252LAP2019.9.25
古内亀治朗商店の看板を背負ったからこそ、今がある
FJ1600の世界に夢を求めた木下隆之は、タイヤも購入できないほど資金不足に喘いでいた。レースに挑むガソリン代にも苦労していたのである。だが、そんな下積み時代に、アポなしで飛び込んだある企業に救われたという。人との出会いが人生を左右する。レースを諦めようと悩んでいた木下隆之を救ってくれた恩人に、34年ぶりに再会することになった。
FJ1600に将来を掛けて…
僕がまだ、未来のプロレーシングドライバーを夢見ていた頃のできごとである。
富士フレッシュマンレースの勝利で気を良くした僕は、本格的なフォーミュラレースで腕試しをしようと思い立ち、筑波FJ1600シリーズへの挑戦を計画した。本格的なレーシングカーに、プロへの夢を託してみることにしたのだ。迷うことはなかった。
FJ1600はシングルシーターであり、パイプを組み合わせただけのスペースフレーム構造である。スバル製の水平対向4気筒エンジンをミッドに搭載していた。ミッションはノーマルのそれをそのまま流用、爆発的なパワーを発揮するワケではないが、走りはフォーミュラそのものだった。強烈なダウンフォースを発生するウイングこそ持たなかったが、それだけにコントロールスキルを学ぶには最適だとされていた。
さすがに、筑波FJ1600からプロへと巣立っていったドライバーは少なかった。それもそのはず、上位カテゴリーは、才能豊かなドライバーがフルグリッドで埋まっている。その間隙に割って入るのは困難なことだった。それでも、FJ1600シリーズは国内各地で開催されており、数多くのコンストラクターが性能を競う。つまり、それだけプロを夢みる才能がうごめいていたし、モータースポーツビジネスとして成立していたのだと思う。
若手の登竜門として認知されており、熾烈な戦いが日々繰り返されていた。FJ1600の上位カテゴリーが全日本F3選手権であり、そのすぐ上に全日本F2選手権があった。筑波FJ1600で勝利し、次のカテゴリーであるF3にステップアップするというプロへの道筋を求めて、僕はこの世界に身を投じることにしたのである。
とはいっても、FJ1600に関する情報も知識も、ましてやルートを導いてくれる関係者も知らなかった。モータースボーツ専門誌に掲載されていたFJ1600の関する記事を読み漁りながら、マシンを販売する金子レーシングをつきとめ、ガレージを訪問した。
「マシンを売って下さい」
「スポンサーは?」
「ありません」
「それは厳しいね」
確かそんなやりとりがあったと思う。
思い立ったら闇雲に突き進む。僕の性格が猪の突進に似ていると自覚したのは、小学生の頃だ。当時まだ25歳だった僕が思慮深く、綿密な計画を整えてから歩み出すわけがない。
そう、僕はもう、プロドライバーを夢みるにはけして若くない25歳になっていた。大学時代の体育会自動車部での活動をモータースポーツキャリアに含めるのならば、すでに7年の経験があるといえなくもないのだが、本格的なレースは社会人になってからという無謀な挑戦ともいえるわけだ。
資金的に余裕があろうはずもなく、当時勤めていた会社からの薄給でローンを組んだ。型落ちの中古マシンを手に入れたのである。日進月歩で性能が向上するモーターレーシングの世界で、型落ちマシンが性能に劣ることすらそのときの僕には考えが及ばなかった。目の前にフォーミュラマシンがある。ローンの契約書にハンコを押しさえすれば、夢の扉が開ける。その扉の先には、プロへの階段があるはずだ。そう思った僕が、猪突猛進を制御できるほど冷静であるはずもない。 晴れて僕は、2年落ちの「マキシム34」を手に入れた。
資金難に喘ぎながら…
晴れてマシンを手にしても、活動費がまったくなかった。給料のほとんどがレース資金に消えていった。タイヤを交換する十字レンチもなければ、サインボードもない。レーシングタイヤを購入する資金さえ工面することができなかった。ましてやレーシングチームにマシンメンテナンスを依頼する資金などなかった。
それでも僕は頻繁に表彰台に立つことになるのだが、入賞者に課せられるレース後の再車検が受けられない。不正の有無を調べるためにシリンダーヘッドを開けねばならなかったし、燃料を抜くように指示されることがあったが、その方法が分からない。シリンダーヘッドを開けるにはプロのメカニックが必要だった。だがその予算はない。優勝ではなく、2位や3位だったら入賞などしないほうがいい。本気でそう思っていたほどの金欠を患っていた。
実は僕は1年間、購入した中古マシンに装着されていたそのタイヤただ1セットで戦いつづけた。
当時の筑波FJ1600は、オーガナイザーが指定した溝つきタイヤの装着が義務付けられていた。タイヤだから走行を繰り返せば摩耗する。シーズン後半には、もはやタイヤは磨り減っており、雨でも降ろうものなら戦闘力は格段に低下した。それでもそのタイヤで闘うしか、手段を持ち合わせていなかったのである。新品タイヤを購入する算がなかったからだ。
資金が欲しい。スポンサーが欲しい。タイヤだけでも入れ替えたい。僕の夢に力を貸してくれる理解者がほしい。僕は日々念仏のように唱えながら、ひたすら資金集めに奔走した。
ラップタイムを計測するストップウォッチが必要だったから、時計メーカーに商品提供をお願いした。紙袋いっぱいの10円玉を握りしめて電話ボックスに閉じこもる。そこで電話帳のアイウエオ順に、片っ端から企業に連絡をとりまくった。ひたすらかけ続けた。ボックスのガラスが汗と息で曇ってきてもまだ諦めなかった。
なんの計画性もないから、そのうちの99%はけんもほろろに断わられる。情けなくて涙が流れた。(その顛末198LAPで紹介している)
何かが木下隆之を引き寄せた…
そんな日々を過ごしていたある日、東京・新宿の、たしか山手通りを走行していたときに、僕の目はある店に吸い寄せられた。日本建築のような、古風な店構えをしており、街道に面してガラス張りの建物であった。そこにはあきらかに不自然に、フォーミュラマシンが飾ってあったのである。
「?」
大都会東京のど真ん中に、シングルシーターのレーシングマシンが展示してあることが僕の目を引いた。たしかFL500だったと思う。前後にウイングが装着されており、僕がのるFJ1600より遥かに本格的な雰囲気がした。
「レーシングショップなのか?」
屋号は「古内亀治郎商店」とあった。(※古内亀治郎商店はのちに古内亀治朗商店に改名)
気が付いた時にはすでに、僕はその店に飛び込んでいた。店には「スッポンエキス」と印字された夥しい数の缶詰が並んでいた。
「スッポン屋さん!」
ほどなくしてあらわれた店員の方にこう叫んだ。
「あの〜、僕、レースをしています。スポンサーになってください」
どんな業種なのか調べもせずに飛び込んだ。レーシングマシンが展示してあるのだから、少なからずモーターレーシングに興味があるのだろうと、一縷の望みにすがり付いたのだ。その無知さと無謀さを思い出すと、今でも顔が赤くなる。
だが、世の中は不思議なことが起こるものである。社会的な常識のない若僧の不躾な訪問に対して、スタッフの方が快く社長に取り次いでくれた。そして社長は、身の上話を聞くように熱心に僕の話に耳を傾けてくれた。1滴のガソリンすら不足していることや、タイヤを購入する資金もないことに、一つ一つ相づちを打ちながら聞いてくれたのである。
そして最後に、僕にこう言って送り出してくれた。
「それではタイヤ代の足しにしてください。それから、うちの商品であるスッポンスープをさしあげます。これを飲んで頑張ってください。プロになってくださいね」
茶封筒に、現金が入っていた。
古内亀治朗商店は、設立1901年と歴史は長い。輸入業であり、健康食品、骨とう品から不動産業、山林管理と業態は様々に展開している。僕がその中の、健康食品である「スッポンスープ」と活動資金をプレゼントされたのである。将来のレーシングドライバーを夢見る25歳には、パワーの源になるスッポンスープは都合がいい。頂いたお金で僕はタイヤを購入した。
新品のタイヤを購入した次のレースでは、雨が降った。
34年前の奇蹟が再び…
あれから34年。あの時、タイヤ代としていただいた資金で僕はレースを続けることができ、そしてその後、夢が叶いF3にステップアップできた。その後も多くの心暖まる理解者に恵まれ、いつしかプロドライバーになっていた。
FJ1600の活動が認められ、日産自動車の契約ドライバーになり、数々の全日本レースで勝利を積み重ねることができた。そして今でもこうして現役でレースをすることができている。それは貧乏なFJ1600ドライバーだった若い僕に協賛してくれた、古内亀治朗商店の社長のあの言葉と、協賛金があったからだと感謝しているのだ。
そして実は、僕はこのコラムを書くにあたり、古内亀治郎社長に会い、一言だけでも当時の御礼を口にできないかと考えた。
あれから34年。あの時と同じように僕は、古内亀治朗商店に電話を掛けてみた。あの時と違ったのは、10円硬貨を抱ながら電話ボックスにこもる必要はなく、事務所のPCを叩けば連絡先が検索できたことだけである。そのほかのことは、当時とまったく変わらなかった。
突然電話をし、電話をした理由を説明した。すると、対応に出でくれた事務員の方が、34年前と同じように奇跡的に社長に取り次いでくれたのだ。
「もしもし、さてなんでしょう…」
社長の太くい懐かしい声が響いた。
あきらかに警戒されている様子だったが、これまでの経緯を説明しているうちに会話は柔和になり、ついには社長室に御目通りすることが許されたのだ。34年前と同じような奇跡が起こったのである。
御尊顔は、かくしゃくとしていた。そうかそうかと笑顔でうなずきながら、僕の要約した35年の経緯を丁寧に聞いてくれたのだ。
あの時資金提供していただきタイヤを購入した次のレースで雨が降ったことや、F3のステップアップに感謝していることや、今までレースを続けてこられたのはあのサポートがあったからだと、いつになく饒舌に正直な思いを告げる僕の話に、当時と同じように優しく耳を傾けて笑う。
「ところで、あの頃ショーウインドーに展示してあったマシンはどうされていますか?」僕はそう聞いてみた。
「もちろん、福島の本社に保管していますよ」
僕を惹きつけたFL500はまだ存在していたのだ。
そしてあの時と同じように、古内亀治朗商店の「スッポンスープ」をプレゼントしてくれた。
「元気がつきますよ。また遊びにきてくださいね」
もう僕には次の言葉がなかった。
僕は、人の優しさだけでこれまでレースを続けてこられている。その最初の一歩が、古内亀治郎社長との出会いだったのかも知れないと思うことがある。人生はすべて縁なのである。
一方で、人生は奇蹟の積み重ねだと思うことがある。明日のレース出場すら怪しかったあの頃、偶然にも見かけたFL500に引き寄せられたことでレース活動が終わらなかったのだ。奇跡ってほんとうにあるのだと思わざるを得ない…。
キノシタの近況
台風が過ぎ去った爽やかなある日、歴代のモンキーライダー達と湘南ツーリングを敢行した。と言っても初代モンキーの航続可能距離は短いから、由比ガ浜を半往復するだけなのだが、それでも楽しい。走っているときよりも止まって眺めているときの方が楽しい乗り物って、何だか素敵だね。