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[ビデオ特集] トゥルーリの情熱:ヤルノの全てはここから始まった
2008年9月8日(月)今週末にモンツァで開催されるレースのため、ヤルノ・トゥルーリは母国イタリアへと向かいますが、ただし、彼のルーツであるペスカラはそこから南へ600キロの場所にあります。そして彼のモータースポーツへの情熱はそこから始まったのです。 1974年、イタリアの東海岸に位置する人口10万人を僅かに超える町、ペスカラにて、ヤルノは生まれました。彼の家庭は慎ましいものでした。それから34年後の今、彼はグランプリで1勝を挙げ、そしてパナソニック・トヨタ・レーシングのドライバーとして、F1デビュー以来最高のシーズン(の一つ)と言える1年を過ごしています。 良く知られていることですが、彼はモータースポーツに対しとても情熱的です。彼の世代の面々の中では最速のドライバーの一人と言われていますが、それも間違いではありません。また、ペスカラの歴史を考えると、若き日のヤルノがモータースポーツに魅力を感じたのも不思議なことではないのです。 港町であるペスカラは20世紀前半に最も有名なレースに数えられていたストリートレースの舞台となっていました。全長25.8キロメートルに及ぶそのコースは、世界選手権のグランプリを開催したコースとしては最長でした。1957年に開催されたペスカラ・グランプリでは20万人のファンが見守る中、スターリング・モスが優勝しています。 現在は、ペスカラの田園地帯を望む見事な記念碑がある以外、当時を偲ばせる物はほとんど何もありませんが、ただしかつての記憶が人々から消え去ることはありません。 「この地域のモータースポーツの基盤はかなり強い」と話すヤルノ。「1950年代の頃は、最も重要なレースイベントの一つ、コッパ・エーサーボを開催していた。エンツォ・フェラーリ、ルイジ・ヴィロレッシ、ファン・マヌエル・ファンジオなど、あらゆるドライバーがペスカラでレースしたんだ」 ペスカラはこうした伝統が残る地域でしたから、ノレッジオのカートコースで幼いヤルノがステアリングを握ることになるのも時間の問題でした。彼の父、エンツォが当時を振り返りこう語っています。「最初のカートレースはヤルノが8歳の頃だったね。あのレースは“ジオコ・デラ・ジョヴェンテュ”(ユース世代のゲーム)と呼ばれるプロジェクトの一環だった。彼は準備が不足していたにも関わらず、最初から速かった。カートのこともあまり知らなかったのにね」 ヤルノはすぐにコース上での競争がもたらす興奮と、完璧なラップタイムを追求することに夢中になります。そして何か別のスポーツで他人と競うという考えなど、あっという間に彼の頭から消え去っていました。 ヤルノが説明します。「1週間くらいバスケットボールやサッカーやその他のスポーツをして家に戻ると、いつも家族から“カートよりそっちの新しいスポーツの方が好きか?”と聞かれた。私の答えはずっと同じだったけどね! 最終的に一つ思うのは、自分はカートのレースを選んだんじゃなくて、“選ばれたんだ”ということ。私はそうした(レースへの)情熱と共に生まれてきたんだ、とね」 ヤルノは父のエンツォ、メカニックのディノ・ラ・チョッパと共にワゴン車に乗り、パルマやポンポサやジェセロといった遠方の町までレースに出掛けました。このためペスカラへ戻るには夜通しドライブしなければならないほどでした。彼の父は、ヤルノのカートの野望のために時には仕事を休むこともありました。 若手カートドライバーとしてのヤルノの素質は、現在彼と一緒に仕事をしている人たちにもお馴染みです。ディノはこう説明しています。「彼の父と私は友人だったんだ。それである時、ヤルノがコースでカートを運転し始めてね。彼は最初からカートに夢中だったし、常に向上しようとしていた。自分の年齢でできる最高のことを限界まで完璧にやろうとしていた。まだ8歳か9歳だったけどね。でも彼は14~15歳の男の子みたいにドライブするんだ。とても理性的な頭のいいドライバーだったね」 母国でのカート時代の初期に成功を手にしていたヤルノは、次に世界へと進出します。そして1991年のフォーミュラK世界選手権で優勝。次に1994年のフォーミュラCタイトル、そして最後に1995年のフォーミュラ・スーパーAのタイトルを獲得し、シングルシーターのレースへと卒業しました。 続いてヤルノがドイツF3選手権を制覇すると、F1での長いキャリアが視野に入ってきました。スター街道への最初のステップまで手を貸してきた人々にとって、これは当然ながら大きな誇りを実感できる瞬間となりました。ヤルノの母、フランカはこう語っています。「何よりも彼が人生の夢を叶えたことで、私は満ち足りた気持ちになりましたし、とても感動しました」 では彼の資質のどんな部分が、彼をモータースポーツの頂点へと導く助けになったのでしょう? これを語るのに最適な人物は、共にカート時代を経験し、F1での浮き沈みの全てを体験してきた彼の父、エンツォでしょう。 「彼は決意が固く、頑固なんだ」と打ち明けるエンツォ。「彼は成功のためならどんな犠牲でも払うし、身体のトレーニングに関しては絶対に手を抜いたりしない。1日2時間のトレーニングが必要となれば、きっちり1日2時間こなすんだ。それ以外のことに自分を邪魔させたりもしない。彼にとってはそれが義務であり、とにかく自分がやるべきことをとにかく実行する人間なんだ」 F1で194戦走り、8度の表彰台と1勝を挙げている彼にとって、そういった厳しいトレーニングは確かに意味があるものでした。そして振り返ってみると幸せな思い出も既にたくさんあります。 「もちろんその一つはF1初優勝を飾ったモナコだ。でも今年序盤にトヨタで手にした表彰台も私とチームにとっての素晴らしい思い出だ。あの時はマニクールで3位に入ったんだけど、その前の2年は苦しいシーズンだったからね。チームは私にとても大きなサポートをしてくれていたから、あの時は素晴らしい気持ちだったよ」 1997年のF1デビュー以来、拡大しているのはトロフィーを収めるキャビネットの大きさだけではありません。トゥルーリの家族もまたそうです。ヤルノは2004年にバーバラと結婚し、2005年には最初の息子、エンツォが誕生。更にそれから2年後にはマルコが生まれました。 バーバラはこう話しています。「ヤルノの仕事と彼のプライド、そしてライフタイルをとても誇りに思っています。確かにとても疲れる仕事ですし、常に彼は忙しくしていますが、ただし、もっと楽な人生を送っていたら絶対にあり得ないような状況や感情を体験する機会を手にすることができるのですから」 もちろんエンツォとマルコはまだ幼く、自分たちの人生の選択肢の一つとしてモータースポーツを考えるまでには至っていません。ですが誇り高き父、ヤルノは、若き日の自分が己の才能を証明するために厳しい戦いを強いられた生々しい記憶があるだけに、二人の息子にはモータースポーツをやってほしくないと考えています。 「テニスやゴルフ、バスケットボールとか、何か別のスポーツで競ってもらいたいと願っている」と話すヤルノ。「カートには戻りたくないんだ。私にしてみれば、それはまた最初からスタートし直すことと同じだからね。F1にたどり着くのは本当に大変だった。多くのことを犠牲にしたしね。それにその場合、息子たちは父親の影響の中で生きることになるだろう。それは子どもたちにとっていいことだとは思わない」 若い家族と成功しているワインビジネスを抱えるヤルノですが、当の本人は相変わらず完全にF1に集中しています。それは彼のここまでの戦績を見てみれば分かる通りです。今シーズンここまで1度の表彰台を獲得し、26ポイントを手にしている彼は、母国レース直前の時点で、F1世界選手権7位につけています。 他人から見れば、彼のF1に打ち込む姿勢は普通とはちょっと違うもののように思えるかもしれません。ですが、ヤルノにとってはこれが完全に自然なことなのです。これは、モータースポーツに対する純粋な情熱がもたらした結果なのです。「私の秘密は、まだ達成すべき目標を持っていることだ。私はその目標をあきらめたくはない」と話す彼。「ドライビングに対する情熱、そこで得られる感動、そしてF1に挑戦すること、こうしたことを誰かに奪われたくはない。私は相変わらず高い集中力を保っているし、自分の仕事に打ち込んでいるんだ」 パナソニック・トヨタ・レーシングの中にヤルノのその姿勢を疑っている者は一人もいません。そして今週末に母国で開催されるイタリアGPにて、つまり、彼のモータースポーツ物語が始まった場所から車でわずか数時間のサーキットにて、ヤルノは再びそれを証明しようとしています。
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