246LAP2019.6.26
1000分の1秒を争うモータースポーツが採点競技になる日
最近のレースでは、勝敗のすべてが審査委員のジャッジに委ねられる傾向にある。4輪脱輪、プッシング、走路妨害、白線カット…。正確な裁定のために「審議中」となるのだ。それはそれで正しいのかもしれないが、そこに忖度や裁量が介在してはいないか? だとするとそれは、自らが理想とするモータースポーツの姿ではない。そう木下隆之は考えるという。モータースポーツは、採点競技なのか否か。今一度考えてみたい。
審議中…
レーシングドライバーとして、あるいはレース解説者として、レース展開を把握するためにラップモニターは欠かせないツールである。走行中の順位はもちろんのこと、各車のラップタイムや周回数などの様々なデータは、リアルタイムでのデジタル表示がなければレース戦略を立てることは困難だし、展開を予想することも難しい。サインガードでレースを見守るチーム首脳陣が、ラップモニターに釘づけになっているのはそのためだ。
最近は、そんなモニターの下段に表示される文言に一喜一憂することが少なくない。レース中のアクシデントや4輪脱輪などのペナルティ対象案件が、ゴチャゴチャと公開されるからである。
「ゼッケン○○、スタート手順違反でドライブスルーのペナルティ」
「ゼッケン▲▲、セーフティーカー中のスピンにより10秒のピットストップ」
といった具合。ペナルティ対象案件に対しての裁定が表示されるのだ。
「ゼッケン○○、規則書H項義務違反」
「ゼッケン○○とゼッケン▲▲、レース中の接触に関して審議中」
H項には様々な規定が組み込まれているから詳細は不明だが、何らかの違反をしたことだけは判断できる。
「審議中」とは、コントロールタワーにある競技委員室で、ポスト員への聞き取りや録画映像を繰り返し確認しながら、違反か否かを議論しているということなのだろう。
最近感じるのは、この「審議中」を頻繁に見ることだ。レース中に起こった出来事を、多くの審査委員たちが録画映像で確認しながら正しい判断をすることは、誤審を防ぐために有効ではある。だだ、ちょっと多くない? せっかくのレースに水を差すなあ~、と感じるのも事実。コンマ1秒という瞬間的な時の流れが、重要なレースを興醒めさせる。もっとアップテンポにならないものかと憂う。
6月初旬、F1グランプリ第4戦カナダGPでは、S・ベッテルの走行が審議対象になり、結果として+5秒のペナルティとなった。ターン10でオーバーランしたベッテルがコース上に戻る際、背後を走行していたハミルトンの進路を強引に塞いだという。
その裁定が正しかったか否かをここで論じるつもりはないが、気になるのは、それが審議対象になり、裁定が下されるまでに時間を要したことだ。結果的にベッテルのペナルティが発表されたのは、レースの終盤、ゴール数周前である。
それによって、ベッテルが優勝するためには、背後のハミルトンに対して5秒以上のアドバンテージを築く必要があった。その攻防はスリリングだったし、裁定に対して不満を叫ぶベッテルとそれを宥めようとするチーム監督との無線交信が僕らを興奮させたのは事実だが、裁定を待つ時間にはじらされた。
それは、解説陣のコメントにも表れていた。
「もしあれがペナルティと言うのならば、ベッテルはペースアップする必要がありますね」
「もしあれがペナルティではないと言うのならば、ベッテルはこのままのペースでいいですよね」
「もしあれがペナルティと言うのならば、ハミントンは有利になります」
「もしあれがペナルティではないと言うのならば、ベッテルは一気に不利になります」
「もし」の連発に、コメントの切れも悪い。ましてやコース上を走る当事者たちは、どんな気持ちで走っていいのか苦悩したことだろう。
一方で、裁定如何によりレースが急展開する恐ろしさを感じた。全権を人の判断に委ねることの虚しさを感じた。
「えっ、俺たちがやっているレースは、裁定競技だっけ?」
実はこのレースを、数人のレース仲間とテレビで観戦していた。その中のひとりが寂しげにそう呟いたのだ。
スポーツである以上ルールを犯してはならない。ルール違反は厳格に裁かれるべきだ。微妙なプレーには、正しい裁定が下されるまでに時間が必要なことも理解する。だからここでは、競技長の判断云々を論じるものではないが、どこか釈然としないのは、人間が目で見て判断してジャッジするには、サーキットは広大すぎるし時間の流れは短すぎるということだ。人の主観に左右されることは、レースの本質との隔たりを感じる。論調の核心は「レースは採点競技なのか否かだ」。
ただただ速く走ればいいのか…
僕がレースを志した理由の一つは、問答無用にタイムがすべての世界だと信じたからである。
たとえば陸上の100m走がそうであるように、人間の感情が介在しない領域で順位が決定する。審査員に媚びずとも、どれほど素行に問題があろうとも、速いことが正義だ。
コースが白線でセパレートしていることも、100m走を純粋無垢のアスリート競技とさせている理由だ。誰にも邪魔されず、誰も成績をコントロールすることができない。ただただ、己の肉体だけで速く走ればいいのである。転んでもいい。逆立ちしても、ヘラヘラ笑っていても、世界の誰よりも速く走れば世界チャンピオンなのである。
その意味では、新生「アーティスティックスイミング(旧シンクロナイズドスイミング)はどこか物悲しい。多くのシンクロファンには申し訳ないが、採点色が強すぎることが、アスリートのイメージと合致しないのだ。
驚くほどの身体能力がなければ、あれほどの、まるで水面を歩くかのような演技ができるはずがない。人間は昔、人魚ではなかったのかと思うほど演技は素晴らしい。だが、溢れるほどの作り笑顔で入場し、審査員たちに最大限の会釈をする。実際の演技はほとんどが水の中だ。だが、ジャッジは人間がする。主観が加味される。それも含めてアーティスティックスイミングなのだろうし、それを承知で努力している方にはどうでもいいことなのだろうが、スポーツとして捉えた場合に、僕としては「どうなの?」と首をかしげたくなる。
フィギュアスケーターはアスリートなのかアーティストなのか、悩むことがある。技の難易度や演技の時間などが厳格に決められている。だが、芸術点という項目がある。
テレビ解説者が、「曲の選択が良いですね」」と言い、「表情に感情がこもっていますから加点対象ですね」と解説する。どんな走法でも速ければいい100m走とはあきらかに種類が異なるのだ。
数年前、熊川哲也氏率いるKバレエカンパニーの公演に通っていた時期があった。というのは、さすがの彼も、いずれジャンプやターンのキレが薄れてくるはずだ。だったら、まるで重力を失ったかのように空中を優雅に舞う彼の演技を、いまこそこの目に焼き付けておこうと思ったからである。
クラシックバレエは、スポーツではない。それが証拠に、順位がつかない。勝者も敗者もない。芸術である。熊川哲也氏はアスリートのような身体能力があるがアスリートではない。ダンサーなのだ。
閑話休題
審査委員の裁定を待つ間に、レーシングマシンは何十キロという距離を走ってしまう。裁定が下されるまでに、命をかけた接近戦が何度となく繰り返される。だというのに、審議中の時間はあまりにも長すぎて興が醒める。
一方で、審査員に媚びずに、速さだけが正義であるモータースポーツが汚され始めるのではないかとの懸念も残る。スーパーGTのジャッジの速さと正確さは、世界一だと思う。ル・マンのペナルティ判断も、迅速で的確だったと思う。審議時間が長い世界のメジャーレースは、日本にきて何かを学ぶ必要があるのかもしれない。モータースポーツには媚びや忖度が介在しない、真のアスリートの競技であってほしい。
撮影:三橋仁明/N-RAK PHOTO AGENCY
キノシタの近況
ブランパンGTワールドチャレンジ・アジア鈴鹿戦は、2レースともポールゲット。だけど、第一レースは残念にもビリ、第二レースは雪辱のぶっちぎり。ペースカーラッキーを利用して全車周回遅れにしてやった。気分良く次選に富士に挑めます。