レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

222LAP2018.6.27

日本のモータースポーツを支えてきた東名自動車

 木下隆之のレース人生は、36年にも及ぶ。それは、東名自動車の門を叩くことから始まった。モータースポーツ会を牽引し続けてきた東名自動車(現在は東名パワードに改称)は今年、創立50周年を迎えた。その創立記念パーティーには、多くの重鎮が祝福に駆けつけた。

数々の勝利を重ねてきた名門中の名門

「レースをするならば東名で・・・・」
 いまから35年前、僕はこう思って東名自動車の門を叩いた。
 子供の頃から、クルマ好きだった父親とレース番組で目にした日産車の活躍が脳裏に刻まれていたし、耳にした東名自動車の名が鼓膜の中の残響となっていたのだろう。右も左も分からない僕だったがこれだけは迷わず、電話帳をめくり、当時は川崎にあった東名自動車にダイヤルしたのだ。
 電話の先が総務部だったのか受付だったのか、まったく覚えていない。
「あの〜、レースをしたいんです。どうしたらいいでしようか?」
 ただ闇雲に、たしかそんな無謀なお願いをしたのだと思う。
 当時の僕は、レースに参戦するために何をしていいのかまったく知識がなかった。エントリーの仕方やマシンの調達方法はもちろん、レースカテゴリーも勉強していなかった。それこそ富士スピードウェイを走ったこともなかった。ただレースをしたい一心だったのである。
 そんな電話にも、東名自動車のスタッフは快く対応してくれたことで、晴れてレースデビューにこぎつけたのだ。

東名自動車との縁は、一本の電話から始まった。あれから36年。僕の人生を左右した名門チームに感謝したい。

東名自動車との縁は、一本の電話から始まった。あれから36年。僕の人生を左右した名門チームに感謝したい。

広い会場ですら満員御礼。レース界では欠かせない存在であることが伝わってきた。

広い会場ですら満員御礼。レース界では欠かせない存在であることが伝わってきた。

 広大な会場には入りきらんばかりの来賓が祝福に訪れていた。ほとんどレース界の重鎮が集合していた。僕などは小僧っ子も小僧っ子。末席で小さくなっていたのだが、それほど東名自動車がレース界の中心で活躍する存在であることを再確認したのだ。
 会場となった貴賓館のエントランスには、東名自動車の歴史の象徴ともいえる「B110型TSサニー」が展示されていた。その傍らには、TSレース全盛の当時、「東名サニー」の最大のライバルだった「トムス・スターレット」が並ぶという心憎い演出。
 館内に足を運ぶと、東名自動車の華やかな栄光を綴る数々の写真が展示されており、いかに東名自動車がレース業界の中核として貢献してきたかが伝わるような仕掛けになっていた。

会場入り口には、飾りきれないほどの生花が溢れ出ていた。まるでフラワーロードのような列に圧倒された。

会場入り口には、飾りきれないほどの生花が溢れ出ていた。まるでフラワーロードのような列に圧倒された。

レース関係者はもちろんのこと、チーニング業界の幹部も駆けつけ祝賀ムードは最高潮に達した。

レース関係者はもちろんのこと、チューニング業界の幹部も駆けつけ祝賀ムードは最高潮に達した。

まさかの1万回転

 東名自動車は、日本を代表するレーシングチームであり老舗チューナーである。創業は1968年。日産契約ドライバーとして活躍した故・鈴木誠一氏が設立。その後、弟の鈴木修二氏が後を引き継ぐ。国内外のレースで活躍の一方でエンジニアリングにも強みを発揮。エンジンチューナーとしてもシャシーチューナーとしても名を馳せていくのだ。
 東名自動車にまつわる逸話には事欠かない。実際に、祝辞をのべた方々の口からも、次々に武勇伝が披露された。
「東名エンジンは、OHVのプッシュロッドなのに1万回転も回った。その速さは別格だった」
 とは星野一義さんの言葉だ。
「我々のスターレットはDOHC16バルブだったから、最初はサニーよりも4秒も速かった。だけど、それを悔しがった東名が開発を急いだら、さらに4秒も速くしてきたんだ」
 ライバルとして戦ったトムス舘信秀会長はそう逸話を披露した。
 冒頭で紹介したように、「レースを志すならば東名で」の思いは、そんな数々の武勇伝に影響されたからに違いない。

ゼッケン84は東名自動車の栄光番号である。蘇ったTSサニーと、当時バトルを展開したトムス・スターレットがエントランスを彩っていた。

ゼッケン84は東名自動車の栄光番号である。蘇ったTSサニーと、当時バトルを展開したトムス・スターレットがエントランスを彩っていた。

かつて日産契約ドライバーであり活躍した故・鈴木誠一氏の名が今でも記されている。

かつて日産契約ドライバーであり活躍した故・鈴木誠一氏の名が今でも記されている。

OHVのブッシュロッド式エンジンで1万回転まで回したのは東名自動車が初めてだった。

OHVのブッシュロッド式エンジンで1万回転まで回したのは東名自動車が初めてだった。

フレッシュマンからトップフォーミュラまで・・

 冒頭で紹介した幼稚な願いを快く対応してくださったことがきっかけで、僕はレース界に身を置くようになる。東名自動車のアドバイスを受け初参戦した富士フレッシュマンNP1300をスタートに、翌年には富士フレッシュマンNPオープンにスカイラインRSターボで参戦、そこからプロフェッショナルへの道が開け始めた。東名自動車が走らせていたグルーブAスカイラインRSターボから日産エンジンを搭載したF3へとステップアップ。東名自動車は日産のファクトリーチームだったこともあり、その後ニスモ契約ドライバーとなっていく。僕をプロドライパーへ誘ってくれたのは、間違いなく東名自動車だったのだ。
 メカニックは厳しく僕を指導した。鈴木社長は優しくも、鋭い言葉を静かに口にする人で、多くを語らずにアドバイスをしてくれた。
「勝たなきゃダメだよ」
 そんな正論が僕を刺激したのだ。

歴代の東名ドライバーの写真が飾られていた。そこに僕の名があるのは誇らしい。

歴代の東名ドライバーの写真が飾られていた。そこに僕の名があるのは誇らしい。

日産が東名自動車に開発を委託したCA18D型F3エンジン。

日産が東名自動車に開発を委託したCA18D型F3エンジン。

CA18Dエンジンで戦ったドライバーも紹介されていた。僕をプロへと導いてくれたのが東名自動車であったこと実感する。

CA18Dエンジンで戦ったドライバーも紹介されていた。僕をプロへと導いてくれたのが東名自動車であったこと実感する。

 創立50周年記念の席で改めて歴史を振り返ってみると、多くのトップドライバーがどこかで東名自動車の力を借りていることがわかる。
 僕のようにダイレクトに東名自動車のマシンに乗って戦ったドライバーはもちろんのこと、高性能な東名エンジンを手に入れて勝利したドライバーも数知れない。日産エンジンだけでなく、トップフォーミュラやスーパーGTのエンジンも東名門下が手掛けている。ピストンやカムシャフトの研磨も一級品だから、どこかに必ず東名自動車の製品が含まれているはず。というように、間接的であっても東名自動車に助けられているドライバーを数えれば、それはほとんど日本のドライバー人口と一致するのではないかとさえ思うのだ。

東名自動車のF2エンジンも、驚くほど高回転まで回った。数々の全日本チャンピオンを輩出している。

東名自動車のF2エンジンも、驚くほど高回転まで回った。数々の全日本チャンピオンを輩出している。

アドバンカラーのF2もGCも東名自動車が走らせた。

アドバンカラーのF2もGCも東名自動車が走らせた。

東名自動車の歴史を写真で振り返ると、時間が過ぎるのを忘れてしまう。

東名自動車の歴史を写真で振り返ると、時間が過ぎるのを忘れてしまう。

日本のモータースポーツ黎明期には、アメリカンモータースポーツのストックカーでも活躍した。

日本のモータースポーツ黎明期には、アメリカンモータースポーツのストックカーでも活躍した。

創立者の鈴木誠一氏は、第2回日本グランプリでも表彰台に立っている。

創立者の鈴木誠一氏は、第2回日本グランプリでも表彰台に立っている。

久しぶりの再会となった鈴木修二代表取締役会長兼社長は、いまでも若々しい。兄である故・鈴木誠一氏と同じく優しくも、鋭い言葉でアドバイスをくれる人である。

久しぶりの再会となった鈴木修二代表取締役会長兼社長は、いまでも若々しい。兄である故・鈴木誠一氏と同じく優しくも、鋭い言葉でアドバイスをくれる人である。

 日本のレースは東名自動車を抜きには語れない。僕の人生も東名なくしてありえなかった。そんなレーシングチームが50周年を迎え、さらに躍進しようとしていることを誇りに思う。

キノシタの近況

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 TOYOTA GAZOO Racing「ル・マン24時間レース優勝」をJスポーツ解説や台場MEGA WEBのパブリックビューイングで応援していました。圧勝のレース。見えない敵と戦うのは厳しかったに違いない。ともあれ、夜中にこうしてみんなでワイワイガヤガヤするのは楽しいね。