レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

386LAP2025.04.23

「ニュルブルクリンク半地下生活日誌:その理由と、その先にあるもの」

今年もニュルブルクリンク挑戦のために、半地下アパートで生活を続ける木下隆之。その気持ちを紹介します。

ドイツの田舎町に「根を下ろす」

2024年、ニュルブルクリンク耐久シリーズへのフル参戦が決まったとき、私はある決心をしました。レースごとに日本とドイツを行き来するのではなく、ドイツに拠点を置こうと。

選んだのは、サーキットから車で50kmほど離れた小さな町。その町の名前を聞いて、首をかしげるドイツ人もいるでしょう。典型的な「ドイツの田舎」で、澄み切った空気、穏やかな景色、そして時間はゆっくり流れています。
数軒のスーパーマーケット、家族経営のベーカリー、そして夕方には閉まってしまうカフェ。小学生を乗せたスクールバスを見かけるたび、「あぁ、町にはまだ希望がある」と安心します。

私は、その町の片隅にある一軒家の「半地下アパート」を借りました。といっても日本の“地下”とはニュアンスが違う。窓から日差しも差し込むし、カビ臭さも皆無。キッチンとバス・トイレ付きのワンルームで、いわゆる“ワンオペ生活”です。
大家さん一家はフレンドリーで、「困ったことがあったら、すぐ連絡してね」と、まるで親戚のよう。居候感があるのもまた、心地よい。ドイツではこういった部屋の貸し方はわりと一般的で、学生や転勤者がよく利用しています。

もちろん、観光気分の短期参戦であれば、サーキット近郊のホテルを利用する手もあります。ですが、私の性格には合いません。ホテル暮らしは便利なようでいて、自由が効かないからです。
たとえば、食事。部屋でリラックスしているときは、上半身裸で短パン姿なのですが、着替えてレストランに降りるというのが、とにかく面倒。しかもレストランは開いている時間が決まっていて、食事のタイミングが合わないと、一晩飢えにあえぐ羽目になります。

加えて、ホテル食では体調管理がしにくい。ドイツ飯は美味しい、でも重い。ソーセージにポテトに、バターが香るパン。3日も食べれば胃が「ご勘弁を」と悲鳴を上げる。
僕は大谷翔平選手のようにストイックではありませんが、レース前後はタンパク質や炭水化物のバランスを意識しています。だから、自炊が必須。そしてキッチン付きの部屋が絶対条件なのです。

貧乏レーサー、半地下に住む

最大の理由? もちろん、節約です。そう、金欠なんです。ニュルブルクリンク耐久シリーズは全8戦。毎戦ごとに日本との往復をしていたら、渡航費だけでかなりの出費になります。
日独間の直行便はJAL、ANA、そしてルフトハンザ。この御三家はどれも高級路線。安く済ませようとすると、東南アジアや中国経由のフライトになりますが、乗り継ぎが長く、空港での「無」の時間が発生します。時には乗り継ぎ7時間。それは修行ですね。

しかも、最近はロシア上空を避けて飛ぶ関係で、直行便でも14時間超え。乗り継ぎ込みだと、片道20〜25時間もかかることも。移動だけでこんなに時間とエネルギーを浪費するくらいなら、いっそドイツに腰を据えてしまえ、と。

そんなわけで、半地下生活が始まったのです。生活費を抑え、移動のストレスを減らす。合理的? ええ、でも一番の理由は、他にあるんです。

ドイツの空を読むために

実のところ、節約は副次的な理由です。現地に住むことを決めたのは、ニュルブルクリンクを、そしてアイフェル地方の気候を「肌で知りたかった」からです。

アイフェル地方は、ドイツの中でも特に気象の変化が激しいエリアです。標高は平均で600〜700m。丘陵地帯で、風の通り道が複雑です。朝は快晴、昼には曇り、午後には土砂降り、夕方にはまた晴れる――そんな「一日で四季が感じられる」ような日も珍しくありません。しかも雨粒が落ちてきたと思ったら、次の瞬間にはヒョウに変わる。なんて気まぐれな空だ、と嘆く暇すらないのが、ニュルの空模様です。

ドライバーにとって天候は、敵であり、味方であり、そして試練でもあります。気温が2〜3℃違えば、タイヤのグリップは激変します。スリックで行くか、ウエットに賭けるか、判断を間違えれば、順位どころか、マシンを失うことも。

数年前、晴れの中を走っていたら、突如としてヒョウが降り始めたことがありました。その瞬間、多くのマシンが次々にクラッシュ。まるで“氷のデスマッチ”でした。
僕は運良く回避できましたが、そのとき思ったのです。「この天候の急変を予測できた人間がいたのではないか?」と。

日本でも、富士スピードウェイでは、富士山の山頂にかかる雲から天候を読むことができます。山頂の東側に雲がかかれば、低気圧の接近。西側なら逆に晴れ。これは現地に通う者ならではの「暗黙の予報」です。

鈴鹿でも、伊勢湾側の雲の動きや風の匂いで「やばいぞ、来るぞ」と感じ取ることがあります。これは、気象衛星ではなく“感覚衛星”で読み取るデータです。

つまり、生活していないと、分からない。毎日同じ空を見て、同じ風を肌で感じるからこそ、読み取れるものがある。観光気分で参戦しているドライバーが気づけない兆しも、そこに暮らしている者には見えるのです。

ニュルブルクリンクという呼吸

だから僕は、ドイツのこの町で生活することにしました。窓を開けて空を眺め、空気の湿り気を感じ、風の向きを感じる。今日の雲の流れが、週末のレースにどう影響するのか。
“読む”のではなく、“感じる”。その積み重ねが、最後の1秒の差を生むのではないかと、そう信じているのです。

半地下アパートの朝は早い。パンを焼く香りと、遠くの教会の鐘の音。ここで僕は、クルマと、自分と、そして空と、毎日静かに対話を重ねています。

こう思われる方もいるかもしれません。
「そこまでして、なぜ?」と。
なぜ半地下に住み、ドイツの片田舎に根を下ろし、厳しい気候に身をさらしてまで、走り続けるのか。何がそこまで僕を駆り立てるのかと。

答えは、シンプルです。
それは、僕が――僕の人生が、ニュルブルクリンクという場所に、恋をしてしまったからです。

ニュルブルクリンク。

世界最長のサーキットにして、最も過酷な舞台。全長20.832km、コーナー数170以上。山を縫うようにして敷かれたコースには、高低差300メートルを超えるセクションもあり、気候は瞬時に豹変し、ドライバーに牙を剥きます。完璧など存在しないコース。ほんの一瞬の油断、あるいは運命のいたずらが、すべてを終わらせてしまう。

でもだからこそ、僕はこのコースを愛してしまったのです。ここでは、嘘がつけない。テクニックも、準備も、集中力も、すべてが試される。自分がどこまで通用するのかを、問答無用で突きつけてくる。 そのために、ここで生きることを選びました。

生活のすべてをレースに向けています。食事も、睡眠も、トレーニングも、そして空の色を読むことすら――すべてはニュルブルクリンクで、1秒でも速く走るための布石です。
楽しいか、と聞かれれば、それはもう楽しい。苦しいか、と聞かれれば、それもまた事実。けれど、この“すべてが意味を持つ感覚”こそが、僕に生きているという実感を与えてくれるのです。

だから、僕はここにいます。
アイフェルの山のふもとの、半地下の小さな部屋から、ニュルブルクリンクを見上げる。そしてまた、エンジンに火を入れるのです。今年も、ニュルブルクリンク参戦は6月に開催される24時間レースまでの予定ではありますが、半地下アパートで生活をしながら走り続けます。

応援よろしくお願いします。

キノシタの近況

ニュルブルクリンク参戦のためのご支援を募っています。目標額は400万円であり、最終期限は4月23日、つまりこのコラムがアップされる日までです。ですが、もし目標額に達していれば、さらに締切日を延長することが叶います。

応援よろしくお願いしますね。

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