Legendary Safari Rally〜伝説のサファリ・ラリー〜 | The WRC Chronicle vol.11

世界で最も過酷なラリーとして知られたサファリ・ラリー。
アフリカの大地を舞台とし、WRCの一戦として
長年開催されていたこの伝説的なイベントの特徴と
そこで計8回も総合優勝を飾ったトヨタの戦いを紹介します。

「サファリ」とは東アフリカ一帯で使われているスワヒリ語で「長い旅」という意味です。そんな言葉を大会名称としたサファリ・ラリーは、文字どおり、壮大な旅のようなラリーでした。初開催は1953年で、以後20年以上にわたり、毎年1回、ケニア、ウガンダ、タンザニアの3カ国をまたぐルートで行われました。1975年大会以降はケニアのみでの開催となりましたが、それでも毎年約5000kmものルートが設けられ、出場者たちは5日間にわたって昼夜を問わず全力で走ることが求められる一戦でした。

1986年 サファリ・ラリー/TA64型トヨタ・セリカ・ツインカムターボ グループBラリーカー(ビヨルン・ワルデガルド)

  • PHOTO1986年 サファリ・ラリー/TA64型トヨタ・セリカ・ツインカムターボ グループBラリーカー(ビヨルン・ワルデガルド)

サファリ・ラリーは、1950年代の後半にはすでにヨーロッパから熱い視線が注がれるイベントとなっていました。その理由は、ひたすら過酷なラリーであることでした。約5000kmのルートの大半は未舗装ながらも一般道として使用されている道路を走るものでしたが、路面の凹凸の激しさや荒れ具合はヨーロッパで開催されているグラベルラリーのコースの比でなく、道路の体裁を成していない区間も至るところにありました。また、ラリーは毎年4月頃の開催で、その時期の東アフリカは雨が降りがち。ひとたび降雨となれば、未舗装の道路の路面は極めて滑りやすい土濘と化すところが多く、さらに「マッドホール」と呼ばれる巨大な泥水溜まりがあちこちに出現。そこにハイスピードのまま突っ込めばサスペンションを壊す可能性があり、だからといって速度が低すぎるとスタックしてしまうという難しさがありました。

1988年 サファリ・ラリー/MA70型スープラ・ターボ グループAラリーカー(ケネス・エリクソン)

  • PHOTO1988年 サファリ・ラリー/MA70型スープラ・ターボ グループAラリーカー(ケネス・エリクソン)

約5000kmのルートのうち、とにかく速く走ることが求められるタイムトライアル区間は2000kmほどでしたが、一般交通は遮断されていませんでした。つまり、地元のクルマやバスや自転車や人が行き交っているところでラリーカーによる全開走行を行うもので、その区間はスペシャルステージではなく「コンペティティブセクション(CS)」と呼ばれました。また、CS以外の約3000kmは移動区間(リエゾン)であったわけですが、1995年までのサファリ・ラリーではここでもラリーカーはほぼ全開で突っ走りました。1995年まではラリーカーへのサービスを行う場所やタイミングが自由であったためで、リエゾンで飛ばせば飛ばすほどサービスの時間を長く取ることができたからでした。

出場するチームには総力戦が求められました。ピークに達したのは1990年代前半で、4台のST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーを投入した1993年大会におけるトヨタ・チーム・ヨーロッパは、200名近くのスタッフと約70台のチーム車両、さらにはヘリコプターやセスナ機を動員。ラリーカーやサービストラック、ヘリなどは、チャーターした大型の輸送機によってヨーロッパからケニアへ運び込んでいました。

1993年 サファリ・ラリー/トヨタ・チーム・ヨーロッパ

  • PHOTO1993年 サファリ・ラリー/トヨタ・チーム・ヨーロッパ

送り込むラリーカーも通常のグラベルラリーとは異なる特別仕様でした。車両の前部には動物との接触による損壊を防ぐためのアニマルバー、Aピラーの付け根付近にはより遠くを照らし出すためのウイングライト、そして先述のマッドホールなどを通過する際にエンジンが泥水を吸い込まないようにするためのシュノーケルなどは、サファリ・ラリーならではの特別装備。車両自体も通常のグラベルラリー仕様より頑丈に作られ、ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカーのサファリ仕様などはフロアパネルを2枚重ねて分厚くした「ダブルスキン」と呼ばれた特別な構造とされていました。

いずれにせよ、あらゆる点において通常のイベントとは過酷さの基準が異なっていたのがサファリ・ラリーでした。その特異な走行条件は、車両の耐久性や走行性能の高さを示す格好の舞台として、数多くの自動車メーカーを惹き付けましたが、とりわけ強い反応を見せたのは日本の自動車メーカーでした。先駆けは日産自動車で、1963年大会からワークス参戦を開始。1966年大会ではP411型ブルーバードにより初のクラス優勝を飾りました。そして、そのときの日産チームの戦いぶりを描いたノンフィクション小説を石原裕次郎の主演により映画化した「栄光への5000キロ」が1969年に公開されると、サファリ・ラリーの名と存在は日本の一般の人々にも広く知られることになりました。

1963年 サファリ・ラリー/P312型 日産 ブルーバード 1200(難波靖治)

  • PHOTO1963年 サファリ・ラリー/P312型 日産 ブルーバード 1200(難波靖治)

1974年大会からは三菱自動車、1980年大会からはスバル、1984年大会からはダイハツがそれぞれアフリカへの挑戦を開始。そうしたサファリ・ラリー参戦日本車メーカーの最後発となったのがトヨタでした。

それまでヨーロッパを主体に国際ラリー活動を行ってきたトヨタにとって、サファリ・ラリーはずっと疎遠なイベントでした。しかし、1983年にデビューさせたTA64型セリカ・ツインカムターボ グループBラリーカーがWRC出場2戦目であったアイボリーコースト・ラリー(コートジボワール)で優勝を飾り、アフリカのラフロードイベントでの大きな可能性を示したことによって、トヨタは明くる1984年のサファリに挑むことを決定。3台のセリカ・ツインカムターボをケニアへ送り込みました。すると、ラリー前半のうちにビヨルン・ワルデガルドのセリカが首位に立ち、強豪たちの追撃を振り切ってフィニッシュ。トヨタはサファリ初出場にして優勝を飾り、それは快挙として大きな喝采を集めることとなったのでした。

1984年 サファリ・ラリー/車上左から、ヘンリー・リドン(チームマネージャー)、ハンス・トーゼリウス(コ・ドライバー)、ビヨルン・ワルデガルド、彼らの前で両手を挙げているのがオベ・アンダーソン(チーム代表)

  • PHOTO1984年 サファリ・ラリー/車上左から、ヘンリー・リドン(チームマネージャー)、ハンス・トーゼリウス(コ・ドライバー)、ビヨルン・ワルデガルド、彼らの前で両手を挙げているのがオベ・アンダーソン(チーム代表)

1985年大会はユハ・カンクネン、1986年大会は再びワルデガルドにより制し、トヨタはセリカ・ツインカムターボでサファリ・ラリー3年連続優勝を成し遂げました。1987年からWRCのトップカテゴリーがグループAになると、同年から1989年までのサファリをトヨタはMA70型スープラで戦い、その間の最高位は1987年大会におけるラルス‐エリク・トルフの3位でした。

1990年大会においてトヨタは初めて4WDターボ車でサファリ・ラリーに挑みましたが、ワルデガルドがまたしても巧者ぶりを発揮して快勝。ST165型セリカ GT-FOURにサファリデビューウィンをもたらしました。1992年大会ではST185型セリカ GT-FOURを初めてサファリに投入し、カルロス・サインツが困難な戦いを制して優勝。1993年大会ではユハ・カンクネン、1994年大会ではイアン・ダンカン、1995年大会では日本人ワークスドライバーの藤本吉郎がそれぞれST185型セリカ GT-FOURを駆って勝利を挙げ、トヨタは4年連続、通算8回目のサファリ総合優勝を手にしました。

1995年 サファリ・ラリー/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー(藤本吉郎)

  • PHOTO1995年 サファリ・ラリー/ST185型セリカ GT-FOUR グループAラリーカー(藤本吉郎)

その後、2年の休止をはさみ、1998年と1999年のサファリ・ラリーにトヨタはカローラ WRCで参戦。優勝には届きませんでしたが、1999年大会ではディディエ・オリオールが2位、サインツが3位に食い込むという結果が残されました。そして同年をもってトヨタはWRC活動を休止。その3年後の2002年大会を最後にサファリはWRCから外れました。大会主催者の経済的な事情が一番の理由でしたが、あらゆる点で現代のWRCの基準から逸脱していたサファリをWRCに留めておくことが困難になってきていたことも確かでした。

なお、2002年大会をもってWRCから外れたところでサファリ・ラリーが終わってしまったわけではありません。その後もサファリはFIAアフリカ・ラリー選手権の一戦として開催され続けています。そして2019年現在、このアフリカンイベントが2020年にWRCへ復帰することが目指されており、ケニア政府もそれを全面的に支援することを約束しています。トヨタのワークスマシンが再びサファリを駆ける光景を近いうちに目にすることができるかもしれません。