レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

289LAP2021.4.7

秘技公開、今だから話せるスタートの裏技

スタートの瞬間に、ほぼ勝負の行方が決まるスポーツは少なくない。先手必勝、試合を有利に進めるには、敵の機先を制するのが肝心である。例えば相撲。立ち合いの一瞬で有利不利が決定する。レスリングなどの格闘技は、有利な組み手を得た方がゲームを支配する。あれほど複雑で長時間に及ぶ将棋でさえ、初の一手に悩むことがあるという。レースの世界も同様で、スタートを制することがその後の展開を有利にすることに疑いはない。スタートを得意とする木下隆之が、かつて実行していた門外不出の裏技を紹介する。

スタートが勝敗を左右する

競技では、スタートが肝心である。おおかたのスポーツにおいて、スタートダッシュがゲームを支配することが少なくない。もちろんレースにおいてもそれは同様で、スタート後の1コーナーを制することが最優先。そのために有利なグリッドを得ようと、熾烈な予選が行われるのだ。
昔から僕は、スタートが得意だった。かつてFJを戦っていた頃、予選タイムが6番手以内、つまりスタートグリッドで3列目までに並んでいれば、たいがい1コーナーにはトップで進入することができた。スタートが得意というだけで、ステップアップをしてきたように思う。たとえ予選タイムがうまく整わなくても、それなりの順位で決勝を走り終えるのだから、スタートテクニックにことさら執着するのも道理であろう。

当時は今のようなハイテクの時代ではなかったから、スタートの良し悪しはドライバーの力量に全て委ねられていた。トラクションコントロールももちろんない。特にスタンディングスタートの場合、クラッチミートのタイミングが重要であり、ミートの瞬間のエンジン回転数やギアの選択、もちろんクラッチペダルの微妙な踏み加減がスタートダッシュを左右した。
スタート時のエンジン回転は6000rpmキープがいいのか6100rpmキープがベストなのか、わずか100rpmに拘った。最大馬力を発する回転数をキープするために、半クラッチ状態を維持した方が得策なのか、あるいはパワーゾーンを外したとしても、早めにクラッチミートをしてフルにパワーを伝達した方がいいのか悩んだものだ。
1速発進ではなく2速でスタートした方が速い場合もあった。
というように、試行錯誤を繰り返していたのだ。

姑息なアイデアが舞い降りてきた

そんな中、ちょっと裏技を使ったことがある。今だから白状できる技である。最近はスタンディングスタートをする機会がなく、ならばそろそろ秘策を公開してもいい頃だろうとの思いもある(笑)
富士スピードウェイでのこと。僕は有利にスタートダッシュを決めるために、僕らのレースが開催される前日に行われていたサポートレースのスタートを観察していた。スタートシグナルがどのタイミングで赤からブルーになるのかを(昔はブラックアウトではなかった)、見極めるためである。
スタートの合図には、その日のスタート担当者の癖が表れる。フォーメーションラップを終え、全車がグリッドに停車。全てのマシンが整列したのを確認してから赤シグナルが点灯。そこから数秒以内にブルーシグナルが点灯する。その空白の、ためのような時間は何秒間なのか、人によって癖があるからだ。

サポートの数レースを観察しているうちに、ある独特の癖に気がついた。スターターが、ブルーシグナルを点灯させる直前に、右の肩が動くことを知ったのだ。
当時のスタート&ゴールポストは、今のように個室のようにはなっておらず、雨ざらしの簡易な箱のようなしつらえだった。サインガードから細い梯子を登るとそこに鉄製のレバーがあり、それを倒すことでブルーシグナルが点灯するしかけだ。その鉄製のレバーは錆による腐食で動きが悪く、ヨイショとばかりに力を込めねばならなかった。そのためにスターターの肩が動いたのである。
その時僕は手を打った。

前日の夕方、つまりは土曜日の暗くなった時間。まだチームは翌日の決勝レースに備えて、入念にマシン整備に集中している時間帯にスタート&ゴールポストによじ登った。そして携えたスパナで、そのレバーの付け根のすでに錆び付いていたボルトをちょっとだけ強く締めたのである。つまり、さらに強い力でレバーを倒さなければシグナルが点灯できないように細工をしたわけである。
これでもう、裏技を紹介したも同然であろう。
決勝レース、グリッドに停止した僕は、正面のシグナルではなくスターターの右の肩に注目していた。肩が動いた。その瞬間にクラッチミートをした…。悠々とトップで1コーナーに進入したことは言うまでもない。つまりは姑息な手段である。臆面もなくこの卑怯な技を公開する気になった自分が恥ずかしい(笑)

スタートに求められる能力は?

それにしても競技のスタートとは不思議なものである。レースのスタートは視覚からの情報で決まる。競泳や陸上は、ピストルの音が合図だ。聴覚を研ぎ澄ます必要がある。競馬は開くゲートがスタートの瞬間であり、パラリンピックの聴覚や視覚障害の競技は、背中を叩くことを合図とすることがある。
相撲は相手との微妙な呼吸である。テニスや卓球はサーバーのタイミングに委ねられる。野球もプレーボールの音、ピッチャーがスターターの役割をする。競技によって、求められる要素は異なるのだ。
ちなみに、世界選手権レベルの陸上競技では、ピストルの音が合図ではあるものの、「パン」というあの音はピストルから発せられているわけではなく、スピーカーから流されているそうだ。国際規格のレーンの幅は1.22mである。つまり、1レーンと8レーンでは約10mとの距離の差がある。音の伝達速度は約340m/1秒。それから計算すると、8レーンの選手は1レーンの選手より0.03秒遅くピストルの音を聞くことになる。100分の一秒を競っている陸上競技ではその差は無視できない。そのため、レーンによっての不利有利がないように細工されているそうだ。
というように、プロアスリートには些細な違いが選手生命を脅かす。ましてやスタートが勝敗を大きく左右するレースとなれば、こだわりが求められるのである。
スタートレバーにスパナを当てただけでステップアップした僕がいうのだから、説得力もあろう。

キノシタの近況

新型86とBRZが発表されましたね。TOYOTA86はGR86と改名されました。一卵性双生児だけど、走りのキャラはずいぶんと異なるようですよ。発売開始は今年の秋口だそうです。楽しみです。