコのラリーウイークが楽しみでならない。モンテカルロ、スウェーデンと2戦続いた「寒い」ラリーが終わり、WRCは例年3月から春夏モードに入る。ゴールデンウイークの時期に開催されるアルゼンチンだけは季節が逆なので長袖が必要だけれど、それを除けばしばらくお日さまの下でのラリーが続く。僕らWRC関係者にとって、ラリー・メキシコは春を告げる1戦なのだ。

ラリー・メキシコ、それは色彩のフィエスタ。ラリーのサービスパークが置かれるレオンの町では、ジャカランダが色鮮やかに咲き乱れる。日本では紫雲木と呼ばれるこの花の木は、その名のとおり紫色の花を咲かせ、現地の日本人の間ではメキシコ桜と呼ばれているそうだ。しかし、ジャカランダの木などなくとも、メキシコの町は実に色彩豊かだ。建ち並ぶ家、看板、露店の果物、人々の装い。160色の色鉛筆を机の上にぶちまけ、配列を考えずに再びケースに収めたかのような、でたらめだけど、しかし自然で楽しげな色彩が街中に溢れている。とくに、ラリーのセレモニアルスタートが行われる世界遺産の街、グアナファトのビビッドさは格別で、ラリーカーの派手なカラーリングも霞むほど。辺りが夕闇に包まれても鮮やかさは失われず、スタートを盛り上げるダンサーたちのコスチュームや、歴史的建造物に投影されるプロジェクションマッピングなど、違う彩りが浮かび上がる。

ショーに続いてラリーカーが姿を現すと興奮のボルテージは一段と高まり、セバスチャン・オジエの登場でピークを迎えた。過去7年間でメキシコ5勝を挙げているオジエは、このラリーの盟主。フォルクスワーゲン、フォード、シトロエンと、異なる3マニュファクチャラーのクルマで勝ってきたことが、彼の実力を物語る。そして今年、オジエは新たなるクルマ、すなわちトヨタ・ヤリスWRCで6度目の勝利を狙っていた。「自分にとってメキシコは特別な1戦だ。初めて出たWRCイベントもメキシコだったし、これまでに5回勝っているから相性は良いと思う。そして何よりも、僕はこのラリーの雰囲気が好きでたまらないんだ」とオジエ。表彰式で毎年優勝者に渡されるソンブレロとウエスタンブーツの置き場に困っているのでは?と、思わずいらぬ心配をしてしまう。

では、なぜオジエはメキシコでかくも強いのか?とあるドライバーは「路面コンディションに応じた、適切で無駄のないドライビングがセブの強さの秘訣だ」と分析する。サービスパークが置かれるレオンの町はメキシコ中央高原に位置し、標高1800mを越える。ステージが展開するレオン周辺の山々はさらに高く、最高2737mにも達する。人間と同様、高地で空気が薄くなるとクルマもパフォーマンスが低下し、エンジンの最高出力は20%前後ダウンする。レンタカーで走っても急坂では登る力が急激に落ちることを実感し、ついついアクセルを床まで踏みつけてしまう。以前、トップドライバーがラリー中に「エンジンが壊れた」と憤慨していたが、エンジニアが調べたところ何も異常はなく、ただ単に標高の影響でパワーダウンしていただけといったようなこともあった。

それくらい、このラリーではエンジンのパワーダウンが著しく、エンジニアリングによる対策にも限界があることから、駆動ロスやエンジン回転の低下を最小限に留めるドライビングが求められる。アクセルオンで激しくクルマを振り回したり、コーナーの奥まで突っ込みガツンと強いブレーキングでエンジン回転数を著しく落してしまうような荒い操作は、このラリーでは禁物。できるだけコーナリング速度を落さない、スムーズで流れるようなドライビングが求められる。もちろん、そんなことはトップドライバーなら誰もが理解している。しかし、いざ実践しようとしても、なかなかそうはできない。2004年から始まったラリー・メキシコにおいて、クルマを振り回すようなドライビングのドライバーが勝ったのは、2016年のヤリ-マティ・ラトバラ(当時、フォルクスワーゲン)のみ。それ以外の勝者、マルコ・マルティン、ペター・ソルベルグ、セバスチャン・ローブ、クリス・ミーク、そしてオジエはいずれもスピードをキャリーする能力に長けたドライバーである。さらに加えるならば、昨年ヤリスWRCで出走順トップながら総合2位に入ったオィット・タナックもまた、スムーズな運転を信条とする。

オジエをデビュー時から見続けてきた僕は、5勝という実際の優勝回数以上の「強さ」を、ラリー・メキシコで見てきた。2013年以降、オジエは開幕2戦のいずれかで必ず優勝し、選手権リーダーとしてメキシコに臨むことが多かった。メキシコはシーズン最初のグラベルラリーであり、ドライコンディションで行われることが多いため、選手権トップの選手には不利となる。なぜなら、通常グラベル(未舗装路)ステージの初日となる金曜日に、選手権リーダーは1番の出走順で挑まなければならないからだ。カラカラに乾いたメキシコのグラベルロードは、その表面が砂利や砂で覆われており、非常に滑りやすい。そして、WRカーが1台でも走れば路面の砂利や砂はかなり掃除され、出走順が後方になればなるほど路面はクリーンになり、タイヤのグリップ力は高まっていく。新雪で厚く覆われた道と、圧雪路の違いを思い浮かべれば、その差をイメージできるかもしれない。

つまりオジエは過去7年間、毎年のように不利な出走順で金曜日のステージを走ってきたのだ。出走順トップから、金曜日首位に立つことは現実的にほぼ不可能。それでも、総合3位前後につけなければ土曜日以降の挽回は難しい。なぜなら、金曜日が終了した時点でデイリタイアした選手と、下位のWRカー勢から順に、土曜日のステージに出走するからだ。金曜日の遅れはすなわち、優勝争いからの脱落を意味する。そしてオジエは、不利な先頭スタートにも関わらず金曜日に上位につけ、出走順のハンデが軽減された土曜日から巻き返し、優勝を掴んできたのだ。勝利を逃し2位に終わった2016年も金曜日の出走順は1番だった。2位に入っただけでも本来は胸を張るべきことであり、だからこそ5回も勝っているオジエと、それ以前に6回優勝しているローブは、ここメキシコにおいて孤高の存在なのだ。

今年、開幕の2戦で珍しく勝利を逃し、選手権3位でメキシコを迎えたオジエは、それ故例年よりもやや有利な3番手からのスタートとなった。出走順が1番と2番でもグリップレベルは大きく違い、3番となればまた少し楽になる。出走順トップは、何も描かれていないキャンバスにいきなり筆を走らせることにも似ている。1台でも走れば路面に走行ラインが刻まれ、ブレーキングの開始ポイントも分かる。もしラインが大きく膨らんでいれば「ああ、ここはグリップが低くアンダーステアが出やすいのだな」と、コンディション変化を予想しスピードを調整することもできるなど、先行車が引いたラインを下絵に、精度の高い筆さばきが可能となる。そしてオジエは、久しく経験していなかったスタート順のアドバンテージを最大限に活用。金曜日2本目のSS4でベストタイムを記録し、首位に立った。そして、その後は要所要所でベストタイムを刻むなどラリーを完全にコントロール下に置き、今季初優勝を飾った。

「グラベルラリーをヤリスWRCで戦うのは今回が初めてだったが、走りながら微調整を重ねていったら本当に乗りやすくなった。クルマがどんどん自分のモノになってきているように感じた」とオジエ。開幕戦モンテカルロではまだ完全な人車一体には至らず、第2戦スウェーデンでも限界を探るようなドライビングが所々で見られた。しかし、メキシコではついにヤリスWRCとの完全シンクロを果たし、常に限界まで攻め込まずともライバルの追随を許さぬスピードに達した。今回のメキシコでのオジエは、攻める所は攻め、リスクが高い場所では抑えるという、とても抑揚が効いた走りを続けていた。金曜日にライバルであるティエリー・ヌービルがメカニカルトラブルで、タナックがドライビングミスで遅れをとったのは事実だが、もし彼らが遅れなかったとしたら、オジエはさらなるスピードをクルマから引き出したに違いない。メキシコ6勝と、ついにローブの記録に並んだオジエは、ドライバーズ選手権でも首位に立ち、開幕3戦目にして「定位置」につけた。改めて、オジエという不世出のドライバーの強さを実感した、今回のラリー・メキシコだった。

総合4位でフィニッシュしたエルフィン・エバンスは、オジエが長年担ってきた出走順トップの難しさを実感したに違いない。モンテカルロ3位、スウェーデン優勝とキャリア最高のシーズンスタートを決め選手権トップに立ったエバンスは、オジエのようにハンデを跳ねのけて勝つことはできなかった。しかし、土曜日のステージでライバルが戦略的な出走順調整を行なわなければ、表彰台に立っていた可能性は十分にある。金曜日のステージでエバンスは路面の「掃除役」に苦しみながらも、首位オジエと33.2秒差の総合3位につけた。例年ならば十分に有利なポジションといえるが、今回は金曜日に姿を消したWRカーが多く、土曜日の出走順は4番手だった。さらに、ライバルによる出走順調整が行なわれたことで出走順は3番手となり、総合3位を争うタナックの追撃を防ぐことはできなかった。しかしそれでも、表彰台のために攻め続けるのはリスクが高いと見極め、シリーズを考えて総合4位堅守に切り替えたのは実に賢明であり、彼のセルフコントロール能力の高さはオジエに通じるものがある。選手権では2位に後退したが、首位オジエとの差は8ポイントにすぎない。オジエとエバンスのチーム内バトルは健全かつクレバーで、今のところ安心して見ていられる。

新型コロナウイルスの影響で世界各国が入国制限を強化したことにより、ラリー・メキシコの主催者は1日早い競技終了を決断した。選手を含む多くのWRC関係者が、自国や居住地に戻れなくなってしまう危険性が高まったからだ。そのためラリーは土曜日最後のナイトステージで終了となり、表彰式は暗がりの中で行なわれた。いつもならば、青空の下で明るく華やかにセレモニーが行なわれ、その鮮やかさもまた色彩のフィエスタの一部になっていた。しかし、いつもよりダークなトーンで進行した表彰式は、ある意味現在世界が置かれている厳しい環境を象徴するものだったといえる。オジエは表彰台の最上段に立ったが、手渡されたシャンパンの栓を抜くことなく、ボトルをそっと地面に置いた。そして、暗闇の中に広がった紙吹雪の向こうに見えたオジエの表情は、どこか悲しげだった。

古賀敬介の近況

本来なら次の取材はラリー・アルゼンチンの予定でしたが、新型コロナウイルスの世界的蔓延により延期に。残念ですが、やはり人々が健康に生活を送れることが第1なので正しい判断だと思います。国内外のレースも総じて延期または中止なので、この空いた時間に普段なかなかできないこと=仕事部屋の徹底的な片づけと掃除に精を出したいと思います。