レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

407LAP2026.03.11

「レーシングドライバーは超人なのか」

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックを眺めながら、ふと考えたことがある。あの氷上や雪上で舞うアスリートたちが、超人であることに疑いはない。では、サーキットを300km/hで走るレーシングドライバーはどうなのか。かつては、命知らず、超人、そう思われていた。だが、クルマの進化はそのイメージを大きく変えつつある。モータースポーツは今、静かに姿を変え始めている。

人間は空を飛びたがる

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックの余韻が、まだ頭のどこかに残っている。

数々の感動を与えてくれたとともに、氷の上を滑り、空中で回転し、そして寸分の狂いもなく着地するその妙技に驚かされたのだ。

フィギュアスケートのトリプルアクセルなどを見ると、思わず「ほんとうに人間なのか」と呟きたくなる。スノーボードのトリプルコーク1440にしても、同じ驚きである。空中で回りながらボードをつかみ、何事もなかったかのように着地する。おそらく前世は猫か鳥だったのではないか。そう思いたくなるほどの妙技だったのだ。

もちろん、その裏には途方もない努力があることに疑いはない。しかし同時に、持って生まれた才能がなければ辿り着けない世界であることも間違いない。努力すれば誰でも夢は描けるけれど、誰にでもそれが達成できるとは限らないのである。おそらくDNAの奥深くに刻まれた何かが、あの動きを可能にしているのだろう。

いくらトレーニングを積んでも、僕にはあのフィギュアスケートのジャンプはできないと思う。そもそも、スケート靴を履いた時点で転ぶ未来しか見えない。まして飛ぶなんて、飛びながら回るなんて…。

だからこそ、人はそういう“超人技”に惹かれる。自分にはできないからこそ、憧れるのだ。

少し前まで、モータースポーツもまた、そんな“超人の世界”だと思われていた。爆音を轟かせ、誰もが踏み込めない速度でバトルを演じるなど、超人でなくては不可能なドライビングだと思われていたに違いないのだ。ただ・・・。

何km/h出したんですか?

レーシングドライバーをしていると、よく聞かれる質問がある。

「最高で何km/h出したことがありますか?」

これはもう、ほぼ100%聞かれること。レーシングドライバーが超高速で走る職業であるからこそ抱く、素朴な疑問であろう。

ただし僕は、そう質問されるたびに少しだけ悩む。

ニュルブルクリンクのストレートで、LEXUS LF-Aを駆ったときに309km/hを記録した。サーキットでの最高速はその数字だが、果たしてこれが、その質問をくださった方が期待する答えなのかと躊躇してしまうのだ。

昔なら、この数字を言った瞬間に「ええええ!?」と驚かれたものだが、ところが最近は違うような気がする。

というのも、理由は単純だ。クルマが速くなりすぎたのである。300km/hは軽はずみに出せない数字だと思うけれど、超人的な速度ではないように感じるのだ。

ポルシェでもフェラーリでも、最近のスーパーカーは300km/hを出せる。条件が整えば、プロドライバーでなくてもその世界を覗くことができる。つまり、かつてレーシングドライバーだけの特権だった速度域が、今では市販車の性能の中に含まれてしまったのだ。300km/hという数字が、もはや“伝説”ではなくなっている。

やや誇張するならば、誰もが2回転ルッツができる時代に「トリプルアクセル」を語るように、309km/hの数字が、日常に溶け込んでいるのではないかと思うのだ。

そう考えると、レーシングドライバーの“超人感”は、少しずつ薄れてきているのかもしれない。

クルマはどんどん優しくなる

ではなぜ、そんな時代になったのか。

答えはシンプルで、クルマが劇的に進化したからである。

数十年前、レーシングドライバーは「命知らず」と呼ばれていた。それは決して大げさではない。当時のレーシングカーは、今と比べるとまるで獰猛な野生動物だった。
速いが、気難しい。扱いを間違えると、すぐに牙をむく。実際に、わずかなコントロールミスで大クラッシュに陥ることも珍しくはなかった。

そもそもパワーステアリングなどなく、エアコンももちろんない。ステアリングは重く、ドライバーは酷暑の中で耐えなければならなかった。意識朦朧としつつ、戦うレースも少なくなかった。

ブレーキを強く踏めばロックするし、アクセルを雑に踏めばスピンする。だからこそ、ドライバーの腕がすべてだった。ところが今は、格段にドライビングはイージーになった。

パワーステアリングは当然装備されているし、ABSも常識的な機能だ。トラクションコントロールもある。電子制御が、ドライビングをずいぶん優しくしてくれた。ブレーキのロックを防ぎ、タイヤの空転を抑え、クルマの挙動を安定させる。つまり、かつてプロの腕に頼っていた部分を、クルマ自身が補ってくれるようになったのだ。

これは、レースの世界に大きな影響を与えている。

たとえば、GAZOO Racingが主催する「GR86/BRZ Cup」「Yaris Cup」。こうしたワンメイクレースは、ビギナーでも参加できるカテゴリーである。メーカーが、レースを始めるための環境を整えてくれている。クルマの性能が進化したからこそ、こうしたレースが成立していると思う。

つまりモータースポーツは、少しずつ“開かれた世界”になってきているのである。

レースはプロだけのものではない

この流れは、さらに上のカテゴリーにも広がっている。

FIA規定のGT3やGT4マシンは、世界中で人気を集めている。これらのマシンは高性能だが、同時に扱いやすさも重視されている。だからジェントルマンドライバー、つまりプロではないドライバーでも参戦できる時代になった。

SUPER GTのGT300クラスにも、そうしたドライバーがいる。本業は経営者だったり医師だったりする人たちだ。それでも時には、プロ顔負けの走りを見せる。

もちろんプロの技術は特別だ。しかしクルマの完成度が高いからこそ、ジェントルマンドライバーでもレースが成立する。これはモータースポーツにとって、とても健全な流れだと思う。

レースは、観るだけのものではない。参加してこそ面白い。その入り口が確実に広がりつつあるようだ。

BMW M2 Racingという象徴

その流れを象徴する一台がある。BMWの「BMW M2 Racing」がそれだ。

このマシンは、BMW M Motorsportが開発したコンプリートカーで、世界各地でワンメイクレースが予定されている。日本ではBMW & MINI Racingに参戦可能だ。

BMW M MotorsportディーラーであるToto BMWが販売をしており、つまり、レース用マシンはごく特殊なレーシングチームだけが扱える代物、というのは過去の話になったのだ。

それでもスーパー耐久に出走することもできる。ST3クラスに該当する。

興味深いのはエンジンである。

従来、このカテゴリーで人気を誇ったBMW M2 CS Racingは直列6気筒3リッターターボを搭載していた。ところが、名称をBMW M2 Racingに改めた新型は直列4気筒2リッターターボが積まれることになったのである。つまりダウンサイジングである。

最高出力は313ps。最大トルク426Nm。数字だけ見ると控えめだが、狙いはそこではない。

実は僕は、旧型のBMW M2 CS Racingで、ニュルブルクリンク24時間や富士24時間に参戦した経験がある。

最高速度はおよそ280km/h。だが、ドライビングは驚くほど安定していた。長時間走っても疲労が少ない。耐久性も高い。そしてジェントルマンドライバーでも、かなり速いペースで走れる。新型BMW M2 Racingは、さらに扱いやすくなっているという。しかも2025年のニュルブルクリンク24時間耐久レースでは、旧型より速いタイムを記録している。

パワーを増やすのではなく、扱いやすさを磨く。その結果、速くなる。これは現代のレーシングカー開発の考え方を象徴しているのだ。

超人でなくても夢は走る

こうして見ると、モータースポーツは確実に変わってきている。かつてのように、「レーシングドライバー=命知らず」という時代ではない。

もちろん、トップカテゴリーの世界は依然として厳しい。だがサーキットそのものは、ずっと身近な場所になっているのである。

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックのアスリートのように、空中で回転することは誰にでもできることではない。だがサーキットなら、プロドライバーの専売特許だった300km/hの世界を覗くことができるのである。

少しトレーニングをして、少し勇気を出せば、誰でもスタートラインに立てる。

アクセルを踏み込む。エンジンが吠える。ストレートが伸びていく。その瞬間、人は少しだけ自由になる。超人でなくてもいい。普通の人間でも、夢は走らせることができる。これがモータースポーツという文化の、いちばん素敵なところなのだと思う。

キノシタの近況

ニュルブルクリンクに参戦するためにクラウドファンディングで支援を募ってますが、おかげさまで開始から10日経過時点で(3月5日時点)、60名のかたからサポートをいただいています。参戦には700万円ほどが必要ですが、早くも120万円を超える資金が集まっています。とはいうものの、プロジェクト成立までは先です。ぜひご支援をよろしくお願いします。
https://readyfor.jp/projects/168144 >