レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

286LAP2021.2.24

透明なレーシングカー

昨年の9月、京セラが興味深いコンセプトカーを発表した。「Moeye(モアイ)」と名付けられたそのクルマの特徴は、いわばスケルトンボディ。乗員が透明のカプセルに乗っているかのように、目の前が透けて見えるというのだ。
レーシングマシンがスケルトンになったのならば、どれだけバトルが有利になるか、かつて先進技術のレーシングマシン投入を企画した木下隆之が語る。

ダッシュボードが消える

京セラがスケルトンボディを開発したとの報道を目にして、思わず腰をあげた。直感的に、レーシングマシンへの応用を想像したのである。
京セラが開発したコンセプトカー「モアイ」をわかりやすく表現すれば、「スケルトンボディ」ということになるのかもしれない。塗装前のプラモデルのような、いわゆる透明のアクリルで形成したモデルではない。強度や剛性を無視するのならば、樹脂製のスケルトンモデルを形にすることは可能だが、それでは走るクルマにはならない。京セラのモアイは、そのダッシュボードにカメラで撮影した前方の映像を投影、あたかもボディが素通しになったかのような錯覚に陥るのだ。スケルトンボディとはそのことだ。
フロントガラスからは、実像を目にすることができる。だが本来、ダッシュボードやAピラーや、あるいはその先にはエンジンやパンパーなどがあるから、ダッシュボードから先を人間は見通すことかできない。そこに3D映像を投射することで、ダッシュボードがスケルトンになったかのように映るのだ。
フロントガラスの中の実像と投影した映像の繋がりが、自然になるように細工されている。だから、まさにスケルトンボディをドライブしている感覚になると言う。京セラが得意とする「光学迷彩技術」の応用だ。
人間の視覚、触覚、聴覚、嗅覚を刺激する京セラ独自のデバイスを複雑に絡ませることで、乗員からの目線では死角のないクルマを運転している感覚になるのである。

死角だらけのレーシングマシン

レーシングマシンは死角が多い。コックピットはまるでジャングルジムのように複雑にパイプが絡み合っており、ホースや配線やパイプなど、視界を遮る夥しい数の部材で構成されている。ドライバーはその僅かな隙間を頼りに周囲を判断するのだ。
そもそも、ドライバーの着座点は低い。まるでフロアに直接腰掛けているのではないかと疑いたくなるほど視点は低いのだ。ドライバーの体重ですら低く搭載することで重心点を限りなく下げたいがための細工だが、それが視界を極端に悪化させている。
ボンネットの先などまったく目が届かない。はるか数十メートル先の、つまり、数秒前に目にした残像を頼りに走行している感覚なのだ。それでも、数センチの狂いもなく追走することもあるのだから、ドライバーの感覚は秀でていると思える。
特にコーナリングの視界は最悪である。いわゆるクリッピングポイントであるエイペックスを確認することは困難を極める。昨年まで僕がドライブしていたBMWM4GT4は左ハンドルだったこともあり、左クウォーターサイドの視界は絶望的だった。サイドミラーが邪魔になり、旋回中のエイペックスは目に入らない。ほとんど勘をよりどころに走行していたほどである。Aピラーやロールケージや、あるいはサイドミラーが視界を遮ることは常だ。だがそここそドライバーが特に目にしたいポイントである。

かつてTOYOTA GAZOO Racingのニュルブルクリンク24時間仕様のレクサスLFAには、スケルトンAピラーならぬ、光の屈折ミラーを装着していた。Aピラーの内側に数枚の鏡を取り付ける。光の屈折を利用して、本来ドライバーの視点からは確認できないはずの実像を、光の道筋を変えることで目に届けるのである。
正直にいって、対象物をはっきり認識できるほどの精度ではなかった。だが、ブラインドコーナーばかりのニュルブルクリンクでは、コーナリング中に突如としてペースの劣るマシンが迫っていたり、停止車両に遭遇することがある。死角がその認識を遅らせ、追突する危険性を高める。そんな環境では、対象物を正確に認識する必要はなく、「何かがそこにある」ことさえわかればいいのである。その意味では、TOYOTA GAZOO Racingが開発した、通称「光の屈折ミラー」は効果的だった。

ロールケージだらけのレーシングマシンは、後方視界も絶望的である。ロールケージがあるばかりか、給油のための配管やホースなどが複雑に絡み合っており、死角だらけなのである。そもそもリヤウインドゥは精度の高いガラスなどではなく、アクリルの板のような素材だから、像が屈曲している。まして背後にエンジンを搭載するミッドシップマシンならば、視界はゼロに等しいのである。どんなに大きなバックミラーを取り付けても、見えないものは見えない。反射を利用する鏡の限界である。
だから現代では、モニターがミラーの代用となる。乗用車に取り付けられているバックモニターの応用である。その映像を頼りに背後を確認するのである。
やはりTOYOTA GAZOO Racingでは、ニュルブルクリンク24時間参戦マシンに、デジタルバックミラーを装着していた。その数年後に市販化され、これから普及され始めるであろうそれを、開発テストの一環として装着していたのである。
鏡と画像では、遠視点との近視点の違いがあり、瞳の焦点を合わせるのに戸惑いを生む。だが、絶望的な視界であることを思えば、ずいぶんと助かるのである。現在では、バックモニター未装着のGTマシンは存在していないのではなかろうか。それほど普及した。

忍者のような技で…

レーシングマシンの視界が悪いことを利用したドライビングをすることがある。
ライバルを追い抜こうと画策する。ストレートで並びかけ、イン側からブレーキング勝負で先行するのは正攻法だが、そう簡単にライバルが許してくれるはずもなく、抜きあぐねていたとする。そんな時、ライバルの死角に潜り込むことがある。いわゆる、クウォーターサイドの、バックミラーにもサイドミラーにも映らない絶妙な死角で追走することで、敵を撹乱するのである。白バイが獲物を誘い込むときの手法に似ていなくもない。デジタルのモニターが普及したことで、その姑息な技が生かされることは少なくなかったけれど、技の一つとして残されている。

豪雨の岡山国際サーキット、スタート直後で忍びのような技を使ったドライバーがいた。昼間だというのに薄暮のように暗かった。空からは大粒の雨が降り注いでいた。そんな悪コンディションでのスタート、全車が巻き上げる水煙で視界は限られていた。
スタート直後、僕は懸命にライバルの動きを探っていた。サイドミラーを見ると、水煙の中に小さなライトを確認できた。後続のライバルがイン側から抜こうとしている意思が予想された。そしてブレーキングを開始、その瞬間、ライバルが消えたのである。ハッとした。慌ててライバルの動きを探ろうとした。その瞬間、逆サイドのアウト側から僕に並びかけてきた。そう、彼はブレーキングのその瞬間、僕がイン側に注意を払っていることに気づき、自らのライトを消灯し、逆にアウト側に回り込んだのである。

あえて自らの存在を晒すこともある。特に、複数のマシンが交錯する混戦では、自らのポジションニングを意識させることで、無益なクラッシュを避けることがある。「僕はここにいますから…」それも生き残るための意思表示である。公道での安全運転の応用だ。

閑話休題。
そう、京セラが開発した「スケルトンボディ」はいわばパーチャル3D映像なのだが、モータースポーツでも武器になると思う。
以前レクサスで、デジタルサンバイザーの開発を企画した。サンバイザーにデジタルでの情報を浮かび上がらせることで、ライバルより早く数秒前の情報を得ようという試みだ。残念ながらその企画はお蔵入りとなったものの、今回の京セラが開発したスケルトンボディの内容を確認して、かつての試作を思い出した。ぜひ今年のニュルブルクリンク24時間でテストしてみたいと思う。

キノシタの近況

脱炭素化の潮流は激しい。だがその一方で、内燃機関の魅力も捨てがたい。電動化と化石燃料の、喫水域に僕らは生きている。今日は内燃機関の権化でサーキット走行。これも楽しい。