レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

277LAP2020.10.7

サーキットコミュニケーション豊かなドライバー達

ドライバーは孤独である。一旦コース上に送り出されたら、頼れるのは自分のドライビングだけだ。ゴールするまで、あるいはピットに帰還するまでは、すべてを自らのスキルで整えなければならない。しかし、そんな孤独のドライバーにも安らぐ瞬間があるという。コース上でコミュニケーションを取る手段があるらしいのだ。様々な経験を重ねてきた木下隆之が、三人の猛者を語る。渡辺明、福山英朗、そして佐藤久実である。

抜き去ろうとしたその時…

あるシーズンのことだった。僕はスーパー耐久シリーズに参戦しており、ツインリンクもてぎで数々のライバルと格闘していた。我が愛機はランサー・エボリューションである。マシンのコンディションは絶好調でラップタイムも悪くない。後続を引き離しにかかっていた。
快調に飛ばしていたある周のこと、高速S字区間直後の90度コーナーを立ち上がりフル加速、ヘアピンを前にブレーキングを開始、3クラスのシビックRのインにノーズをねじ込みパスしようとした。
その時、見慣れない光景が目に入った。
ブレーキングを開始し、シビックの右側に並びかけようとしたその時、シビックの右の窓から二の腕がにょっきりと突き出てきたのだ。そして手の指がちょこちょこと動いた。それはまるで子犬をあやすように、あるいは何かを制するようにちょんちょんと上下動したのである。
「はっ」
シビックに乗るそのドライバーは、ブレーキングでシビックを抜き去ろうとした僕を制した。
「待て、待て」
僕にはそう聞こえたような気がした。
僕はパッシングすることを中断した。伸びた手が一瞬の戸惑いを誘い、ブレーキングを躊躇したことで、抜き去るタイミングを失ったのだ。すごすごとシビックの背後に回り黙って追走するしか方法がなかった。
僕は、シビックの背後でヘアピンを曲り終えた。するとまた、シビックの窓から手が伸びた。そして今度は人差し指を立てている。そしてその人差し指はふたたびちょんちょんと動き、進路を差した。
「行け、行け」
ブレーキングで躊躇したことへの褒美のように、先に行っていいよとの合図をよこしたのである。僕にはまるで軍隊の上官が部下へ指示するかのように、「行ってよ〜し」と聞こえたのだった。
そのシビックのドライバーは渡辺明先輩だった。
「きんちゃん、そこで飛び込んだってダメなんだよ。並んで入ったって、オレはアウトから並びかけるからね。二人とも失速しちゃうんだからさぁ。ちょっと待てばいいんだよ」 
レース後にそう諭されたのである。

酷暑の中のねぎらい

真夏の熱いレースでのこと。ふたたびスーパー耐久シリーズのツインリンクもてぎ戦である。
やはり僕は2クラスのランサー・エボリューションを走らせていた。真夏のレースであり、日本列島は酷暑にさらされていた。オーバルコースに囲まれたもてぎは、すり鉢上の立地だから風が流れない。熱せられた空気はどんよりとサーキットに漂い、寒暖計が指し示す数字以上に暑さを感じていた。ドライバーは焼けるようなマシンの中で格闘していた。
ある周のこと、メインストレートを通過しているその時、背後から速さで勝るスカイラインGT-Rが迫ってきた。福山英朗先輩がドライブしていることは、バックミラー越しでも、ヘルメットのカラーリングで知ることができた。
スカイラインGT-Rが僕の右サイドに並びかけてきた。
福山先輩が僕に視線をチラリとよこすであろうことは想像がついた。というのも、コース上で出会うたびに僕らはコミュニケーションをとってきていたからだ。手をかざして合図をしたり、ウインカーを点灯させたり、その時々に相応しい方法で、お互いの意思疎通をはかっていたのだ。
だがその時、僕は福山先輩に視線を送らないでいた。その代わりに、掌を扇子のように広げ、まるで夏の日差しに耐えかねて微風で涼を得ようとするように、顔を仰ぐようにした。暑さを表現することで健闘を称えようと考えたのだ。福山先輩が、ニヤッと頬を緩めて笑顔になるのを想像した。
そして僕らは並走のまま右90度の1コーナーに進入。イン側の福山先輩はややマシンをアウト側に振った。僕はそのインにノーズをねじ込むような仕草をした。ラインをクロスさせたのは、スカイラインGT-Rをパスするつもりではない。福山先輩の表情を、サイドミラー越しに確認しようとしたのだ。
するとその時…。
福山先輩の右手が窓から伸びた。そしてその手には、暑さ対策としてスカイラインGT-Rの車内に外気を導くための蛇腹のダクトが握られていたのだ。そしてそのダクトの出口を僕のマシンに向けた。
「そんなに暑いのなら、風をあててあげようか?」
そう言いたげなアクションである。自らの顔なり体に風を当てるためのホースを、僕に向けてくれたのである。
僕の頬が緩んだのは言うまでもない。

後日談がある。
「あの時、蛇腹のダクトを向けたでしょ。じつはあれ、ドアにタイラップで固定されていたんだよ。それを引きちぎったから、そのあとずっとレースが終わるまで、コクピットの中でホースが暴れ回っていたんだ」
まさに大蛇のようにクネっていたのだという。
猛暑の中で、気を失いかける寸前の辛さで耐えていた僕の気持ちは、ちょっとだけ安らいだ。

最近は、コース上でそんなコミュニケーションをとる機会が減ったように思う。バケットシートはハイバックタイプになり、頭部保護のためにサイドまで大きく迫り出している。そのため、並走するドライバーを確認することすらままならないのだ。
GT3やGT4マシンは、開発の段階からウィンドウがはめ殺しである。渡辺先輩や福山先輩のように、手を掲げて指示をしたり、蛇腹のホースで遊んだりすることができなくなった。ハンスシステムで首の自由が奪われているから、アイコンタクトすら不可能である。
そもそも、そんな余裕のあるドライバーが減ったようにも思う。けして遊びで戯れているわけではない。真剣勝負の世界ではある。実際にそのレースで渡辺先輩も福山先輩も、それぞれのクラスで勝利している。重ねて自慢させてもらえば、僕のそのレースで勝っているのだ。それでもレース中の戦うドライバーだけがライブで通じ合う感情がある。そしてそれを楽しんでいるのだ。

深夜のグリーンヘルでのラブメッセージ

ある年のこと、TOYOTA GAZOO Racingは数台のマシンをニュルブルクリンク24時間レースに投入しており、佐藤久実さんはその中の一台である「CH-R」をドライブしていた。僕は「レクサスLFA」のドライバーとして起用されていた。
マシンの速さは大きく違ったから、長い24時間レースではたびたびコース上で遭遇する。
コース上でチームメイトに遭遇すると、僕らは嬉しくなる。はるか極東の島国からツーリングカーの聖地であるニュルブルクリンクまで遠征してきており、周りは目の青い西洋人ばかりである。アウェイ感が漂っており、どこか心細くもある。そんな心理状態の中、コース上で接近することで特別な感情が芽生える。一旦ピットから送り出されたら、1時間30分なり2時間なり、次のルーティーンまでは帰還が許されない。コクピットの中、たったひとりで悪魔のグリーンヘルと格闘しなければならない。そんな時、チームメイトとの出会いは唯一の安らぎなのである。お互い、労を労いたくなるものなのだ。
「みんな抜いて行ったあとに合図をよこしてくれるのよ。それが嬉しくてね」
佐藤久実さんはそう語った。
「その合図にも個性があるのよね」
僕らはレクサスLFAで疾走しており、佐藤久実さんはC-HRで戦っていた。
「章はね、抜いたあとハザードを焚いてくれたわ」
飯田章はオレンジのライトを点滅させて、佐藤久実さんの健闘を称えたという。
「寿一はね、激しく蛇行して行ったわ」
脇阪寿一はパスした直後、激しくマシンを振ったのだそうだ。
「そんな余裕があったら、さっさと行きなさいよって思ったわ」
そう言いながらも、満更でもなさそうである。
「それからアニキ、レース中に告白しないでよね」
そういって笑う。
「だって、ブレーキランプを5回点滅させたのよ。笑って走りに集中できなかったわよ」
ブレーキランプ5回点滅は、ドリカム「未来予想図II」の歌詞にある。♪ブレーキランプ5回は~~~~♪と…。
漆黒のグリーンヘルに、赤いテールランプが点滅する様子を想像して嬉しくなった。ささやかなコミュニケーションがチームメイトの絆を強くする。その年のTOYOTA GAZOO Racingのテーマは「絆」だった。

ちなみに、渡辺明先輩は現在、スーパーGTのFRO(ファースト・レスキュー・オペレーション)のドライバーという立場で、レースの安全をサポートしている。
福山英朗先輩はスーパー耐久シリーズで「STO公認アドバイザリー・ドライバー」の要職につき、レーシングドライバーのマナー講師や安全指導をしている。鈴鹿サーキット「チャレンジクラブ」のアドバイザーも務め多忙だ。
佐藤久実さんはNetz Cup Vitz Raceで「レースディレクター」を務め、マナー講師などで忙しい。 そのVitz Raceのコンセプトを引き継いだ、新たなワンメイクレースシリーズ、「Yaris Cup」が2021年から開催される。年々人気が増しており、そこから巣立ったドライバーが別のカテゴリーでも活躍している。いわば佐藤久実が育てた愛弟子たちが、そこで学んだスキルを生かしているのだ。
それぞれ自らのレースを戦いながら、自らのスキルや経験を後進に伝えるポジションを担っている。数々の修羅場をくぐり抜け、厚い人望を得た人にしか務まらない。レース中に余裕がありレースそのものをコントロールしながらも、ドライバーの感情を理解する。そうしながら勝つ。そんな彼らがレースの重要なポストに就任し、安全でかつ魅力的なレースマネージメントに奔走していることと無縁ではあるまい。

キノシタの近況

スーパーGT第5戦からようやく無観客レースから脱却。多くのファンがグランドスタンドから見守る中、熱いレースが繰り広げられた。やっぱりこうじゃなければね。そして今週末はスーパー耐久です。応援よろしくお願いします。