Japanese car manufacturers challenging to WRC 〜WRCに挑んだ日本車メーカーたち 後編〜 | The WRC Chronicle vol.6

半世紀近くの歴史を持つWRCには、
世界に挑む日本の自動車メーカーの姿がありました。
切磋琢磨しながら技術を磨き、
ラリー界を盛り上げてきた日本車メーカー。
後編では
トヨタ自動車以外の日本車メーカーの活動を総覧します。

NISSAN

NISSAN日産自動車

1971年 フェアレディ 240Zグループ4ラリーカー(東アフリカ・サファリ・ラリー)

  • PHOTO1971年 フェアレディ 240Zグループ4ラリーカー(東アフリカ・サファリ・ラリー)
サファリ・ラリーで通算7回の総合優勝
「ラリー」の知名度を日本で大いに高める

かつての日本で「ラリー」といえば、多くの人が想起したのはアフリカで開催されていたサファリ・ラリーのことでした(1974年大会までは、ケニア、ウガンダ、タンザニアの3カ国をまたいで行われ、「東アフリカ・サファリ・ラリー」の名称で開催)。そして、WRCが創設された1973年より前からこのラリーで活躍し、「サファリ」や「ラリー」という言葉の知名度を日本で大いに高めたのが日産自動車でした。同社のサファリ初参戦は1963年で、1970年大会ではP510型ブルーバード 1600SSSにより初の総合優勝を達成。1971年大会と1973年大会はS30型フェアレディ 240Zで制し、1979年大会から1982年大会にかけてはPA10型バイオレットと名手シェッカー・メッタのコンビネーションによって4年連続優勝を飾るなど、アフリカで一時代を築きました。

また、1978年に日産はWRC参戦チームとしてチーム・ダットサン・ヨーロッパを設立し、それまでは限定的であった欧州開催のWRCイベントへのレギュラー参戦を展開。1979年から1981年まで3年連続でマニュファクチャラー選手権2位の座を獲得しました。なお、1981年までの国際ラリーで日産は、戦前からの日産車のブランド名である「DATSUN(ダットサン)」をメーカー名として使用しました。したがって、1979〜1981年の間のマニュファクチャラー選手権2位の自動車メーカーはDATSUNとして記録されています。

1978年 日産 バイオレット グループ2ラリーカー(アクロポリス・ラリー)

  • PHOTO1978年 日産 バイオレット グループ2ラリーカー(アクロポリス・ラリー)

1983年からWRCは、技術的自由度がより大きなグループB車両規則の時代へ入りましたが、そこで日産はS110型シルビアをベースにしたグループB専用車 240RSを投入しました。ただし、同車は自然吸気エンジンのFR車であり、スプリントラリーでは過給器付きエンジン車で、さらに4WD車でなければ勝機を得ることが難しくなってきていた中にあっては苦戦を免れませんでした。そして、WRCは1987年から、ベースとなる市販車両の基本仕様に忠実でなければならないグループAがトップカテゴリーとなった時代に移り、日産のラリーカーもS12型シルビアをベースとした200SXにスイッチしましたが、同車もやはりFR車。日産はサファリ・ラリー等のラフロードイベントに的を絞りながらラリー参戦を続け、1988年のアイボリーコースト・ラリー(コートジボワール)では200SXを駆ったアラン・アンブロシーノによって優勝。これが結果的に、日産車がWRCで挙げた目下最後の勝利となっています。

1991年、日産は同社初の4WDラリーカーとなったRNN14型パルサー GTI-RのグループA仕様をデビューさせ、チーム・ダットサン・ヨーロッパに替えて立ち上げられた日産モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)からWRCにレギュラー参戦しました。そして同車2年目の1992年にはそのドライバーのひとりに現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表のトミ・マキネンを起用しました。しかし、パルサー GTI-Rによる活動で日産は自らに期待していたレベルの結果を残すことがなかなかできず、日本のバブル崩壊の影響もあって、同社はWRCマニュファクチャラー選手権への参戦をこの1992年までとしました。

その後の日産は、トップカテゴリーより下の自然吸気エンジンで2輪駆動の車両を対象としたカテゴリーにフィールドを移し、NMEの手によってN14型パルサー GTIやN15型アルメーラのグループAラリーカーを開発して活動を続けます。そして1998年いっぱいをもってWRCを主としたスプリントラリーにおける日産としての公式な活動を終了させました。

MITSUBISHI

MITSUBISHI三菱自動車

1991年 三菱 ギャラン VR-4 グループAラリーカー(スウェディッシュ・ラリー)

  • PHOTO1991年 三菱 ギャラン VR-4 グループAラリーカー(スウェディッシュ・ラリー)
40年近くにわたって国際ラリーで活躍
マキネンとともに4年連続で世界の頂点に

1960年に初の自社開発乗用車を発売した三菱自動車は、それから7年後の1967年に初めての海外ラリーとしてオーストラリアのサザンクロス・ラリーに出場。当時、世界屈指の過酷なラリーとして知られたこの一戦に三菱は1976年大会まで毎年ワークス参戦し、1972年大会から1976年大会までは6年連続で総合優勝を飾りました。また、1973年にWRCが創設されると、やはり過酷さで知られたサファリ・ラリーに狙いを定め、その1974年大会に出場。これが三菱にとって初のWRC参戦でしたが、地元ケニア出身のジョギンダ・シンが駆ったA73型ランサー 1600GSRによって総合優勝を達成し、2年後の1976年大会では3台のランサー勢によって1-2-3フィニッシュを果たすという強さを見せました。

石油ショックによる影響と自動車公害問題への対応のため、三菱は1977年をもって公式なラリー活動を一時休止としましたが、1981年には2ℓターボエンジンを搭載したFR車 A175A型ランサー EX2000ターボ グループ4ラリーカーでWRC参戦を再開します。また、1983年には、三菱のWRC活動の拠点・出場チームとなるラリーアート・ヨーロッパをイギリスに設立しました。

当時のラリー界は、アウディ・クワトロの登場によって4WD車の時代を迎えようというところでした。そして1983年からは、使用できる技術の自由度がより大きなグループB車両規則が導入されました。そこで三菱は、市販モデルではFRであったA187A型スタリオンを4WD化したグループB専用車 スタリオン 4WDラリーを開発します。ところが、グループBは度重なる重大事故の発生によって1986年をもって打ち切られることになり、そのためスタリオン 4WDラリーはWRCに出場することなく終わりました。

1987年、WRCのトップカテゴリーはグループAに変わりました。ベースとなる市販車両の基本仕様を大きく変更することができない規則でしたが、ここで三菱が送り出してきたのが、2ℓターボエンジンを搭載した4WD車であるE39A型ギャラン VR-4 グループAラリーカーでした。1988年のラリー・オブ・ニュージーランドでデビューした同車は、1992年いっぱいまでの足かけ5シーズンにわたってWRCに出場。この間、三菱のWRC活動はシリーズ戦の半数程度に参戦するという限定的なものでしたが、それでも同社はマニュファクチャラー選手権において1990年、1991年と2年連続でランキング3位に食い込み、ギャラン VR-4はWRCで通算6勝をマークしました。また、1991年のアイボリーコースト・ラリーでは三菱の社員ドライバーであった篠塚建次郎がギャラン VR-4で勝利。日本人ドライバー初のWRC総合優勝を成し遂げました。篠塚は1992年の同ラリーもギャランで制し、2年連続優勝を果たしたのでした。

そして1992年9月、三菱は新型車であるCD9A型ランサーエボリューションを発売しました。同車は、ギャラン VR-4で磨いてきたパワートレインをよりコンパクトなボディに搭載した、まさにグループA時代のWRCで勝つために企画された車両でした。そのグループAラリーカーは1993年のラリー・モンテカルロにおいてデビュー。当初は思いのほか苦戦が続きましたが、電磁多板式クラッチを採用した独自の電子制御アクティブディファレンシャルシステムを完成させると快進撃を開始しました。1995年のスウェディッシュ・ラリーでケネス・エリクソンの手によりランサーエボリューションとして初の勝利を飾ると、翌1996年の同じスウェディッシュ・ラリーでは現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表のトミ・マキネンが三菱での初優勝を手に。マキネンは、この年は9戦が行われたのみであったWRCイベントのうち5戦で優勝を飾るという圧倒的な強さで、一気にチャンピオンの座へのし上がりました。

マキネンとランサーエボリューションのコンビネーションは1990年代後半のWRCを牛耳り続けることになりました。1997年には4勝、1998年には5勝、1999年には4勝をそれぞれ挙げ、いずれの年においてもドライバー選手権を制覇。マキネンは4年連続でWRCチャンピオンに輝くという、当時としては前人未到の快挙を達成しました。また、1998年にはもうひとりのドライバーであったリチャード・バーンズも2勝を挙げ、三菱はマニュファクチャラー選手権でもタイトルを獲得しました。

1999年 ランサーエボリューションⅥ グループAラリーカー(ラリー・モンテカルロ)

  • PHOTO1999年 ランサーエボリューションⅥ グループAラリーカー(ラリー・モンテカルロ)

1997年からWRCには新しい車両規則であるワールドラリーカーがグループAの派生カテゴリーという位置づけで導入されていましたが、三菱はラリーカーの基本仕様がベースとなる市販車両のそれに忠実なグループAの車両で戦い続けました。そして2001年には、他のWRC参戦メーカー車両のすべてがワールドラリーカーとなった中でグループA仕様のランサーエボリューションによって3勝をもぎ取ってみせて意地と底力を示しました。

しかし、技術の自由度の違いから来る戦闘力の差はもはや埋めがたいものとなっていました。そこで三菱も、ベース車両であるランサーエボリューションのフルモデルチェンジにともない、2002年からワールドラリーカーにスイッチしました。ところが、ここで予想以上に困難な戦いが続いたことなどから、2003年の三菱はWRC参戦を休止して活動体制と車両の全面的な見直しを図ります。そして2004年には、新たに開発し直したランサー WRC(ワールドラリーカー)を投入。2005年には2シーズンぶりとなるWRCフル参戦を行い、シーズン終盤には優勝争いを演じるラリーを繰り返しました。しかしながら三菱は様々な事情から、同年をもってWRCへのワークス参戦にピリオドを打ちました。

SUBARU

SUBARUスバル

1995年 スバル・インプレッサ WRX グループAラリーカー(ラリー・カタルニア)

  • PHOTO1995年 スバル・インプレッサ WRX グループAラリーカー(ラリー・カタルニア)
一貫して水平対向・4WD車で参戦
日本車初の3年連続メーカータイトルを獲得

現在で言うSUVタイプの4WD車がWRCに出場した例は過去にいくつもありましたが、一般的な乗用車タイプで4WDシステムを備えた車両をWRCに初めて登場させたのはスバルでした。それは1980年のサファリ・ラリーでのことで、1.6ℓ自然吸気の水平対向エンジンを搭載したAF2型レオーネ・スイングバック 4WDが出場。これがスバルにとって初のWRC参戦でしたが、平林 武によって総合18位で完走、グループ1クラス優勝を果たしました。その後、スバルは30年近くにわたってWRCに挑戦し続けましたが、同社が走らせたラリーカーは、どのカテゴリーのものであったにせよ、すべてが水平対向エンジンと4WDシステムの双方を備えた車両でした。

1980年代中盤までのスバルはトップカテゴリーより下のクラスにおいて国際ラリー活動を行いました。1983年のサファリでは、1.8ℓ自然吸気エンジンを積むグループA仕様のAB型レオーネ RXが総合5位に食い込んで話題を呼びます。そして1985年大会からスバルは3代目のレオーネであるAA型を投入。やがてWRCにはグループAをトップカテゴリーとした時代が訪れましたが、スバルは1989年までは基本的にターゲットをサファリ・ラリーに絞った活動を続けました。

1986年 スバル・レオーネ RXターボ グループAラリーカー(サファリ・ラリー)

  • PHOTO1986年 スバル・レオーネ RXターボ グループAラリーカー(サファリ・ラリー)

ただし、1980年代の後半にはスバルのワークスマシンがひとりのプライベーターの手によりWRCに出場していたケースがありました。ニュージーランド人ドライバーのポッサム・ボーンです。スバルに認められた彼は例外的にワークスマシンの貸与を受け、母国イベントであるラリー・オブ・ニュージーランドに毎年参戦。1987年大会では総合3位に入り、これがしばらくはスバルのWRC最上位として記録されました。

そんなスバルがWRCにいよいよ本腰を入れて取り組むときがやってきました。初代レガシィの発売(1989年2月)を期に、同車をもってWRCにレギュラー参戦することとなったのです。

BC5型レガシィ RS グループAラリーカーは1990年4月のサファリ・ラリーでデビューしました。当初はライバルたちよりパワーが不足気味であることに悩まされましたが、やがて挽回。改良・熟成を経て、良好なハンドリングを武器とするマシンに成長していきました。ただし、デビューから3年を経ても勝利にだけは手が届きませんでした。

1992年11月、スバルは新型車であるインプレッサを発売。そのグループAラリーカーを1993年8月からWRCに投入することを決めました。そして、インプレッサのデビュー戦が次戦に迫った1993年のラリー・オブ・ニュージーランドで、レガシィはコリン・マクレーのドライブによりついに勝利。レガシィにとっても、そしてスバルにとっても初のWRC総合優勝が果たされました。

記念すべき初優勝から3週間後、GC8型インプレッサ WRX グループAラリーカーが1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)でデビュー、いきなり2位に食い込みました。そして1994年には、トヨタで2度WRCチャンピオンに輝いてきたカルロス・サインツがスバルに加入。アクロポリス・ラリー(ギリシャ)でインプレッサを初優勝に導くや、そのままチャンピオン争いを展開しました。ただし、最終戦RACラリー(現ラリー・グレートブリテン)でサインツは痛恨のリタイアを喫し、タイトルはトヨタのディディエ・オリオールのものとなりました。

もはやスバルは押しも押されもせぬWRCのタイトルコンテンダーとなっていました。そして1995年には、アグレッシブなドライビングでファンを魅了するマクレーがチャンピオンの座へと駆け上がり、スバルに初の世界タイトルをもたらします。チームメイトのサインツもランキング2位に入り、スバルはドライバーとマニュファクチャラーのダブルタイトルを獲得しました。

1996年もスバルはマニュファクチャラーズタイトルを獲得。そして1997年からWRCにワールドラリーカーが導入されると、同社はこの新しい車両規則を採用し、GC型をベースにしたインプレッサ WRCを送り出しました。同車は、全14戦で行われた1997年のWRCにおいて8勝を挙げ、スバルは日本車メーカーとしては初となる3年連続でのマニュファクチャラーズタイトル獲得を成し遂げました。

その後もスバルはWRCで毎年1勝以上の勝利を飾っていきました。2001年には2代目のインプレッサであるGD型をベースにしたインプレッサ WRCを投入し、同車を駆ったリチャード・バーンズがWRCチャンピオンに輝きました。2002年には現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表のトミ・マキネンがスバルに加入。そして2003年には、インプレッサ WRCを駆って4年目であったペター・ソルベルグがシトロエンのセバスチャン・ローブとの最終決戦を制して戴冠。スバルに通算3人目の世界チャンピオンが誕生しました。

その後もスバルはソルベルグをエースとしながらWRCに挑み続けました。また、2004年から開催されるようになったWRC日本ラウンドにおいては、その開催を内外に印象づけるPRリーダー的な役回りも果たしました。やがてスバルは、2009年をもってWRCのトップカテゴリーへの参戦を一旦終える計画を立てます。そうしたところへ、2008年の秋にアメリカで金融危機が発生。それに端を発した世界的な経済混乱による影響から、スバルは予定を1年前倒しにし、同年いっぱいでWRC参戦を終了させました。

MAZDA

MAZDAマツダ

1990年 マツダ・ファミリア 4WD グループAラリーカー(ラリー・ポルトガル)

  • PHOTO1990年 マツダ・ファミリア 4WD グループAラリーカー(ラリー・ポルトガル)
1980年代前半はロータリーエンジンのRX-7で挑戦
グループA時代にいち早く対応し計3勝を挙げる

ロータリーエンジンで知られるマツダですが、その特徴的なエンジンを搭載したS102/S124型サバンナ(海外名RX-3)やSA22C型サバンナ RX-7が1970年代にはプライベーターの手によって世界各地のラリーに出場していました。

1980年代に入るとマツダは、後年はローバー等によるツーリングカーレースやジャガーによるグループCスポーツプロトタイプカーレースで勇名を馳せたトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と提携。同チームが製作したSA22C型RX-7 グループ2ラリーカーが1981年と1982年のRACラリーに出場しましたが、TWRによる活動はあくまでイギリスに限られたものでした。

マツダはより国際的なラリー活動に打って出ることとし、その実働チームとして1981年にマツダ・ラリーチーム・ヨーロッパを設立。まずは1.3ℓ自然吸気エンジンを積んだBD型ファミリア(海外名323)のグループAラリーカーが製作され、1982年のラリー・モンテカルロからスポット的なWRC参戦を行いました。やがてマツダは、1983年からWRCのトップカテゴリーとなったグループBに進出することを決断。SA22C型RX-7のグループBラリーカーを開発し、1983年のアクロポリス・ラリーでデビューさせました。ただし、ラリー界はもう4WD車でなければ勝機がない時代に入っており、FR車であったRX-7 グループBラリーカーによるワークス活動は1985年いっぱいまでの約1年半で計5戦のWRCイベントへ出場するにとどまります。それでも、1985年のアクロポリス・ラリーではイングバール・カールソンの奮闘によって総合3位を奪いました。

1984年 マツダ RX-7 グループBラリーカー(アクロポリス・ラリー)

  • PHOTO1984年 マツダ RX-7 グループBラリーカー(アクロポリス・ラリー)

1985年1月、マツダは6代目のファミリアであるBF型の販売を開始。同年10月には、1.6ℓターボエンジンと日本車初のフルタイム4WDシステムを搭載したBFMR型ファミリア GT-Xを追加発売しました。そしてマツダは、このホットモデルをベースにしたファミリア 4WD グループAラリーカーを開発し、WRCのトップカテゴリーがまだグループBであった1986年のラリー・モンテカルロから実戦投入しました。

すると期せずしてグループBは1986年いっぱいまでとなりました。1987年からWRCはグループAがトップカテゴリーとなった新時代に入り、その序盤においてマツダは一躍アドバンテージを持った存在となります。そして、BFMR型ファミリア 4WD グループAラリーカーは同年の2戦目であったスウェディッシュ・ラリーにおいて早速優勝。1985年にWRCチャンピオンに輝いたティモ・サロネンのドライブによるもので、この勝利によりマツダは、日産、トヨタ、三菱に続いてWRCで総合優勝を飾った日本車メーカーとなりました。

グループA時代を幸先良くスタートさせたマツダでしたが、その後も同社はWRCのシリーズタイトルを狙いにいくことはせず、各年の3分の1程度の数のWRCイベントにスポット参戦するという活動を続けました。BFMR型ファミリアのエンジン排気量は1.6ℓで、2ℓエンジンを使う主要なライバルたちに対してどうしてもパワーで劣ることがネックでした。それでもBFMR型ファミリアは1989年のWRCでは2勝を挙げ、同年のマツダはマニュファクチャラー選手権でランチアとトヨタに次ぐ3位に食い込みました。

そして1990年の1000湖ラリーからマツダは、1.8ℓエンジンを積んだBG8Z型ファミリア 4WD グループAラリーカーを投入しました。排気量とパワーは旧型より上がりましたが2ℓエンジン勢に対しては依然ハンディがあり、BG8Z型ファミリアは勝機に恵まれませんでした。そして、日本のバブル崩壊の影響から、マツダは1992年のスウェディッシュ・ラリーを最後にWRCへのワークス参戦を終了させました。

なお、1991年には、当時27歳であった現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表のトミ・マキネンがBG8Z型ファミリア グループAラリーカーを2戦でドライブ。地元1000湖ラリーでは5位に入賞しました。マキネンにとってはそれが初めての、自動車メーカーのワークスチームからのWRC出場でした。

DAIHATSU

DAIHATSUダイハツ

1993年 ダイハツ・シャレード・ターボ グループAラリーカー(サファリ・ラリー)

  • PHOTO1993年 ダイハツ・シャレード・ターボ グループAラリーカー(サファリ・ラリー)
リッタカーでサファリに挑み続けクラス常勝を誇る
1993年大会では殊勲の総合5-6-7位に

ダイハツは日本各地で開催されていたラリーにおいて1960年代から精力的に活動してきていました。その主体はダイハツ・カー・クラブ・スポーツ(DCCS)というダイハツ車のクラブチームで、F40型コンパーノ・ベルリーナや、トヨタ・パブリカとボディが共通であるEP型コンソルテ、360ccの軽自動車 フェロー MAXなどを走らせました。

時代は下り、1979年1月、ダイハツは初めての国際ラリーとしてラリー・モンテカルロにシャレードの初代モデルであるG10型のグループ2ラリーカーを送り込みます。1ℓ自然吸気エンジンを積んだG10型シャレードによるモンテカルロへの挑戦は3年にわたって行われ、1981年大会ではグループ2カテゴリーの最小排気量クラスでの優勝を飾りました。

その後、ダイハツは海外ラリー挑戦の矛先をアフリカに向け、1984年大会からサファリ・ラリーに毎年参戦するようになりました。マシンは1ℓターボエンジンを搭載したG11型シャレード・ターボのグループAラリーカーでした。ただし、同車にはレギュレーションの設定に由来する問題がありました。過給器付きエンジンを自然吸気エンジンの排気量に換算するための係数が当時は1.4であり、G11型シャレード・ターボの993ccエンジンでは同車が本来ターゲットとするところより上のクラスとなってしまっていたからです。そこでダイハツは、排気量を926ccに落として1.3ℓ以下クラスに入る仕様とした特別車 シャレード 926ターボを企画し限定200台で販売。その生産台数でFISA(国際自動車スポーツ連盟。当時の国際モータースポーツ統括組織)による車両のホモロゲーション(認証)が取得することができたグループBにカテゴリーをスイッチして1985年大会以降のサファリ・ラリーに出場し続けました。

シャレード ラリーカーは、1ℓに満たない排気量のエンジンで200km/hオーバーのトップスピードを出しながらアフリカの大地を突っ走りました。そして1988年大会からは3代目のシャレードであるG100型にスイッチ。ダイハツは同モデルにより1993年大会までサファリ・ラリーに毎年参戦し、クラス優勝を重ね続けました。圧巻は1993年大会で、1ℓターボの3台のシャレードが2ℓターボの4台のST185型トヨタ・セリカ GT-FOURに続いて総合5-6-7位でフィニッシュしました。そしてダイハツは同年をもってサファリ・ラリーへの挑戦を終了させました。

その後、ダイハツが海外でのラリーに公式参加することはありませんでしたが、WRC日本ラウンドには初開催の2004年大会以降、DCCSが毎年出場。他のWRC戦にはお目見えすることのなかった1.3ℓ自然吸気エンジン搭載のFF車であるM101S型ストーリアやM301S型ブーンのグループAラリーカーを走らせました。

SUZUKI

SUZUKIスズキ

2007年 スズキ・スイフト・スーパー1600(ラリー・カタルニア)

  • PHOTO2007年 スズキ・スイフト・スーパー1600(ラリー・カタルニア)
ジュニアWRCで2度タイトルを獲得
ワールドラリーカーによるWRCフル参戦も行う

長年にわたって四輪車は軽自動車を主力商品としてきたスズキですが、1983年に1ℓクラスの小型車 カルタスを新たに発売。1986年には1.3ℓ自然吸気エンジンを積んだAA33S型カルタス GT-iを登場させました。そして同車をベースにしたグループAラリーカーをスズキスポーツが開発し、同年のオリンパス・ラリー(アメリカ)に出場。これがスズキにとって初のWRC出場でした。

1991年までのスズキは、国際ラリーへの出場は年に1戦のみというペースでしたが、1992年からはアジア‐パシフィック・ラリー選手権(APRC)のイベントにも進出。そして1994年からはAPRCをシリーズで追い、2ℓ以下のFF車によるクラスを何度も制していきました。

この当時のスズキのマシンは、1989年から投入した1.3ℓ自然吸気エンジンのAA34S型カルタス GT-i グループAラリーカーで、同モデルは足かけ8シーズンにわたって使用されました。しかし、APRCにおけるFF車の覇権争いはどんどんシビアになっていき、これに対応するためにスズキは、1996年のシーズン中盤以降は次々に新たなラリーカーを繰り出していきました。具体的には、1.6ℓ自然吸気エンジン搭載のGC31S型カルタス クレセント グループAラリーカーを1996年半ばの2戦で使用すると、同年10月からは1.8ℓ自然吸気エンジン搭載のGC21W型カルタス ワゴン グループAラリーカーを投入。そして1997年8月からはFF車を対象としたF2キットカーという特別な車両規則のもとで開発された2ℓ自然吸気エンジン搭載のカルタス ワゴン F2キットカーを走らせました。

1998年 スズキ・カルタス ワゴン F2キットカー(ラリー・オーストラリア)

  • PHOTO1998年 スズキ・カルタス ワゴン F2キットカー(ラリー・オーストラリア)

1999年にはGD31S型カルタス セダン F2キットカーをデビューさせましたが、同車の使用はわずか2戦にとどまりました。そして2001年、スズキは1.6ℓ自然吸気エンジンのFF車によるスーパー1600という新たな車両規則に則ったRG413型スイフト(海外名イグニス)スーパー1600ラリーカーでAPRCを戦います。続く2002年には、WRCに新しく設けられたジュニアWRC(JWRC)にRG413型スイフト スーパー1600でシリーズ参戦。スズキにとってこれがヨーロッパで展開する初めてのラリー活動でしたが、JWRCで2年目の2003年にはラリー・フィンランドで初優勝を挙げ、RM413型イグニス スーパー1600に切り替えた2004年にはパー・ガンナー・アンダーソンによってJWRCタイトルを獲得しました。

スズキは、2005年のシーズン中盤にはZC型スイフトをベースにした新型スーパー1600ラリーカーを投入し、2007年には同車をドライブしたアンダーソンが2度目のJWRCチャンピオンに輝きました。さらにスズキは、ついにトップカテゴリーへ乗り出します。新型車SX4をベースにしたワールドラリーカー SX4 WRCを開発し、2007年のツール・ド・コルス(フランス)でデビューさせたのです。そして同車により2008年にはWRCフル参戦を敢行しました。トップカテゴリーへの挑戦も、WRCの全戦に出場することも初めてであったことを考えれば、そこでスズキが見せた奮闘は見事なものでした。しかし、同年の秋に発生した金融危機による経済混乱の影響はスズキにとっても大きく、同社はわずか1年でワールドラリーカーによるフル参戦を終了させ、国際ラリーでの活動にひとつの終止符を打ったのでした。