半世紀近くの歴史を持つWRCには、
世界に挑む日本の自動車メーカーの姿がありました。
切磋琢磨しながら技術を磨き、
ラリー界を盛り上げてきた日本車メーカー。
前編では
トヨタ自動車の活動を振り返ります。
TOYOTAトヨタ自動車
- PHOTO1993年 サファリ・ラリー/トヨタ参加全クルー&スタッフ&参加車両
シリーズ創設時からWRCに果敢に挑戦
通算4度マニュファクチャラー王座に輝く
日本の自動車メーカーの中で最も早く海外ラリーへの挑戦を行ったのはトヨタでした。それは1957年8月にオーストラリアで行われた豪州一周モービルガス・ラリーへの参戦でした。観音開き4ドアで知られるトヨペット・クラウン・デラックス RSDでの挑戦は、国際親善と貿易振興、そしてトヨタはもとより日本車の技術力の証明という重大な使命を担って行われたものでした。102台の出場車両のうち約半数がリタイアを喫した約1万7000kmの過酷なラリーを、最高出力は48PSにすぎなかった排気量1.5ℓのクラウンは見事に完走し、外国賞の3位に入賞しました。
- PHOTO1957年 豪州一周モービルガス・ラリー/トヨペット・クラウン・デラックス RSD ラリーカー
1960年代になるとトヨタは、オーストラリアやアフリカなどで行われる国際ラリーにトヨタ車で出場するプライベーターへの支援を様々な形で行うようになりました。そして1969年2月には、当時のトヨタのモータースポーツ技術開発部である第7技術部が発足。同部はRT75L-M型マークⅡ GSS グループ2ラリーカーを開発し、伝統のラリー・モンテカルロの1970年大会に送り込みます。出場した2台のマークⅡはともにリタイアとなりましたが、これがトヨタのヨーロッパにおけるワークスラリー活動の第一歩でした。そして1972年11月のRACラリー(現ラリー・グレートブリテン)には、名手とうたわれていたスウェーデン人ドライバーのオベ・アンダーソンを起用してTA22型セリカ 1600GT グループ2ラリーカーで参戦しクラス優勝を獲得。これが、のちにトヨタのラリー活動を文字どおり牽引していくことになるアンダーソンとトヨタの初仕事でした。
- PHOTO1972年 RACラリー/TA22型セリカ 1600GT グループ2ラリーカー
それまでは様々な事情からモータースポーツ活動の方針を固められずにいたトヨタでしたが、1972年には国際ラリーや国際ツーリングカーレースを主軸としていくことで定まりました。そして1973年には、それまでのFIA国際ラリー自動車メーカー選手権やヨーロッパ・ラリー選手権の主要なイベントに、欧州域外でのメジャーラリーを加えて世界選手権化したWRC(FIA世界ラリー選手権)が創設されます。そんな1年目のWRCにおいてトヨタは4戦に出場。11月のRACラリーでは前年大会と同様にTA22型セリカ 1600GT グループ2ラリーカーでアンダーソンがクラス優勝を果たしました。
そのRACラリーの2週間前に、トヨタ車がWRCで初優勝を飾っていました。WRCイベントとして開催されたのはその一度だけであったアメリカのプレス・オン・リガードレス・ラリーにおいて、カナダのトヨタ車販売代理店チームから出場したウォルター・ボイスが総合優勝を果たしたのです。彼が駆ったのはTE20型カローラに2T-G型エンジンを搭載した車両で、チームも車両もトヨタの公式のものではありませんでしたが、日本から部品供給による支援は行われていました。
そんな1973年の秋、世界は第四次中東戦争の勃発に揺れ、やがて第一次石油ショックに襲われました。モータースポーツ界への影響も当然大きく、WRCは1974年の開幕戦ラリー・モンテカルロが開催中止に。そしてトヨタもモータースポーツ活動の大幅な縮小を余儀なくされ、国際ラリー活動は打ち切り必至の状況となりました。しかし、欧州側からラリー活動継続の強い要望があり、そこで打開策がひねり出されました。それは、スポンサー獲得も含めてチーム運営はアンダーソンが独自に行い、彼のチームに対してトヨタは車両や部品、機材等の無償支援を行う、というものでした。
1974年は「チーム・トヨタ・アンダーソン」として活動したアンダーソンのチームは、1975年にはベルギーのブリュッセルに本格的なワークショップを設け、ここから「トヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)」を名乗るようになりました。そして、その後のトヨタのラリーカーは、日本から送られたベース車両のボディやエンジンを使ってTTEのワークショップで製作された車両に一本化されました。
ぎりぎりのところで継続となったトヨタのWRC活動でしたが、1974年11月のRACラリーから1気筒あたり4バルブの競技専用設計シリンダーヘッドを持つ2T-G改エンジンを搭載したグループ4仕様のTE27型カローラレビンが投入され、同車がトヨタの公式チームによるWRC初優勝をもたらしました。その舞台は1975年8月の1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)で、地元フィンランド出身のハンヌ・ミッコラがドライブ。1983年にはWRCチャンピオンに輝くことになるミッコラが駆った1.6ℓのレビンは、排気量が1.8ℓや2ℓのパワーに勝るライバルたちを退け、2位となったシモ・ランピネンのサーブ 96に1分14秒の大差をつけてWRC随一の高速グラベルラリーを制したのでした。
- PHOTO1975年 1000湖ラリー優勝 ハンヌ・ミッコラ&アトソ・アホ/TE27型カローラレビン グループ4ラリーカー
1976年になるとトヨタの主力ラリーカーは、やはり競技専用設計の4バルブシリンダーヘッドを有す排気量2ℓの18R-G改エンジンを搭載したグループ4仕様のRA20型セリカ 2000GTに切り替わり、同車も高い戦闘力を発揮しました。ただし、勝利にはなかなか手が届きませんでした。その一因には、TTEへの支援はあくまで限定的なものであったため、WRCへの参戦は年に多くても5戦程度にとどまり続けたということがありました。また、規則の変更によって競技専用のシリンダーヘッドを使えるのは1977年までとなり、1978年からは非力な2バルブの18R-G型エンジンのスタンダード仕様で戦わなければならないことに。その影響は大きく、TTEはその後しばらく明らかな劣勢に回ることを余儀なくされました。
そうした中、TTEは1979年4月に拠点を西ドイツのケルンに移しました。そしてオベ・アンダーソンを社長とする「アンダーソン・モータースポーツGmbH」(「GmbH」とはドイツにおける「有限会社」を示す表記)という法人が立ち上げられ、トヨタが支援する同社によってTTEが運営される形態となりました。
しばらくすると規則の変更が再度あり、1979年11月には4バルブシリンダーヘッドの18R-G改エンジンが再びホモロゲーションを取得し、その後の約3年半の期間は同エンジンを搭載したRA40型セリカ 2000GTならびにRA63型セリカ 2000GTのグループ4ラリーカーでトヨタは戦いました。ただ、当時のWRCは技術的な転換期にあり、2ℓ自然吸気エンジンのFR車であるセリカで上位を常時争うことはもう困難でした。
- PHOTO1981年 ツール・ド・コルス/RA40型セリカ 2000GT グループ4ラリーカー
そうした状況にあって、トヨタ陣営がひとときばかり溜飲を下げる思いを味わうことができたのが、RA63型セリカのデビュー戦であった1982年のラリー・オブ・ニュージーランドでした。巧みな戦略と卓越したドライビングによって4WD車であるアウディ・クワトロを破り、1979年のWRCチャンピオンであるビヨルン・ワルデガルドのドライブでトヨタは約7年ぶりのWRC優勝を南半球で挙げたのです。また、同じ1982年のアイボリーコースト・ラリー(コートジボワール)では、前年大会ではRA40型セリカで2位に入っていたペル・エクルンドが今度はRA63型セリカで再び2位に。この活躍は、4WD時代が到来した中でもまだしばらくはFR車で戦い続けなければならなかったトヨタに、活路はアフリカで開催される耐久色の濃いラリーに見出し得ると教えてくれたのでした。
- PHOTO1982年 ラリー・オブ・ニュージーランド/RA63型セリカ 2000GT グループ4ラリーカー
WRCは1983年から、使用できる技術の自由度がより大きなグループB車両規則の時代に入りました。この新時代に向けてトヨタは二段構えの戦略を描いていました。その第一段階は、RA63型セリカ 2000GT グループ4ラリーカーの発展型と言えるFRのグループBラリーカーを手早く仕上げて当座をしのぐこと。そして第二段階は、1984年6月に発売開始となるAW11型 MR2をベースにしたまったく新規のミッドシップ4WDグループBラリーカーを開発し、同車をもってWRCチャンピオンを狙う戦いに乗り出すことでした。
第一段階であるFRのグループBラリーカーはTA64型セリカ・ツインカムターボとして1983年8月の1000湖ラリーでデビュー。2戦目であった同年10月のアイボリーコースト・ラリーでワルデガルドの手により早くも優勝を飾りました。そして1984年4月、トヨタは初めてサファリ・ラリーに挑戦。セリカ・ツインカムターボに乗ったワルデガルドは5254kmの行程を誰よりも速く駆け抜け、トヨタは初参戦にしてサファリ優勝を果たすという快挙を成し遂げました。
- PHOTO1984年 サファリ・ラリー/TA64型セリカ・ツインカムターボ グループBラリーカー
セリカ・ツインカムターボは、アフリカでは無敵の存在となりました。グループB時代は1983年から1986年までの4年しか続きませんでしたが、セリカ・ツインカムターボはこの間に行われたサファリ・ラリーとアイボリーコースト・ラリーの合計8戦のうち6戦に出場し、そのすべてで優勝を飾りました。特にサファリでは、1984年大会から1986年大会まで3年連続で優勝。スプリントラリーでは伍すことのできなかった4WD車のアウディ・クワトロやプジョー 205ターボ16がどれだけ懸命に走っても、アフリカでのセリカは彼らを寄せ付けませんでした。
そうしたセリカ・ツインカムターボの奮闘の後方では、トヨタのグループB戦略第二段階を担うミッドシップ4WDラリーカーの開発が進行していました。「222D」という開発コードネームが与えられた同車は、エンジンを縦置きにした仕様と横置きにした仕様の双方が製作され、実走テストによって比較検証が行われるところまでになっていました。しかし、同車が実戦で活躍することを時代が阻みました。パワーは強大ながらそれを制御する技術はまだ十分でなかったグループBの時代には、ドライバーや観客が死傷する重大事故がたびたび発生していました。そのため、当時の国際モータースポーツ統括組織であるFISAは、1986年5月にグループB車両のWRCへの出場を同年限りとすることを決定。同時に、グループBの後継・発展型カテゴリーとして、グループBより安全性を高めた内容で企画されていたグループSカテゴリーも廃案とされることが決まりました。これにより、グループB/グループS車両としてしか成立し得ないトヨタのミッドシップ4WDラリーカー「222D」は、実戦に一度も登場することなく、そして正式な名称を与えられることもなく、お蔵入りとなったのでした。
- PHOTO222D グループSラリーカープロトタイプ
1987年からWRCは、ベースとなる市販車両の基本仕様に忠実であることが求められるグループAをトップカテゴリーとした時代に入りました。トヨタは、2ℓターボエンジンと4WDシステムの双方を備えたST165型セリカ GT-FOURをベースとするグループAラリーカーの開発を1986年から始めていましたが、FIA(国際自動車連盟)格式の競技であるWRCに参加可能な車両としてST165型セリカ GT-FOURがホモロゲーションを受けるのは1988年に入ってからの予定でした。したがって、ここでもまた当座をしのぐために手早く開発して実戦に投入できる車両が必要で、そこで白羽の矢が立ったのがFR車のMA70型スープラでした。
MA70型スープラのグループAラリーカーは、1987年3月のサファリ・ラリーでデビューし、1989年3月のサファリ・ラリーまで使用されました。その当初のパワーユニットのベースには、短い開発期間で十分な信頼性を確保する狙いから3ℓの自然吸気である7M-GE型エンジンが選ばれましたが、1987年9月のアイボリーコースト・ラリー以降は3ℓターボの7M-GTE型エンジンが使われました。もっとも、グループA時代にいち早く対応したランチアがその初戦から2ℓターボ+4WD車のデルタHF 4WDを投入してWRCを席巻していた中にあって、FRである上にラリーカーとしては大柄で車重がかなり重かったMA70型スープラでは、少なくともスプリントラリーでは勝機はありませんでした。そこでトヨタは、耐久色の濃いイベントに絞ってスープラをラリーに送り込みました。それでも先達のセリカ・ツインカムターボのような成功は得ることができず、WRCにおけるスープラの最上位はデビュー戦であった1987年サファリ・ラリーでのラルス‐エリク・トルフによる3位にとどまりました。
- PHOTO1989年 サファリ・ラリー/MA70型スープラ・ターボ グループAラリーカー
スープラでは苦杯を嘗めながらも、トヨタはその先のWRC活動に希望を抱いていました。2ℓターボの3S-GTE型エンジンと4WDシステムを備えた本命機 ST165型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーが控えていたからです。そして、トヨタが同車で計画していたのは、それまでのような限定的なラリー参戦ではなく、WRCをシリーズで追いかけチャンピオンを狙っていくという戦いでした。それは、幻のグループB/グループSラリーカーとなった222Dで描きながらカテゴリーごとお蔵入りとなってしまった目標に改めて取り組むものとも言えました。そこでTTEはスタッフを大幅に増員。並びに、それまでワークショップを置いていたドイツ・トヨタの敷地の真向かいに新社屋を建て(1987年12月に落成)、活動規模の拡大に対応しました。なお、この社屋はトヨタ・モータースポーツGmbH(TMG)に引き継がれて現在も使用されています。
1988年5月のツール・ド・コルス(フランス)で初陣を飾ったST165型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーは、しかし、デビューから1年ほどは様々なトラブルを発生させ、思うような結果をなかなか残すことができませんでした。それでも、飽くなき改良と熟成の努力はやがて実り、ST165型セリカ GT-FOURは当時最強を誇ったランチア・デルタ・インテグラーレに並ぶ速さと強さを備えた存在へと成長。1989年9月のラリー・オーストラリアではユハ・カンクネンの手によって初優勝を達成しました。そして1990年には一気に5勝をマークし、そのうち4勝を挙げたカルロス・サインツがシリーズチャンピオンに輝きました。それは、サインツにとって初めてであったと同時に、トヨタにとっても、そしてあらゆる日本車メーカーにとっても初めてのWRCタイトルでした。
- PHOTO1990年 RACラリー/カルロス・サインツ(写真右)&ルイス・モヤ
サインツとST165型セリカ GT-FOURはディフェンディングチャンピオンとして1991年を迎え、その開幕戦ラリー・モンテカルロを制しました。それは日本車初のモンテカルロ総合優勝という記念すべき勝利でした。その後もサインツとセリカは好調に戦い続け、勝ち星を重ねていきました。ところが、やがてランチアが猛烈な巻き返しを見せ、トヨタのタイトル防衛はならず。WRCの戦いの厳しさが改めて示されたシーズンとなりました。
1992年に入ると、トヨタは2代目のセリカ GT-FOURであるST185型のグループAラリーカーをデビューさせました。市販車両のST185型セリカ GT-FOURが1989年9月からすでに販売されていたことを考えればずいぶん遅くなったラリーカーの登場でしたが、それには理由がありました。市販ST185型セリカ GT-FOURの標準モデルは、その車両を一般公道で走らせるのに適した仕様として空冷式インタークーラーとセラミック製ターボチャージャーを採用していましたが、ラリーのような高い負荷がかかり続ける使用環境では水冷式インタークーラーと金属製ターボが適していました。そこでトヨタは、それらを特別に装備させたST185型の限定モデル「セリカ GT-FOUR RC」(海外名は「セリカ GT-FOUR カルロス・サインツ リミテッドエディション」)を企画し、5000台限定で販売。この限定モデルでFIAのホモロゲーションを取得し、そのグループAラリーカーを成立させたのでした。
1992年1月のラリー・モンテカルロでデビューしたST185型セリカ GT-FOURの初優勝は同年4月のサファリ・ラリーにおいてサインツが勝ち取りました。スプリントラリーではなかなか勝てませんでしたが、やがて駆動系の改良が進んだことで戦闘力が高まり、ラリー・オブ・ニュージーランド、ラリー・カタルニア(スペイン)、RACラリーを制覇。サインツが三つ巴のドライバーズタイトル争いを制して2度目のWRCチャンピオンに輝きました。
- PHOTO1992年 ツール・ド・コルス/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー
続く1993年と1994年は、熟成の進んだST185型セリカ GT-FOURが数々のライバルたちを相手に横綱相撲の戦いを見せた2シーズンとなりました。1993年にはカンクネンが5勝、ディディエ・オリオールが2勝を飾り、トヨタは初めてマニュファクチャラー選手権の頂点に。そしてカンクネンが自身通算4度目のチャンピオンとなり、トヨタはドライバーとマニュファクチャラーのタブルタイトル獲得を果たしました。続く1994年は、スバル、フォード、三菱といったライバルたちが一層手強さを増したシーズンとなりましたが、トヨタはカンクネンとオリオールのふたりによって4勝を挙げ、マニュファクチャラー選手権を2年連続で制覇。ひとりで3勝をマークしたオリオールがチャンピオンに輝き、トヨタは2年連続でタブルタイトル獲得の栄誉に浴しました。
- PHOTO1994年 ラリー・サンレモ/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー
なお、1993年7月にトヨタはアンダーソン・モータースポーツGmbHを買い取り、「トヨタ・モータースポーツGmbH(TMG)」をトヨタの100%子会社として設立。その設備や組織はアンダーソン・モータースポーツGmbHのものを踏襲しており、社長も引き続きオベ・アンダーソンが務めました。
また、1994年には2つの新しい動きがありました。そのうちのひとつはST205型セリカ GT-FOURのグループAラリーカーのデビューで、それは同年10月のラリー・オーストラリアで果たされました。そして、もうひとつの新しい動きは日本人ワークスドライバーの誕生でした。厳しい審査を経て選ばれたのは藤本吉郎で、彼は1994年のWRC4戦にワークスマシンのST185型セリカ GT-FOURで出場。そして1995年4月には日本人初のサファリ・ラリー総合優勝という大きな仕事をやってのけました。
- PHOTO1995年 サファリ・ラリー/藤本吉郎(写真右)&ダゴベルト・レーラー(チーム監督・写真中央)&アーネ・ハーツ
その1995年は、WRCが8戦のみで争われたシーズンでした。トヨタはST205型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーで戦い、5月のツール・ド・コルスでオリオールが優勝を飾りました。しかし、10月のラリー・カタルニアでの車両検査においてTTEの技術規定違反が見つかり、FIAは同年のトヨタのすべての獲得ポイントの剥奪と1年間のWRC出場禁止を決定。トヨタのラリー活動に暗い影が投げ掛けられることになったのでした。
1996年のトヨタは、当然ながら公式なラリー活動は一切行いませんでした。ただし、車両開発を行うことは問題なく、日本とドイツではST205型セリカ GT-FOURに代わる新型ラリーカーの開発が進められました。それがカローラ WRCでした。
WRCは1997年から、グループAより技術的な自由度が大きいワールドラリーカーという新しいカテゴリーの車両を純粋なグループAラリーカーと同列で参加させることになっていました。そのワールドラリーカー車両規則を使用し、そもそもは小排気量エンジンを積むFF車であるAE110型カローラの欧州市場用3ドアハッチバックのボディに、セリカ GT-FOURで鍛え上げてきた2ℓターボの3S-GTEエンジンを載せ、競技専用設計の4WDシステムを組み込んだ新型ラリーカーがカローラ WRC(ワールドラリーカー)でした。同車の企画は1995年に立ち上げられます。ところが、この年のシーズン終盤にチームが規定違反を指摘され、その後と翌シーズンは出場停止に。1997年も9戦まで参戦を自粛しました。この間にも開発が進められたカローラ WRCは、1997年8月のラリー・フィンランドにおいてデビュー。同年に出場した5戦は実戦テストという位置づけで、1998年の開幕戦からトヨタはWRCタイトルを目指した戦いを再開しました。
- PHOTO1997年 カローラ WRC&欧州市場用AE110型カローラ 3ドア
その1998年の開幕戦ラリー・モンテカルロでは、5年ぶりにトヨタへ復帰したサインツのドライブによりカローラ WRCがいきなり優勝を飾りました。4月のラリー・カタルニアではオリオールが勝ち、7月のラリー・ニュージーランドではサインツとオリオールが1-2フィニッシュ。そして、勝てない場合でもしぶとく走って2位に食い込むラリーを繰り返したサインツが、彼にとって通算3度目となるWRCドライバーズタイトル獲得に目前まで迫りました。結果的には、シリーズ全13戦の最終戦の最終ステージの残り300mというところでサインツの車両にエンジントラブルが発生するという痛恨の事態となり王座獲得はなりませんでしたが、トヨタは2年ぶりのWRCフル参戦で早速タイトル争いを演じ、その存在感を改めて放ってみせました。
そして1999年、トヨタはカローラ WRCで2年目のフルシーズンに臨みました。この年は最多時には7社もの自動車メーカーがそれぞれ独自のワールドラリーカーをWRCに送り込んできた大賑わいのシーズンでした。その中でカローラ WRCは前年のように勝利を重ねることはかないませんでしたが、サインツとオリオールというチャンピオン経験者ふたりが上位入賞を続けてくれたことにより、トヨタはマニュファクチャラー選手権のランキング首位を突っ走りました。
- PHOTO1999年 ラリー・カタルニア/カローラ WRC
そんな1999年シーズンも終盤を迎えた10月、トヨタは同年いっぱいでWRC参戦にひと区切りつけることを決定し発表しました。それは、同時に発表された数年後のF1参戦を睨んでの決断でした。そして残るWRC3戦をTTEは全力で戦い、最終的には2位のスバルを4点差で突き放して、トヨタが通算3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。TTEによるWRC活動の終了に華を添えたのでした。
その後トヨタは、ル・マン24時間、F1(FIA F1世界選手権)、さらにはWEC(FIA世界耐久選手権)といった最高峰のサーキットレースに挑戦していきました。そして、TTEによるWRC活動の終了から丸17年が経った2017年1月、トヨタは新たに組織されたTOYOTA GAZOO Racing WRTにより、NSP131型ヴィッツ(海外名ヤリス)をベースに開発された新世代のワールドラリーカー、ヤリス WRCを擁してWRC参戦に再び乗り出しました。2年目の2018年には早くもマニュファクチャラー選手権を制し、トヨタは通算4度目の同タイトルを獲得。トヨタのWRCへの挑戦はなおも続いていきます。
- PHOTO2018年 ラリー・フィンランド/ヤリス WRC