Greatest Rally Cars in History - before 1986 - 〜歴史に残るラリーカーたち〜 | The WRC Chronicle vol.9

100年を超える自動車ラリー競技の長い歴史に
名を刻んだ数々の名車たち。
今回はグループB時代以前に活躍した
5台のラリーカーを取り上げます。

MINI

ミニ・クーパーMINI COOPER

  • CATEGORYグループ2
  • YEARSワークス参戦期間:1961年〜1968年

ミニ・クーパー S(ラウノ・アルトーネン)/1967年 ラリー・モンテカルロ

  • PHOTOミニ・クーパー S(ラウノ・アルトーネン)/1967年 ラリー・モンテカルロ
数々のビッグイベントで総合優勝
ミニの名声はラリーでの活躍から

ミニはBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)が1959年に発売した前輪駆動車で、全長3m、車重約600kgの小さな車両に大人4人がきちんと乗れる大衆車として企画されたものでした。この小型車にモータースポーツにおける可能性を見出したのがF1などのレーシングカーの製作で知られたジョン・クーパーで、彼はミニの基本モデルより60%も出力が高いエンジンや強化型のサスペンションやブレーキを与えた高性能モデルを開発。同車は「ミニ・クーパー」の名で1961年に発売され、1963年にはさらに性能を上げたミニ・クーパー Sが登場。多くのモータースポーツ参加者によってラリーやツーリングカーレースなどで使用されました。

ミニ・クーパーの名声を最も高めたのはラリーでの活躍でした。とりわけ目立ったのはラリー・モンテカルロでの好成績で、1964年、1965年、1967年と3度も同ラリーで総合優勝を飾りました。また、ミニ・クーパーはグラベルでも速く、高速グラベルイベントとして知られる1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)においては、ティモ・マキネンの手によって1965年大会から1967年大会まで3年連続で総合優勝。このほか、1965年のRACラリー(現ラリー・グレートブリテン)や1967年のアクロポリス・ラリー(ギリシャ)をはじめとする数々の国際ラリーで総合優勝を勝ち取りました。

エンジン出力の絶対値は高くはないものの、車重の軽さからパワーウェイトレシオに優れていること、そして「ゴーカートのよう」と評されたきびきびとしたハンドリングがミニ・クーパーの武器でした。たとえば1967年のラリー・モンテカルロではミニ・クーパー Sを駆ったラウノ・アルトーネンが優勝しましたが、彼が競り勝った相手は、2位となったランチア・フルビア HFのオベ・アンダーソン(*1)や、3位となったポルシェ 911 Sのヴィック・エルフォード(*2)といった顔ぶれでした。フィンランド人ラリードライバーの草分け的存在のひとりであるアルトーネンが速かったことはもちろんですが、アンダーソンやエルフォードのような名手たちが乗ったパワーに優る車両を下すことができるほど、ミニ・クーパーは戦闘力が高い車両であったのです。

*1:後年のトヨタ・チーム・ヨーロッパ代表で、1960年代から国際的に活躍したラリードライバー。1971年ラリー・モンテカルロでは総合優勝を飾っている。*2:F1にも出場したレーシングドライバーで、ラリーにおいても活躍。1968年ラリー・モンテカルロで総合優勝。1970年モンテカルロではトヨタが初めてヨーロッパに送り込んだワークスラリーカーであるコロナマークⅡGSSのドライバーに起用された。

ALPINE

アルピーヌ・ルノー A110ALPINE-RENAULT A110

  • CATEGORYグループ2/グループ4
  • YEARSワークス参戦期間:1968年〜1975年

アルピーヌ・ルノー A110 1800(ジャン-リュック・テリエ)/1973年 WRC第3戦 ラリー・オブ・ポルトガル

  • PHOTOアルピーヌ・ルノー A110 1800(ジャン-リュック・テリエ)/1973年 WRC第3戦 ラリー・オブ・ポルトガル
小規模スポーツカーメーカーを
初代WRC王者に就かせたフレンチスター

アルピーヌはルノー製エンジンを使用したスポーツカーやレーシングカーで知られた小規模の自動車メーカーです(1973年にルノーの子会社に)。そのアルピーヌが1963年から1977年にかけて製造・販売したリアエンジンのスポーツカーがA110でした。トヨタ 2000GTと同様にバックボーンフレームを採用し、FRP製のボディを架装した車両で、後部に搭載するエンジンには1ℓから1.8ℓまで様々な排気量のものがありました。

アルピーヌ・ルノー A110はストリートモデルの車重で600kg弱から800kg強という軽さの車両でありながら、高い路面追従性と径の大きなタイヤの装着を実現させたストロークの長いサスペンションを有していました。そして、リアエンジンならではのトラクションの良さが加わって、ラリーでは舗装路でもグラベルでも速さを発揮しました。ストリートモデルに競技用の改造を軽く施すだけでラリーで高い性能を発揮したことから、多くのプライベーターが同車を購入して駆り、好成績を挙げていきました。

1970年にFIA国際ラリー自動車メーカー選手権が創設されると、アルピーヌは同選手権のタイトルがかかった主要なラリーにA110のワークスマシンを送り込みました。そして、1971年にはシリーズ9戦中7戦にワークス参戦して、5戦で優勝しメーカーチャンピオンに輝きます。なお、その5勝のうち4勝を挙げたのはオベ・アンダーソンでした。さらに、1973年にWRC(FIA世界ラリー選手権)が創設されると、A110を駆ったドライバーが全13戦のうち6戦で優勝。開幕戦ラリー・モンテカルロと最終戦ツール・ド・コルス(フランス)ではともにA110勢が1-2-3フィニッシュを決めるという強さを見せ、アルピーヌはWRCの初代マニュファクチャラーチャンピオンに輝きました。

LANCIA

ランチア・ストラトス HFLANCIA STRATOS HF

  • CATEGORYグループ4
  • YEARSワークス参戦期間:1974年〜1978年

ランチア・ストラトス HF(サンドロ・ムナーリ)/1976年 WRC第8戦 ラリー・サンレモ

  • PHOTOランチア・ストラトス HF(サンドロ・ムナーリ)/1976年 WRC第8戦 ラリー・サンレモ
すべてはラリーで勝つために
空前絶後にしてひとつの究極のラリーカー

ラリーカーは、一般走行での使用を前提に設計されたストリートモデルがまずありきで、それをベースにしながらラリーでの使用目的に合わせて改造され仕立て上げられているものが大半です。しかし、ランチア・ストラトス HFはそうではありません。このクルマは、既存車種から派生した高性能モデルなどではなく、ラリーに勝つことを目的にまったく新規に企画され開発された希有な車両です。そのストリートモデルは存在しますが、それはラリーカーとしての車両公認を得るために必要な条件を満たすことをそもそもの目的として用意され販売されたものでした。

航空機を連想させるデザインの運転室の前後は鋼管で組まれたフレームで構成され、それに取り付けられるサスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン式。ランチア・ストラトス HFの車体構成はそのままレーシングカーのもので、ミッドに2.4ℓ自然吸気のフェラーリ製ディーノV6エンジンを搭載しました。そのグループ4ラリーカーのWRCにおける初陣は1974年のラリー・サンレモ(イタリア)で、サンドロ・ムナーリの手によりデビューウィンを飾ります。そして、1975年のWRCでランチアワークスは3戦の欠場を強いられつつ、出場7戦のうち4戦をストラトス HFにより制覇。1976年のWRCでも出場9戦のうち4戦で優勝を飾り、ランチアは3年連続でマニュファクチャラーズタイトルを獲得しました。

やがてランチアの親会社であるフィアットが送り出してきた131 アバルト・ラリーが速さを増し、これによりフィアットは大衆車である131の販売促進に直結する131 アバルト・ラリーを勝たせる方針を打ち出し、ランチアのワークス活動は縮小されました。しかし、ストラトス HFはプライベーターの手によってその後も様々なラリーで活躍を続けました。そして、1981年のツール・ド・コルスではチーム・シャルドネから出場したベルナール・ダルニッシュによって最後のWRC優勝をマーク。このとき、デビューからすでに7年近くが経ち、しかもプライベートチームであってもWRCで勝てる力を示したランチア・ストラトス HFは、ひとつの究極のラリーカーとして神格化された存在となっています。

AUDI

アウディ・クワトロAUDI QUATTRO

  • CATEGORYグループ4/グループB
  • YEARSワークス参戦期間:1981年〜1986年

アウディ・クワトロ A2(スティグ・ブロンクビスト)/1983年 WRC第10戦 ラリー・サンレモ

  • PHOTOアウディ・クワトロ A2(スティグ・ブロンクビスト)/1983年 WRC第10戦 ラリー・サンレモ
ボクシーなフォルムの革命児
WRCの戦いを一変させた元祖4WDターボ車

4WDでなければもう勝てない。WRCをそのように変えてしまったクルマがアウディ・クワトロです。フロントに搭載する2.1ℓターボエンジンのハイパワーで4つの車輪を常時駆動。そのストリートモデルは1980年に発売されましたが、フルタイム4WDシステムによるスポーツドライビングの可能性を示した画期的な乗用車として当時注目されました。そしてアウディは、同車をアピールする格好の舞台としてWRCを選び、ワークス参戦に乗り出しました。

アウディ・クワトロのWRCデビュー戦は1981年のラリー・モンテカルロでした。ドライブしたハンヌ・ミッコラは、SS1からSS6までいきなり6ステージ連続でトップタイムをマーク。後輪駆動車ばかりであったライバルたちを1本のステージごとに1分引き離していくという圧倒的なスピードで、違いを見せつけました。このモンテカルロにおけるミッコラはやがてクラッシュを喫してリタイアに終わりましたが、次のスウェディッシュ・ラリーではFR車であるフォード・エスコート RS1800で2位に入ったアリ・バタネンに1分53秒差をつけて圧勝。また、ラリー・サンレモではミシェル・ムートンがクワトロでWRC初優勝を飾り、史上初のWRC優勝女性ドライバーとなりました。

デビュー1年目の1981年はトラブルでリタイアしたラリーも多くありましたが、信頼性が上がった1982年にはWRC全12戦のうち7戦でクワトロが優勝。アウディはマニュファクチャラーズタイトルを獲得しました。そして1983年には、すでに41歳になっていたミッコラがクワトロによって悲願のドライバーズタイトルを獲得。1984年には今度はスティグ・ブロンクビストがクワトロでチャンピオンに輝き、アウディは2度目のマニュファクチャラー選手権制覇も果たしてダブルタイトルを手にしました。

クワトロの泣き所は旋回性がもうひとつであったところで、ターマックラリーではそれが決定的なマイナス材料となってなかなか勝てませんでした。そこでアウディは、ホイールベースを従来車より320mmも短くし、エンジン等を強化した仕様の車両であるスポーツクワトロを開発し発売。WRCには1984年のシーズン半ばに登場させました。しかし、ホイールベースの短さが災いし、同車は不安定なハンドリングに悩まされることになりました。また、プジョー 205ターボ16やランチア・デルタ S4といった強力なライバル車両が次々に出現したこともあってクワトロは勝てなくなり、1986年末のグループB時代の終焉を待たずにアウディは同年の半ばでWRC活動を一旦終了させました。かように、その末期には思うように活躍できなかったアウディ・クワトロですが、WRCに4WD革命をもたらした同車の価値は不変であり、後世に語り継がれるべき一台です。

TOYOTA

トヨタ・セリカ・ツインカムターボTOYOTA CELICA TWINCAM TURBO

  • CATEGORYグループB
  • YEARSワークス参戦期間:1983年〜1986年

TA64型トヨタ・セリカ・ツインカムターボ(ビヨルン・ワルデガルド)/1986年 WRC第4戦 サファリ・ラリー

  • PHOTOTA64型トヨタ・セリカ・ツインカムターボ(ビヨルン・ワルデガルド)/1986年 WRC第4戦 サファリ・ラリー
アフリカ勝率100%。グループB時代に
閃光を放ったアフリカンイベント最強マシン

すべてのラリーで勝ちを狙える車両であったわけではありません。しかし、アフリカのラフロードイベントにおいては無敵でした。グループB時代にアフリカで開催されたWRCイベントに6回出場し、そのすべてにおいて優勝を飾るという圧倒的な強さを示したラリーカーがトヨタ・セリカ・ツインカムターボです。

アウディ・クワトロの出現により、WRCの大半を占めるスプリントタイプのグラベルラリーで勝つには4WDシステムが必要であることは、1981〜82年の段階ではすでに明白でした。しかし、当時のトヨタにWRCでの使用に適した車両はFR車のセリカしかありませんでした。そこでトヨタは、TA63型セリカ 1800GT-Tにいくつかの仕様変更を施したTA64型セリカ 1800GT-TSを200台限定で1982年10月に発売。そして、同車をベースとしたグループBラリーカーを20台製作して、FIA(国際自動車連盟)の車両公認を1983年7月に取得します。かくして、TA64型セリカ・ツインカムターボは1983年8月の1000湖ラリーでWRCデビューを果たしました。

TA64型セリカ・ツインカムターボ グループBラリーカーは、ベース車両であるTA64型セリカ 1800GT-TSと同じく、フロントにエンジンを搭載し後輪のみを駆動させるFR車でした。搭載した2090cc・直列4気筒ターボの4T-GT型改エンジンは、1983年のデビュー時で355PS、1986年の最終仕様では約390PSを発生。その出力を後輪だけで受けとめねばならないラリーカーとしては、激しい加減速がひっきりなしに繰り返されるスプリントタイプのラリーにおいてはトラクション性能の面で4WD車に対して分が悪く、同タイプのWRCイベントにおけるセリカ・ツインカムターボの最上位は1984年のRACラリーでのペル・エクルンドの3位。当時のWRCにおいてFR車で得たものとしては殊勲の結果と言えましたが、スプリントタイプのラリーで勝機がなかったことも確かでした。

しかし、舞台がアフリカ大陸に移ると、セリカ・ツインカムターボは最強のマシンでした。同車のWRC出場2戦目であった1983年のアイボリーコースト・ラリー(コートジボワール)でビヨルン・ワルデガルドのドライブによって1勝目が挙げられると、トヨタが初めて臨んだサファリ・ラリー(ケニア)である1984年大会でもワルデガルドが快勝。1年後のサファリではユハ・カンクネンがWRC初優勝を飾り、彼は同年のアイボリーコーストも制覇。そしてグループB最終年の1986年には、今度はワルデガルドがサファリとアイボリーコーストの双方を制し、セリカ・ツインカムターボは出場したアフリカでのWRCイベント全戦で優勝を果たすという強さを見せたのでした。

グループB時代には、アウディ、プジョー、ランチアが4WD車を繰り出してWRCのシリーズタイトルを争いました。彼らはアフリカンイベントを無視していたわけではなく、やはり勝利を手にすべく全力で挑んでいました。また、トヨタと同様にグループBラリーカーはFR車しか持たなかった日産やオペルなどは、やはりトヨタと同様にアフリカンイベントにこそ勝機を見出して注力していました。そうした強豪たちをことごとく退けたセリカ・ツインカムターボは、耐久性と高速性能の双方が高いレベルで求められたアフリカで、無敵を誇ったラリーカーとして世界中のファンに記憶され続けています。