ラリーとその参加者の数だけドラマがあります。
特にWRCでは自動車メーカーの威信も関わってくるため
ドラマチックな度合いは一段と深いものになります。
そんなWRCで演じられてきた
数々の名場面・名勝負に触れます。
1974年WRC第2戦 サファリ・ラリー1974 FIA World Rally Championship Round 2 Safari Rally
- PHOTO (写真左)三菱 ランサー1600GSR/(写真右)ポルシェ 911カレラRS
ドライバーが自費購入した車両を現地でラリーカーに
三菱がポルシェを破って飾ったWRC初優勝のドラマ
三菱自動車は1960年代の後半から国際ラリーに参戦した自動車メーカーです。当初彼らが挑戦の舞台としたのは、世界屈指の過酷なラリーとして知られたオーストラリアのサザンクロス・ラリーでした。そして1973年にWRCが創設されると、その一戦となったサファリ・ラリーを次なるターゲットに定め、1974年大会にワークス体制で挑むことを決めます。ところがそこで第一次石油ショックが発生。その影響から三菱はサファリ・ラリー参戦計画を白紙に戻さざるを得なくなったのでした。
しかしながら、三菱のドライバーであったケニア出身のジョギンダ・シンは、車両を自費で購入してまで三菱 ランサー(初代)で1974年のサファリ・ラリーに出場しようとしました。その熱意に三菱側も動かされ、部品と技術者を日本からケニアへ送り込むことを決定。シンが購入した市販モデルのランサーは現地にてわずか11日間でラリーカーに仕立て上げられ、何とかラリーのスタートに間に合わせられました。
5日間にわたって行われたラリーの前半は豪雨に見舞われ、半数を超えるエントラントが戦いも半ばのうちにリタイアを喫する展開となりました。そして優勝争いは、シンが駆る三菱 ランサー1600GSRと、後年はトヨタのエースドライバーを務めたビヨルン・ワルデガルドが乗ったポルシェ 911カレラRSの一騎打ちに。1.6ℓの小さな日本車が、排気量が倍近い3ℓのポルシェと互角の勝負を演じたのでした。
ただ、シンのランサーは問題を抱えていました。3日目の終盤にリアディファレンシャルケースにヒビが入り、オイル漏れが発生していたのです。しかし、リアデフ交換を行ってしまえば大きなリードを許すことになり、相手を楽にさせてしまいます。それを嫌ったシンはオイル漏れを抱えたままでも走行を継続し、ライバルにプレッシャーをかけ続けることを選びました。
すると4日目、ワルデガルドのポルシェがリアサスペンションの破損に見舞われました。修理作業のため1時間近くもストップすることになり、手負いながらも粘り強く走り続けていたシンのランサーが首位に浮上します。その後、三菱チームはリアデフ交換を12分間でこなし、シンは30分近くのリードを保ったままフィニッシュ。ドラマに満ちた内容で三菱はWRC初優勝を手にしたのでした。
1984年WRC第5戦 ツール・ド・コルス1984 FIA World Rally Championship Round 5 Tour de Corse
- PHOTO プジョー 205ターボ16/ジャン‐ピエール・ニコラ
ミッドシップ4WDという最強スペックの閃光
プジョー 205ターボ16が初陣で見せた首位疾走劇
1981年、トップカテゴリーでは初の本格的な4WDラリーカーであったアウディ・クワトロがWRCにデビューし、衝撃的な速さを見せつけました。それから3年あまりが経った1984年5月、今度はプジョー 205ターボ16の登場によって「ミッドシップ4WD」センセーションが巻き起こりました。
WRCにおけるトップカテゴリーは1983年からグループBに変わっていました。この新しい車両規則の内容を存分に生かし、クワトロが先駆けた4WDの駆動方式と、車両の前後方向の重量バランスに優れたエンジンのミッドシップレイアウトの双方を採用した史上初のラリーカーがプジョー 205ターボ16でした。
なお、同車によるプジョーのラリー活動を指揮したのは、もともとはラリーの名コ・ドライバーで、現在はFIA(国際自動車連盟)の会長を務めているジャン・トッド。そして、同車の技術開発を司ったのは、後年はトヨタのル・マン24時間出場車であるトヨタ TS020などのテクニカルディレクターも務めたアンドレ・デ・コルタンツでした。
1984年5月のツール・ド・コルスでデビューしたプジョー 205ターボ16は、アリ・バタネンのドライブによってSS8からラリーリーダーとなり、そのまま首位をひた走りました。同じミッドシップながら2輪駆動(後輪駆動)のランチア・ラリー037勢が追いかけてきましたが、バタネンの205ターボ16はトップタイムを連発してリードを広げていきました。
結局、バタネンはSS20でコースアウトを喫してしまい、205ターボ16のデビューウィンはなりませんでした。しかし、同車は3戦目の1000湖ラリーで圧倒的な勝利を飾り、ラリー・サンレモとRACラリー(現ラリー・グレートブリテン)でも優勝。そして、シリーズ全戦に出場した1985年と1986年はドライバーとマニュファクチャラーの両選手権を2年連続で制覇し、グループB時代最強のマシンとして君臨したのでした。
1990年WRC第8戦 1000湖ラリー1990 FIA World Rally Championship Round 8 1000 Lakes Rally
- PHOTO トヨタ・セリカ GT-FOUR(ST165)/カルロス・サインツ
カルロス・サインツがセリカ GT-FOURで果たした
ノン・スカンジナビアン初の1000湖ラリー制覇
1988年5月のツール・ド・コルスで自社初の4WDラリーカーであるST165型セリカ GT-FOURをデビューさせたトヨタは、その後しばらくは新規開発車両ならではの産みの苦しみを味わうことになりました。それでもセリカ GT-FOURは1989年9月のラリー・オーストラリアでWRC初優勝を飾り、その後はどのラリーでも優勝争いに絡むパフォーマンスを示すようになりました。
そしてST165型セリカ GT-FOURも投入3年目を迎えた1990年、トヨタはカルロス・サインツ、ミカエル・エリクソン、アーミン・シュバルツという3人のドライバーをレギュラーに据えてWRCを戦いました。中でも、チーム加入2年目であったサインツが速さを見せ、第5戦アクロポリス・ラリーでWRC初優勝を飾ると、続くラリー・オブ・ニュージーランドでも優勝。第8戦1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)には堂々のランキングトップで乗り込むことになりました。
1000湖ラリーは「フィンランド・グランプリ」という別名を持つほどの高速イベント。路面はフラットながらもうねりに富んだコースで、それに慣れ親しんだスカンジナビアン(スカンジナビア半島出身者)のドライバーでなければ勝てないラリーと言われていました。事実、この1990年より先に同ラリーで優勝したドライバーはすべてスカンジナビアンでした。
そんな1000湖ラリーの首位を、セリカ GT-FOURに乗る南欧スペイン出身のサインツが突っ走るときがやってきました。この1990年の1000湖ラリーは4日間で42本のスペシャルステージをこなすものでしたが、その半数を超える23本のステージでサインツはトップタイムをマーク。地元フィンランド出身で同年は三菱 ギャランVR-4で出場していたアリ・バタネンがサインツを追い上げましたが、当時28歳のスペイン人ドライバーは1981年WRCチャンピオンであるバタネンの追撃を見事に振り払い、ノン・スカンジナビアン初の1000湖ラリー制覇を成し遂げました。
この勝利によってサインツはドライバー選手権ポイントのリードを拡大。そして2戦後のラリー・サンレモにおいて、彼にとってもトヨタにとっても初めてとなるドライバーズタイトルを手にしたのでした。
1992年WRC第9戦 1000湖ラリー1992 FIA World Rally Championship Round 9 1000 Lakes Rally
- PHOTO スバル・レガシィ RS/コリン・マクレー
ひしゃげたボディのレガシィが突っ走る
若きコリン・マクレーが魅せた伝説の激走
1990年から初代レガシィでWRCへのレギュラー参戦を開始したスバル。同社はイギリスの国内ラリー選手権にもWRCに準じた体制で参戦し、1991年には当時23歳であったコリン・マクレーによってタイトルを獲得しました。
1992年、スバルはマクレーをWRCでも5戦で起用しました。このスコットランド出身のドライバーは期待に違わぬ走りを見せ、第2戦スウェディッシュ・ラリーでは当時のスバルのベストリザルトとなる2位に食い込みます。しかし、この年の彼が最も鮮烈な印象を残した一戦は、成績そのものは8位に終わった第9戦1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)でした。
現在のTOYOTA GAZOO Racing WRTが開発拠点を置くフィンランドのユヴァスキュラをホストタウンとして長年行われているこのラリーに初めて挑んだマクレーは、難易度の高いハイスピードコースに手を焼き続けました。4日間で行われるラリーの初日を終えた時点での彼の順位は7位。そして2日目のSS7では、タイトコーナーにオーバースピードで進入し、マシンを転倒させてしまいます。幸い再スタートを切ることができたマクレーでしたが、12位にまで後退することになりました。
しかし、マクレーがそれでスロットルを緩めてしまうことはありませんでした。転倒によってルーフやピラーがひしゃげたマシンを激しく駆り、どんどん順位を回復していきました。ところが、3日目のSS29で彼は再び転倒を喫することに。今度はかなりのハイスピードでのもので、マシンが70mほども転がり続けるという大転倒でした。
それでも彼のレガシィは再び走り出しました。しかも、スペシャルステージ後の修理作業を重ねるにつれてレーシングスピードをどんどん取り戻していくというタフネスぶり。また、マクレーも2度の転倒による心理的なダメージなどまるでないかのように、攻撃的なドライビングを披露し続けます。そして最終的には8位にまでポジションを戻してラリーを走り切ったのでした。
ボディが歪み、各ウインドウはガムテープで仮留めしているような状態となったレガシィ。それでも臆することなくハイスピードでドリフトさせ、ビッグジャンプを跳んでいったマクレー。そのアグレッシブなドライビングは、1992年の1000湖ラリーのみならず、WRC史に残る激走として人々の記憶に残るものとなったのでした。
1998年WRC第13戦(最終戦) ラリー・オブ・グレートブリテン1998 FIA World Rally Championship Round 13 Rally of Great Britain
- PHOTO トヨタ・カローラ WRC/カルロス・サインツ
ゴールまで残りわずか300mでエンジンブロー
タイトル獲得目前でサインツ&トヨタに訪れた非運
1998年のWRCのチャンピオン争いは最終戦にまでもつれ込みました。その最終戦ラリー・オブ・グレートブリテンをランキング首位で迎えたのは三菱のトミ・マキネン(現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表)で、これをトヨタのカルロス・サインツが2点差で追うという構図でした。
ところが、ラリー初日のSS5においてポイントリーダーのマキネンが予想外のリタイアを喫してしまいました。WRC出場車両の前にそのコースを走行したヒストリックラリーカーが撒いたエンジンオイルが処理されておらず、WRCエントラントでは一番手走者であったマキネンがまさに足元をすくわれることになったのです。オイルに乗った彼の三菱 ランサーエボリューションⅤは右リアをコース脇のコンクリートブロックに打ち付け、車輪をもぎ取られて走行継続不能な状態に。おかげでサインツは、4位以上でフィニッシュすれば逆転でタイトルを決められることになったのでした。
実際、サインツは3日間のラリーの最終日を狙いどおりの4位で迎えました。そして最後のスペシャルステージであるSS28 マーガムも4位につけた状態で走り出します。ここで特に良いタイムを出さずとも何事もなく走り切れれば、サインツにとっては6年ぶり・3度目、トヨタにとっては4年ぶり・5度目のドライバーズタイトルが決まるという状況でした。
ところが、28.09kmの最終ステージも残り1kmというところで、サインツが乗るトヨタ・カローラ WRCのエンジン油圧警告灯が突如点灯。やがてエンジンがブローし、白煙を吹き上げてストップしてしまいました。それは、シリーズ最終戦の最終ステージという、まさに最後のゴールまでわずか300mというところでの出来事でした。
サインツはマシンを降りてボンネットを開けてみるも為す術はありません。失意の彼は涙を隠すことができませんでした。コ・ドライバーであるルイス・モヤは激昂し、やり場のない怒りと悔しさをあらわにしていました。
明くる1999年もトヨタはカローラ WRCによってシリーズを戦い、トヨタとしては通算3度目となったマニュファクチャラーズタイトル獲得を成し遂げました。ただし、ドライバー選手権の制覇はなりませんでした。そして同年をもってトヨタはWRC活動を休止。トヨタにとって通算5度目となるドライバーズタイトル獲得という目標の達成は、2017年よりヤリス WRCによってWRC参戦を再開させた現在のTOYOTA GAZOO Racingの活動に託されています。
2003年WRC第12戦 ツール・ド・コルス2003 FIA World Rally Championship Round 12 Tour de Corse
ラリー直前に大破したマシンで快走
ペター・ソルベルグ戴冠の原動力となった劇的勝利
- PHOTO スバル・インプレッサWRC2003/ペター・ソルベルグ
2003年もWRCドライバー選手権の決着が最終戦までもつれ込んだ年でした。同年にチャンピオンの座を最後まで争ったのはスバルのペター・ソルベルグとシトロエンのセバスチャン・ローブ。そして栄冠はソルベルグが手にし、スバルに目下最後となるタイトルをもたらしました。そのソルベルグの王座獲得の原動力となったのが、第12戦ツール・ド・コルスでの劇的な勝利でした。
WRCイベントでは「シェイクダウン」と呼ばれる練習走行のセッションがラリーの直前に行われています。そして2003年のツール・ド・コルスでは、そのシェイクダウンでソルベルグがクラッシュ。彼のスバル・インプレッサWRC2003は、左後ろのホイールアーチの前を大きく凹ませるなど、主に左側部に大きなダメージを負ってしまったのでした。
ラリーへの出場さえ危ぶまれる状況に、当時はスバルチームに在籍していたトミ・マキネン(現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表)が「ペターはチャンピオン争いをしている立場なのだから、僕が出場を取りやめて、僕のマシンをペターに使わせてもいい」とまでチームに申し出たほどでした。しかし、スバルチームのメカニックたちの夜を徹しての作業によってマシンは修復され、翌朝9時のスタート時刻に間に合ったのです。
今度はドライバーが頑張る番でした。3日間で行われたラリー初日は8位で終えたソルベルグでしたが、2日目にタイヤ選択を的中させ、この日2本目のスペシャルステージであったSS8で3位にまで躍進。そしてSS10からは3ステージ連続でトップタイムを奪い、一気に首位に立ってみせたのでした。
走行性能に支障はないとはいえルーフやCピラーに歪みが残ったままのマシンで疾走するソルベルグのドライビングには凄みがありました。そして彼はラリー最終日である3日目でも渾身の走りを続けて後続に対するリードを拡大。シェイクダウンでのクラッシュという悪夢から一転して、会心の勝利を手にしました。
ソルベルグは前戦のラリー・サンレモではリタイアを喫しノーポイントに終わっていました。それが、このツール・ド・コルスでの優勝によってタイトル戦線で息を吹き返す格好になったのです。そして最終戦ラリー・グレートブリテンでソルベルグはシトロエンのローブを下してシーズン4勝目を挙げ、ドライバー選手権でもローブをわずか1ポイント差ながら逆転することに成功。当時、WRCで一番の人気ドライバーであった29歳のノルウェー人がついにチャンピオンの座へと上り詰めることになったのでした。