Great Rally drivers driving Toyota 〜トヨタで活躍したラリードライバーたち〜 | The WRC Chronicle vol.10

トヨタの長いWRC参戦の歴史において
公式チームにより起用したドライバーは
約40名を数えます。
その中から、特に印象的な活躍を見せてくれた
7名のラリードライバーたちのトヨタ時代に触れます。

MIKKOLA

Hannu Mikkolaハンヌ・ミッコラ

  • 1942年5月24日生まれ、フィンランド出身
  • 1983年 WRCチャンピオン
  • トヨタ公式チーム在籍期:1975〜1977年、1993年

1975年 WRC第10戦 RACラリー

  • PHOTO1975年 WRC第10戦 RACラリー(写真右がミッコラ、左はコ・ドライバーを務めたジャン・トッド現国際自動車連盟会長)
トヨタの公式チームによるWRC初優勝をもたらす

1975年の1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)においてトヨタの公式チームによるWRC初優勝は飾られました。その勝利をもたらしたのはハンヌ・ミッコラ。1960年代半ばから国際的に活躍し、1983年にはアウディ・クワトロを駆りWRCチャンピオンの座をつかみ取ったラリードライバーです。

ミッコラは、世界随一の高速グラベルイベントとして知られた1000湖ラリーにおいて通算で7回も総合優勝を飾ったフライングフィンです。そんな彼がトヨタ車でラリーに出場したのは1975年の1000湖が初めてのことでしたが、このときのミッコラはいつにも増して高いモチベーションで戦いに臨んでいました。それは、託されたTE27型カローラレビン グループ4ラリーカーに大きな手応えを得ていたからでした。同車は、1気筒あたり4バルブの競技専用設計シリンダーヘッドを持つ2T-G改エンジンを搭載し、4リンク式に改修されハンドリングの大幅な向上を実現させたリアサスペンションを備えていました。

1975年の1000湖ラリーでは、フォード・エスコート RS1600のアリ・バタネン、サーブ 96 V4のスティグ・ブロンクビスト、そして日産 バイオレット 160Jを駆るマルク・アレンというそうそうたる顔ぶれが代わる代わるラリーをリードしました。その戦いの前半では彼らの後方につけていたミッコラでしたが、TE27型カローラレビンの最適なドライビングをやがて習得するとペースアップ。SS20から7ステージ連続でトップタイムを叩き出すというスピードを見せます。そしてミッコラはSS22を終えたところで首位に浮上すると、並み居るライバルたちを置き去りにして独走。最後はややペースを落とす余裕さえ見せながらトヨタの公式チームによるWRC初優勝を勝ち取るとともに、ヨーロッパ開催のWRCイベントにおける日本車による初めての勝利を飾ったのでした。

1975年 WRC第7戦 1000湖ラリー/TE27型カローラレビン グループ4ラリーカー

  • PHOTO1975年 WRC第7戦 1000湖ラリー/TE27型カローラレビン グループ4ラリーカー

その後、ミッコラはトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)のレギュラードライバーとなり、1977年いっぱいまでトヨタのラリーカーを駆りました。1978年にはフォードへ移籍。そして1981年からは、ラリー界に4WD革命をもたらしたアウディ・クワトロをドライブし、1983年には41歳にしてWRCチャンピオンに輝きました。1988年からはマツダでファミリア 4WDを駆り、49歳となった1991年までWRCのレギュラードライバーとして活動を続けました。

そんなミッコラも50歳を過ぎ、いよいよ現役を退くときがやってきました。そこで彼に引退の花道を用意したのが、TTEのチーム代表であり、ミッコラのことを古くから知るオベ・アンダーソンでした。舞台は1000湖ラリー。ミッコラがその18年前にトヨタの公式チームによるWRC初優勝をもたらした彼の母国イベントの1993年大会です。アンダーソンは、新技術であったトラクションコントロールシステムを搭載した先行開発仕様のST185型セリカ GT-FOURをミッコラに託し、その実戦テストという使命を担わせながら彼を送り出しました。51歳のミッコラは盟友の期待に懸命に応え、いろいろな技術的フィードバックをチームにもたらしながら、トップ10に入るタイムを並べ続けたすえに7位でフィニッシュ。様々なラリーカーで戦ってきたWRCへの最後の出場をセリカで見事に締めくくりました。

AURIOL

Didier Auriolディディエ・オリオール

  • 1958年8月18日生まれ、フランス出身
  • 1994年 WRCチャンピオン
  • トヨタ公式チーム在籍期:1993〜1995年、1997〜1999年

1994年 WRC第6戦 ラリー・アルゼンティーナ

  • PHOTO1994年 WRC第6戦 ラリー・アルゼンティーナ
セリカ GT-FOURでフランス人初のWRCチャンピオンに

トヨタ車に乗ってWRCチャンピオンに輝いた3人目のドライバーがディディエ・オリオールです。彼がトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)に加わったのは1993年。それ以前の4シーズンにおけるオリオールは、TTEにとって最大のライバルであり目標でもあったランチアワークスに所属していたドライバーでした。特に1992年は、10戦に出場したWRCイベントのうち6戦で優勝という目覚ましい速さを見せていました。

TTEに加わり、新たにST185型セリカ GT-FOURをドライブすることになったオリオールは、その初戦であった1993年の開幕戦ラリー・モンテカルロでいきなり優勝。同年はさらに勝利を重ねることはできませんでしたが、それでもドライバー選手権で3位となり、トヨタの初のWRCマニュファクチャラーズタイトル獲得に貢献しました。そして1994年には、母国イベントであるツール・ド・コルス(フランス)で彼にとっては通算5度目となる優勝を飾ると、ラリー・アルゼンティーナではカルロス・サインツ(同年はスバル・インプレッサをドライブ)との秒差を争う接戦を制して勝利を手中に。オリオールはさらにラリー・サンレモ(イタリア)でも優勝し、ポイントランキング2位のサインツに11点差をつけたポイントリーダーとして最終戦RACラリー(現ラリー・グレートブリテン)を迎えました。

1994年 WRC第4戦 ツール・ド・コルス/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー

  • PHOTO1994年 WRC第4戦 ツール・ド・コルス/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー

しかし、RACラリーでのオリオールは天を仰ぐような事態に見舞われました。彼はSS3でサスペンションを壊して大きく遅れ、2日目にはセリカを転倒させてしまったのです。再スタートは切れたものの、転倒に起因するターボトラブルを抱え、20分を超える遅れを背負い込んでしまいました。それでもオリオールは勝負を捨てることなく懸命に追い上げを図りました。総合順位で一時は94位にまで転落したところから、ラリー最終日を迎えた時点では9位にまで浮上します。すると、最終日の3本目のスペシャルステージであったSS25で、今度はサインツがコースアウト。これでタイトル争いは決着し、オリオールはフランス人初のWRCチャンピオンに輝き、前年のユハ・カンクネンに続いてトヨタのドライバーが2年連続でWRCを制する結果となったのでした。

SAINZ

Carlos Sainzカルロス・サインツ

  • 1962年4月12日生まれ、スペイン出身
  • 1990、1992年 WRCチャンピオン
  • トヨタ公式チーム在籍期:1989〜1992年、1998〜1999年

11992年 WRC第3戦 ラリー・ポルトガル

  • PHOTO1992年 WRC第3戦 ラリー・ポルトガル
他を圧倒する完全主義で数々の勝利と栄冠を手中に

1990年は、カルロス・サインツがWRCを初めてフルシーズン戦った年でした。つまり、同年を迎えた時点での彼には、それまで一度も出場したことのなかったラリーが3戦もあり、他のラリーにしても過去に1〜2回の参戦経験がある程度のものばかりでした。それにもかかわらず、サインツはランキング2位以下に大きな点差をつけて同年のドライバー選手権を制覇。日本車を駆ったドライバーとして初のWRCチャンピオンに輝きました。

サインツの経験不足を補ったものは、他のドライバーを圧倒するレベルの努力であり、それを支える彼の完全主義でした。そんなサインツの資質を端的に表していたのが、WRC初優勝を遂げることになる1990年のアクロポリス・ラリー(ギリシャ)に向けて彼が行った準備でした。荒れた路面のコースが続くことで知られたこの一戦に備え、サインツと彼のコ・ドライバーであったルイス・モヤはレッキ(コースの下見走行)をそれまでになく徹底的に行いました。ラリー本番で乗るものと同じ仕様のST165型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーを使い、ラリー本番と同じ全開スピードであらゆるコースを何度も何度も走行したのです。

当時はレッキに制限がなく、コースを何度でも走ることが可能で、その走行にはラリーカーを使用することもできました。だからこそ成せたことではありましたが、このときのサインツの走り込みの量と質は飛び抜けたものでした。おかげで彼は、練習してきたとおりのスピードを再現しさえすれば良いレベルに仕上がった状態でアクロポリス・ラリーの本番を迎え、ベテランたちを寄せ付けない内容でWRC初優勝を飾ったのでした。

1990年 WRC第5戦 アクロポリス・ラリー/ST165型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー

  • PHOTO1990年 WRC第5戦 アクロポリス・ラリー/ST165型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー

この成功体験からサインツの完全主義は一段と確たるものになり、それに裏打ちされた無尽の努力によって彼は数々の勝利と栄冠を手にしていくことになります。また、サインツはともに働くチームスタッフたちにも完璧な仕事を期待し、それを実現させるための徹底的な準備を求めました。そんな彼の要求に応えるべく一層の尽力をしたことも手伝って、トヨタ・チーム・ヨーロッパはサインツがエースドライバーとして君臨した1990年代初頭に一段とチーム力を高めることになったのです。

KANKKUNEN

Juha Kankkunenユハ・カンクネン

  • 1959年4月2日生まれ、フィンランド出身
  • 1986、1987、1991、1993年 WRCチャンピオン
  • トヨタ公式チーム在籍期:1983〜1985年、1988〜1989年、1993〜1995年

1983年 WRC第9戦 1000湖ラリー

  • PHOTO1983年 WRC第9戦 1000湖ラリー
WRC初優勝と4度目のWRCタイトル獲得はトヨタ車で

自動車メーカーのワークスチームのシートをトヨタで初めてつかみ、やがてチャンピオンの座に上り詰めた初めてのラリードライバーがユハ・カンクネンです。トヨタが彼を起用したのは1983年。WRC投入1戦目であった1000湖ラリーにおけるTA64型セリカ・ツインカムターボの2台のうち1台を新人に任せるというオベ・アンダーソンの大胆な決断によるものでした。当時24歳のカンクネンは期待に見事に応え、初陣のセリカ・ツインカムターボを3台のアウディ・クワトロと2台のランチア 037ラリーに続く6位に導きました。

それから1年半が過ぎた1985年4月、カンクネンは初めてサファリ・ラリー(ケニア)に挑みました。同年のサファリは5167kmものラフロードを5日間で走行するもので、他のWRCイベントとは異なる取り組み方が求められました。そこでカンクネンにとって大きな助けとなったのはチームメイトであったビヨルン・ワルデガルドの存在でした。この1979年のWRCチャンピオンは、アフリカでの走り方やノウハウを惜しげもなく後輩に伝授。カンクネンは生来の能力の高さを生かして先輩のアドバイスを忠実に遂行しました。そして、トップドライバーたちが次々に問題を抱え、リタイアする者が続出した中、安定した走行を続けたカンクネンはするすると順位を上げ、ついにはサファリ初出場にして優勝を飾るという史上初の快挙を成し遂げたのでした。それはカンクネンにとって記念すべきWRC初優勝でもありました。

その後カンクネンは、1986年はプジョーで、1987年と1991年はランチアでWRCチャンピオンに輝きました。超一流の速さを備えていたことはもちろんですが、さらに攻めていくべきときなのか、あるいは少し控えて待つべきときなのかをかぎ分ける能力の高さ、そして抑えるべきと判断したときは我慢の走りに徹することができる冷静さが、カンクネンに多くの勝利をもたらしました。

しかし、時代が進み、1980年代後半には合計600km程度のスペシャルステージが設けられていたWRCの多くのラリーは、1990年代前半には400km程度からそれ以下の距離で行われるものに変身していきました。するとカンクネンも、ラリー序盤は抑え気味に走って相手の出方を見ることが多かった以前の戦い方を捨て、スタートから攻めていくアグレッシブなスタイルに変貌します。そして、ST185型セリカ GT-FOURを駆った1993年には同シーズン最多の5勝をマーク。1000湖ラリーでは、それがWRCデビュー戦であったスバル・インプレッサを駆るアリ・バタネンと激しい接戦を演じたすえに勝利を奪い取り、得意としたラリー・オーストラリアでは文句なしの圧勝を飾って、彼にとっては4度目、トヨタにとっては1990年のカルロス・サインツに続いて2度目となるWRCドライバーズタイトル獲得を果たしたのでした。

1993年 WRC第10戦 ラリー・オーストラリア(写真右がカンクネン、左はコ・ドライバーのニッキー・グリスト)

  • PHOTO1993年 WRC第10戦 ラリー・オーストラリア(写真右がカンクネン、左はコ・ドライバーのニッキー・グリスト)

WALDEGARD

Björn Waldegårdビヨルン・ワルデガルド

  • 1943年11月12日生まれ、スウェーデン出身
  • 1979年 WRCチャンピオン
  • トヨタ公式チーム在籍期:1974〜1975年、1980〜1991年
  • トヨタ車でWRC通算5勝

1987年 WRC第4戦 サファリ・ラリー

  • PHOTO1987年 WRC第4戦 サファリ・ラリー
苦しき時代のTTEを支え、セリカ GT-FOURの初優勝を飾る

オベ・アンダーソンが「チーム・トヨタ・アンダーソン」を立ち上げた当初、同チームには彼と同じスウェーデン出身の数名しか構成員がいませんでした。そして、そのメンバーのひとりとして1974年から1975年にかけて在籍し、チームのエースドライバーとして活動したのが、1979年には初代のWRCチャンピオンに輝くビヨルン・ワルデガルドでした。当時のワルデガルドは、すでにいくつもの自動車メーカーのワークスチームを渡り歩いてきたトップクラスのラリードライバーでしたが、同郷の先輩ドライバーで、古くからの友人であるアンダーソンが自身のチームを立ち上げると、彼をサポートするように活動をともにし、計5戦のラリーにTA22型セリカ 1600GTないしTE27型カローラレビンで出場しました。

その後、ワルデガルドはランチアワークスに加わり、さらにフィアット、メルセデス・ベンツ、フォードでそれぞれ活躍します。そして、WRCチャンピオンに輝いた翌年である1980年の秋には再びアンダーソンのチームへ加入。それから10年以上にわたってトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)のドライバーとして走り続けました。その期間の大半におけるトヨタのラリーカーはどのラリーでも総合優勝を狙えるような競争力を持つものではなく、いわば耐え忍ばなければならなかった時期にあったTTEをエースとして支えたのがワルデガルドでした。

1980年11月のRACラリーを皮切りに、ワルデガルドはTTEから36戦のWRCイベントに出場。6戦において総合優勝を飾りましたが、そのうち5勝はサファリ・ラリーあるいはアイボリーコースト・ラリー(コートジボワール)で挙げられたものでした。ハイスピードのグラベルラリーやターマックラリーで抜群の速さを見せてきたワルデガルドでしたが、耐久色の濃いアフリカのラフロードイベントでは無類の安定性と我慢強さを発揮し、マシンを労りながら、なおかつ速く走らせてゴールへと導くことのできるドライバーでした。

また、ワルデガルドはチームメイトとなった若年のドライバーたちの良き指南役でもありました。ユハ・カンクネンもカルロス・サインツも、同ラリーへの初めての挑戦をトヨタから行いましたが、ヨーロッパ開催のラリーとまったく異なる条件に戸惑いを隠せずにいました。そんな彼らに、ドライビングをはじめとする物事のアフリカでのイロハを教えたのがワルデガルドでした。1985年大会においてサファリ初出場にして優勝を飾ったカンクネンも、1990年大会で満身創痍の状態となったマシンを最後まで走らせ4位に入ったサインツも、彼らを鼓舞してくれたワルデガルドへの感謝の言葉を忘れませんでした。

サインツが初出場した1990年のサファリ・ラリーは、豪雨の影響によって例年の比でない多さでぬかるみや水たまりがコースの各所にできており、史上最悪のコンディションのサファリとも言われました。そこでただひとり、一度もスタックすることなく4131kmの行程を走り切ったのがワルデガルドで、彼のテクニックと判断力にサインツは驚嘆していました。ワルデガルドはこの1990年のサファリにおいて2位に38分を超える大差をつけてST165型セリカ GT-FOURにWRC初優勝をもたらしました。このとき彼は46歳。WRC史上最も高い年齢での優勝で、この記録は2019年2月現在も破られていません。

1990年 WRC第3戦 サファリ・ラリー(写真右がワルデガルド、左はコ・ドライバーのフレッド・ギャラガー)

  • PHOTO1990年 WRC第3戦 サファリ・ラリー(写真右がワルデガルド、左はコ・ドライバーのフレッド・ギャラガー)

FUJIMOTO

Yoshio Fujimoto藤本 吉郎

  • 1960年 1月29日生まれ、神奈川県出身
  • 1995年 サファリ・ラリー総合優勝
  • 1998年 FIAアジア‐パシフィック・ラリー選手権(APRC)チャンピオン
  • トヨタ公式チーム在籍期:1994〜1995年

1995年 サファリ・ラリー/藤本吉郎(写真右)&ダゴベルト・レーラー(チーム監督・写真中央)&アーネ・ハーツ

  • PHOTO1995年 サファリ・ラリー/藤本吉郎(写真右)&ダゴベルト・レーラー(チーム監督・写真中央)&アーネ・ハーツ
サファリを制したトヨタ初の日本人ワークスドライバー

1990年にWRCで初めてのタイトルを獲得し、名実ともにトップレベルのWRC参戦メーカーとなったトヨタ。その頃になると、出場車両や出場チームの改善を引き続き進める一方で、WRC参戦そのものの価値をより高めたいという思いを一段と強く抱くようになっていました。そして1992年に2度目のWRCドライバーズタイトル獲得を果たすと、トヨタは新たなプロジェクトをスタートさせました。日本人ワークスドライバーを誕生させ、WRCに挑戦させることでした。

厳しいオーディションのすえに選ばれたのは藤本吉郎でした。彼はラリーを始めた当初から世界の舞台で戦うことをこころざし、自らの努力により27歳のときから海外ラリーへ挑戦。そして1993年のラリー・オブ・ニュージーランドでは三菱 ランサーエボリューションを駆ってラリー初日からグループNカテゴリーの首位を走り、独走でグループN優勝をさらいました。そのニュージーランドでのドライビングがトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)の代表であったオベ・アンダーソンの目にとまり、運転技術ばかりでなく、体力や語学力、レギュレーションの理解度、頭脳の明晰さなどを問う様々なテストを課したオーディションを経て、藤本はトヨタ初の日本人ワークスドライバーの座をつかんだのでした。

藤本のTTEでのデビュー戦は1994年のサファリ・ラリーでした。ユハ・カンクネン、ディディエ・オリオール、サファリのスペシャリストで同年大会の勝者となったイアン・ダンカンとともにST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーを与えられた藤本は、ラリー初日にペースノートの問題からクラッシュを喫してリタイアを余儀なくされるという痛恨の事態を味わいました。しかし、彼はそれでへこたれることなく、世界最高レベルにおけるラリーのなんたるかをその後も貪欲に学習し続けていきました。外国人ばかりのワークスチーム、それまで乗ったこともなかったトップカテゴリーの左ハンドルのワークスマシンでのドライビング、そして様々な国での様々なラリー。不慣れなものばかりの環境に藤本は真正面から対峙し、悩み、もがいて、成長していきました。

その成果は、ワークスデビューから1年が経った1995年のサファリ・ラリーで示されました。ラリーの開催は4月でしたが、藤本は1月から正味12週間にもわたってケニアに滞在。レッキの制限がない最後の年であったことを利用し、ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーを使って、競技で使用されるコースを繰り返し走行して練度を高めました。藤本がレッキで走行した距離は2万4000kmをゆうに超え、区間によっては16回も走り込んだところがあったほどでした。

同年のサファリ・ラリーにおける藤本の最大のライバルは、同じST185型セリカ GT-FOURのワークスマシンに乗る地元ケニア出身で前年大会の覇者であるダンカンと、パリ〜ダカール・ラリーも含めてアフリカでの経験が豊富な三菱ワークスの篠塚建次郎でした。ラリーがスタートしてまず飛び出したのはダンカンでしたが、初日の前半のうちに車両の後部クロスメンバーを破損させて大きく後退。替わって藤本が首位に立ちました。攻めるべきところと抑えるべきところをよく知った藤本は快調に走り続け、ラリー最終日を迎えた時点で2位を走る篠塚に対して16分47秒のリードを築き上げていました。

しかし、好事魔多しと言うべきか、ラリー最終日の序盤で藤本は車両を横転させてしまいます。セリカはルーフを下にしてストップ。ただ、幸運なことに、地元の見物客がひっくり返った車両をすぐに起こしてくれ、セリカのダメージも最小限で済んでいて、ラフロードを全開で走ることが依然として可能な状態でした。また、藤本を追っていた篠塚にもその後トラブルが降りかかり、藤本のリードはむしろ拡大することに。かくして、最終的には40分を超えるリードを築いた状態で藤本はナイロビにフィニッシュし、サファリ・ラリーを制した初の日本人ドライバーとなったのでした。

1995年 サファリ・ラリー/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー

  • PHOTO1995年 サファリ・ラリー/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー

明くる1996年、藤本は活動体制を一新。トヨタ&TTEサテライトチームのテインスポーツを自身が勤めるサスペンションメーカーの社内に創設し、同チームからFIAアジア‐パシフィック・ラリー選手権(APRC)に1998年まで参戦しました。走らせたのはいずれもTTEからサポートを受けた車両で、まずはST185型セリカ GT-FOUR、次いでST205型セリカ GT-FOUR、そして1998年にはカローラ WRCを投入しました。その1998年にはシリーズ最終戦ラリー・オーストラリア(WRCとの併催)までもつれ込んだチャンピオン争いに勝ってAPRCドライバーズタイトルを獲得。サファリ・ラリー優勝に続く大きな仕事を成したところで、藤本は38歳の若さで20年にわたる現役ラリードライバーとしてのキャリアにピリオドを打ちました。

ANDERSSON

Ove Anderssonオベ・アンダーソン

  • 1938年1月3日生まれ、スウェーデン出身
  • 1971年 FIA国際ラリー自動車メーカー選手権ベストドライバー
  • トヨタ公式チーム在籍期:1972〜2003年

1978年 WRC第5戦 ラリー・ポルトガル

  • PHOTO1978年 WRC第5戦 ラリー・ポルトガル
トヨタのWRC活動を背負い、頂点へ押し上げた巨人

35名を超える当代一流のラリードライバーたちを次々に起用しながら、四半世紀にわたってトヨタのWRC活動を率いたオベ・アンダーソン。彼自身、ラリー・モンテカルロをはじめとするメジャーな国際ラリーで何度も総合優勝を飾ったほどの優れたラリードライバーであったわけですが、そんな名手が国際ラリーでまだ大した実績のなかったトヨタに乗ることになったのは運命的なものでした。

1971年、アンダーソンはアルピーヌのワークスドライバーとして大きな成功を収めていました。しかし、そろそろ30代の半ばになろうとしていた彼は、チームから雇われる立場ではなく、自らのチームを組織して活動を始めようとしていました。一方、その頃のトヨタは、1970年のモンテカルロにおいて第一歩を記したヨーロッパにおけるワークスラリー活動をいよいよ本格化させたいと考えていました。そんな両者の考えを知る人間が、アンダーソンが総合優勝した1971年のモンテカルロで彼のコ・ドライバーを務めたデビッド・ストーンでした。ストーンは当時のトヨタの欧州部(ヨーロッパへのトヨタ車の輸入や車両販売を統括していた部署)とつながりを持っており、同部に対してトヨタの国際ラリー活動の中心的な役割を担う適任者としてアンダーソンを紹介。ここから、彼とトヨタの長い物語が始まりました。

WRCが創設された1973年、トヨタはアンダーソンをドライバーとして4戦のWRCイベントに出場。このうち、当時のトヨタのモータースポーツ技術開発部であった第17技術部(1973年2月に第7技術部から改称)が主体となったトヨタワークスチームによる参戦はアクロポリス・ラリーとRACラリーの2戦で、残るラリー・ポルトガルとオーストリア・アルパイン・ラリーはトヨタのワークスマシンを使いながらアンダーソンが自らの個人チームにより出場したものでした。そして後者の形態が発展して、アンダーソンのチームはトヨタの国際ラリー活動における公式な実働部隊となり、1975年からトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)として活動していくことになったのでした。

TTE設立後しばらくの間、アンダーソンはプレイングマネージャーとしてラリーカーのステアリングを握り続けました。そして、RA40型セリカ 2000GTで出場した1979年のラリー・ポルトガルでは総合3位に入賞。これがラリードライバーとしてアンダーソンがWRCの表彰台に上った最後の一戦となりました。このときすでに40代を迎えていた彼は、1980年のシーズンをもって第一線を退くことを決意。1981年はラリーに出場せず、約2年ぶりにドライバーとして臨んだ1982年10月のアイボリーコースト・ラリーをもって現役を引退しました。

1976年 WRC第10戦 RACラリー/TE27型カローラレビン グループ4ラリーカー

  • PHOTO1976年 WRC第10戦 RACラリー/TE27型カローラレビン グループ4ラリーカー

その後のアンダーソンはTTEのチーム代表の仕事に邁進。日本車メーカー初のWRCタイトル獲得や計8回ものサファリ・ラリー総合優勝など数々の大きな成果を挙げ、計3回(1993年、1994年、1999年)もトヨタをWRCマニュファクチャラー選手権の頂点に押し上げました。また、1998年と1999年に行われたトヨタのル・マン24時間への挑戦を率いたほか、2000年に本格始動したトヨタのF1活動(実戦参加は2002年より)を軌道に乗せるという大きな仕事も果たし、国際モータースポーツの世界におけるトヨタを代表する顔役として活躍を続けました。