卓越したドライビングテクニックと強い心を有し
ラリーで勝利の栄光を手にしたドライバーは
数多くいます。
その中から、とりわけ傑出した活躍により
人々の心に強い印象を残した10名を
選出してご紹介します。
Ove Anderssonオベ・アンダーソン
- 1938年1月3日生まれ、スウェーデン出身
- 1971年 FIA国際ラリー自動車メーカー選手権ベストドライバー
- PHOTO1966年 アクロポリス・ラリー/ランチア・フルビア HF
WRC創設前の国際ラリーチャンピオン
トヨタのかつての公式チームであるトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)。同チームを設立し、トヨタのWRC活動の立役者となったことで知られるオベ・アンダーソンは、1973年にWRCが創設される前の時代から国際的に活躍したラリードライバーでした。
アンダーソンがラリーにドライバーとして出場するようになったのは彼が20歳を過ぎた頃でした。やがて頭角を現すと、1963年にはミニ・クーパー Sのワークスマシンの貸与を受けるほどになり、1964年からは母国の自動車メーカーであったサーブの契約ドライバーとして活動します。そして1966年にはランチアのワークスチームに加入。ランチア・フルビア HFを駆って、同年のラリー・モンテカルロでは3位に。1967年には、モンテカルロとアクロポリス・ラリー(ギリシャ)で2位、ラリー・スペインでは初の国際ラリーでの総合優勝を飾りました。
1968年から1970年にかけてのアンダーソンはフォードの契約ドライバーとしてフォード・エスコート・ツインカムでラリーを戦い、上位フィニッシュを繰り返しました。そんな彼に目をつけたのが、ルノー製エンジンを搭載するスポーツカーのメーカーであったアルピーヌで、同社に起用されたアンダーソンは1971年の国際ラリー6戦にアルピーヌ・ルノー A110 1600で出場。ラリー・モンテカルロ、ラリー・サンレモ(イタリア)、オーストリア・アルパイン・ラリー、アクロポリス・ラリーというメジャーイベント4戦で優勝を飾り、FIA国際ラリー自動車メーカー選手権におけるアルピーヌのタイトル獲得に大きく貢献しました。
- PHOTO1971年 ラリー・モンテカルロ/アルピーヌ・ルノー A110 1600(写真右がアンダーソン、左はコ・ドライバーのデビッド・ストーン)
WRCの前身であるFIA国際ラリー自動車メーカー選手権にドライバーズタイトルの設定はなく、それが設けられていたなら1971年のチャンピオンはアンダーソンでした。そんなドライバーが、翌1972年11月のRACラリー(現ラリー・グレートブリテン)からトヨタに乗ることになりました。それは、アンダーソン、そしてヨーロッパではまだマイナーな存在であった当時のトヨタの双方にとって一大転機であり、その後のTTEの設立やトヨタのWRC制覇へと向かう大いなる物語の出発点となったのでした。
(その後の活躍は、vol.10「トヨタで活躍したラリードライバーたち」をご覧ください)
Björn Waldegårdビヨルン・ワルデガルド
- 1943年11月12日生まれ、スウェーデン出身
- 1979年 WRCチャンピオン
- PHOTO1976年 WRC第2戦 スウェディッシュ・ラリー/ランチア・ストラトス HF(車内向かって右がワルデガルド、左はコ・ドライバーのハンス・トーゼリウス)
あらゆる路面とマシンで速さを見せた初代WRC王者
1973年に創設されたWRCですが、当初設けられていたのはマニュファクチャラー選手権のみ。ドライバー選手権が制定されたのは1979年のことでした。その1979年のドライバー選手権を制し、初代のWRCチャンピオンに輝いたのがビヨルン・ワルデガルドでした。
ワルデガルドは1960年代半ばから国際的に活躍したラリードライバーです。1967年から1971年にかけてはポルシェのワークスドライバーとして活動。1969年のラリー・モンテカルロではポルシェ 911 Sを駆って国際ラリーで初めての総合優勝を果たしました。やがて彼はラリーに取り組む自動車メーカーから引っ張りだこの存在となり、1年のうちに3〜4社もの異なるメーカーから請われて彼らのワークスマシンを次々にドライブするという状態に。1972年から1975年にかけての4年間でワルデガルドは、ポルシェ、シトロエン、フィアット、BMW、ランチア、そしてトヨタと6社もの自動車メーカーの様々な車両を走らせ、職人的な仕事ぶりを見せたのでした。
1976年のワルデガルドのシートはランチアワークスに固定され、ランチア・ストラトス HFでWRCを戦いました。しかし、ラリー・サンレモにおいて、チームメイトであったイタリア人ドライバーのサンドロ・ムナーリに勝利を譲るべしとしたチームオーダーを出され、このことに怒りを抱いたワルデガルドはランチアを離脱。次戦であった同年のWRC最終戦RACラリーからフォードワークスで走り、1979年にはフォード・エスコート RS1800で2勝を挙げて初代のWRCチャンピオンに輝きました。
- PHOTO1979年 WRC第2戦 スウェディッシュ・ラリー/フォード・エスコート RS1800
1980年、ワルデガルドは、同社としては初めてWRCタイトル獲得に意欲を燃やしたメルセデス・ベンツでの活動に主軸を置き、ラリー仕様のフル装備状態で2トン近くの車重と言われたメルセデス 450 SLC/500 SLCで6戦のWRCイベントに出場。耐久色の濃いアイボリーコースト・ラリーで優勝を飾ってみせました。しかし、メルセデス・ベンツのWRC活動はそこまで。ワルデガルドは、同郷の先輩ドライバーであるオベ・アンダーソンの誘いに応じ、1980年の秋からトヨタ・チーム・ヨーロッパのレギュラードライバーを務めるのでした。
(その後の活躍は、vol.10「トヨタで活躍したラリードライバーたち」をご覧ください)
Shekhar Mehtaシェッカー・メッタ
- 1945年6月20日生まれ、ウガンダ出身
- 1973、1979〜1982年 サファリ・ラリー優勝
- PHOTO1980年 WRC第12戦 アイボリーコースト・ラリー/日産 バイオレット 160J(写真右端の眼鏡の人物がメッタ)
サファリ・ラリー通算5勝、日産の黄金時代の立役者
トヨタがTA64型セリカ・ツインカムターボを送り出してアフリカを席巻する前の時代、サファリ・ラリーの盟主として君臨していた自動車メーカーは日産自動車であり、同社のラリーカーで活躍した代表的なドライバーがシェッカー・メッタでした。
メッタは、インドからウガンダに移民しプランテーション事業で財を成した家庭に1945年に生まれました。そして彼が7歳のときに、ケニア、ウガンダ、タンザニアの3カ国をまたぐルートでサファリ・ラリーが行われるようになりました。東アフリカにおける一大スポーツイベントとなったこのラリーに、少年時代のメッタが関心を寄せたのは自然なことでした。そして1966年、21歳のときにメッタはラリー競技への参加を開始。どんどん速さを身に付け、1968年にはサファリ・ラリーへの初出場を果たします。1970年には、彼の速さに目をつけた日産に起用され、フェアレディ 240Zで出場した1971年大会では2位、やはり240Zを駆った1973年大会では初の優勝を飾りました。
そんなメッタのサファリ・ラリーにおける真の黄金時代は1970年代末に訪れました。日産が1978年にデビューさせたPA10型バイオレット 160Jは、当時においても決してパワフルではなかった2ℓ自然吸気のSOHCエンジンを搭載するFR車でしたが、優れた操縦性能と堅牢さによって様々なラリーで活躍。同車でメッタは、1979年のサファリでは2位に48分もの大差をつける圧勝を飾り、1980年大会でもやはり30分を超えるリードを築いて優勝をもぎ取りました。そして、新たにDOHCエンジンを搭載し、従来のグループ2仕様からグループ4仕様に変わったPA10型バイオレット GTが登場すると、メッタは同車によって1981年大会、1982年大会と連覇。サファリ・ラリーで4年連続優勝という快挙を成し遂げ、悪路とハイスピードに強いタフなラリードライバーとしての名声を確立しました。
- PHOTO1982年 WRC第4戦 サファリ・ラリー/日産 バイオレット GT
ただし、1980年代の後半にはスバルのワークスマシンがひとりのプライベーターの手によりWRCに出場していたケースがありました。ニュージーランド人ドライバーのポッ1983年からWRCがグループB時代に入ると日産もメッタも勝機を得られなくなりました。1986年のサファリ・ラリーでは、メッタはチャンピオンチームであるプジョーから出場しましたが、当時のWRCで最強を誇ったプジョー 205ターボ16もサファリの悪路には歯が立たず8位に終わる結果に。また、やはりプジョーから出場したクロスカントリーラリーのファラオ・ラリーでは九死に一生を得る大クラッシュを喫しました。
そして1987年、メッタは日産に戻り、3ℓの自然吸気エンジンを搭載したFR車の日産 200SXを駆りました。サファリではトラブルによりリタイア。しかし、アイボリーコースト・ラリーでは2位に入賞。そして、同ラリーをもってメッタはラリードライバーとしてのキャリアを終了させることとしました。
その後のメッタは、人望の厚い人柄や調整能力の高さが買われ、FIA(国際自動車連盟)においてラリーに関わる要職を歴任。1997年にはFIAラリー委員会の委員長となり、世界のラリーの安全性や競技の公正性などの向上に尽力しました。また。2000年代初頭に日本でのWRCイベント開催の動きが活発化した際には様々な協力や支援を行い、2004年に実現したWRCラリー・ジャパンの開催にも大きく貢献しました。
Ari Vatanenアリ・バタネン
- 1952年4月27日生まれ、フィンランド出身
- 1981年 WRCチャンピオン
- PHOTO1976年 インターナショナル・ウェルシュ・ラリー(写真左がバタネン、右はコ・ドライバーのピーター・ブライアント)
勝利とクラッシュが紙一重だったスピードキング
コーナーへの進入速度は総じて高め。仮に速度が少し高すぎたとしても、一旦コーナリングを開始した後はブレーキは使わず、ドリフトの角度を調整することでスピードをコントロールする。そんなドライビングスタイルで疾走したアリ・バタネンは、勝利とクラッシュを分けるものが紙一重のドライバーでしたが、1981年にはWRCチャンピオンの座をつかみ取りました。
バタネンが自動車メーカーとの契約を初めて得たのは1975年、23歳のときでした。契約先はフォードで、1979年まで同社のワークスドライバーとして走りました。ただし、当時のフォードはWRCをシリーズで追うよりイギリスの国内ラリー選手権やヨーロッパ・ラリー選手権の主要イベントに勝つことを重視していました。そのため、バタネンの活動もそれに沿ったものとなり、WRCへの出場はずっと限定的でした。例外は1977年で、彼はフォード・エスコート RS1800で8戦のWRCイベントに出場しました。ところが、実に7戦でリタイア。唯一完走したサウス・パシフィック・ラリー(ニュージーランド)で2位に入り、速さがあることは示しました。
フォードは1979年をもってラリーにおけるワークス活動を一旦休止することになり、バタネンはプライベートチームであるデビッド・サットン・カーズで活動を続けることになりました。ただし、ドライブする車両は引き続きワークス仕様のフォード・エスコート RS1800でした。そして1981年、この2ℓ自然吸気エンジン搭載のFR車を駆り、バタネンは自身2度目となるWRCへのシリーズ参戦を実施。4WDシステムとターボエンジンを備えたアウディ・クワトロがこの年デビューして猛威を奮う中、アクロポリス・ラリー、ラリー・オブ・ブラジル、そして1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)で勝利を挙げ、最終戦RACラリーでの2位入賞によってポイント逆転を果たしてWRCチャンピオンに輝きました。それはまた、プライベートチームによってWRCタイトルが獲得されるという初めての快挙でもありました。
- PHOTO1981年 WRC第6戦 アクロポリス・ラリー/フォード・エスコート RS1800
1984年、バタネンはこの年からWRCへの挑戦を開始したプジョーに加入。最終的にはグループB時代の最強マシンとなったミッドシップ4WD車のプジョー 205ターボ16を駆ります。そして同年のシーズン終盤には出場した3戦のWRCイベントのすべてで優勝。明くる1985年も開幕2連勝を飾り、2度目のWRCチャンピオンを視界に捉えました。しかし、ラリー・アルゼンティーナで200km/h近くの速度での大クラッシュに見舞われ、バタネンは選手生命の危機にさらされるほどの重傷を負うことに。そのため彼は同年の後半戦とグループB時代の最終年となった1986年は一切のラリーに出場できずに終わりました。
治療とリハビリは18カ月にも及びましたが、バタネンは1987年にラリーへの復帰を果たしました。そのときから彼はパリ〜ダカール・ラリーに毎年出場するようになり、プジョーから参戦した1987年から1991年までの5大会のうち4大会で総合優勝を飾りました。また、アメリカで毎年開催されているパイクスピーク・ヒルクライムの1987年大会にやはりプジョーから出場し、初挑戦にしてコースレコードを叩き出して優勝しました。一方、WRCには、1988年のシーズン終盤から1990年までは三菱、1991年終盤から1993年まではスバルより参戦。このフィンランド人が両社のワークスチームに在籍した期間は、三菱にしてもスバルにしてもWRCの頂点に挑むひとつ手前の段階にあった時期であり、双方のレベルアップに大きく貢献したドライバーがバタネンでした。
なお、バタネンはラリードライバーとして第一線にあった頃から政治に関心を寄せた人でもありました。そして1999年には欧州議会の議員に選出され、約10年にわたって主に自動車に関連する様々な政治活動を行いました。
Michèle Moutonミシェル・ムートン
- 1951年6月23日生まれ、フランス出身
- WRC通算4勝、1982年 WRCドライバーズランキング2位
- PHOTO1983年 WRC開幕戦 ラリー・モンテカルロ
王座にも迫った史上唯一のWRC優勝女性ドライバー
2019年現在に至るまで、WRCで総合優勝を飾った女性ドライバーはひとりしかいません。それがミシェル・ムートンです。過去にも現在にもそれなりの数の女性ドライバーが世界各地のラリーに参加していますが、自動車メーカーのワークスチームと契約し、トップカテゴリーのワークスマシンを駆ってWRCで優勝を手にした者はムートンのみ。それも一度や二度ではなく、通算4勝に及びます。無論、それらの勝利は男性ドライバーに対してハンディなしの戦いで得られたものです。
ムートンは香水作りの町として知られるフランスのグラースに生まれ、運転免許取得可能年齢に達する前から父親のクルマを運転して走り回るという少女時代を送りました。そして1973年、22歳のときにドライバーとして本格的にラリー活動を開始。フランス国内選手権やヨーロッパ選手権のラリーで何度も優勝を飾り、男性ドライバーと同じ条件で互角以上に走る女性ドライバーとして注目を集め続けました。
そんな彼女に目をつけたのが、1980年にパーマネント4WDの乗用車 クワトロを発売し、同車によるラリー活動を新たに始めようとしていたアウディでした。同社と契約したムートンは、1981年は8戦のWRCイベントにアウディ・クワトロで出場。グラベルとターマックの双方の路面のスペシャルステージが設定されていたラリー・サンレモでは、同年のWRCドライバーズタイトルを獲得するアリ・バタネンとの一騎討ちを見事に制してWRC初優勝を飾りました。
- PHOTO1981年 WRC第10戦 ラリー・サンレモ/アウディ・クワトロ
史上初のWRC優勝女性ドライバーとなったムートンの勢いは1982年にさらに加速します。彼女はアウディ・クワトロで11戦のWRCイベントに出場し、ラリー・ポルトガル、アクロポリス・ラリー、ラリー・オブ・ブラジルの3戦で優勝。史上初の女性WRCチャンピオンの栄誉に迫りました。最終的にはタイトル獲得はなりませんでしたが、同じマシンを駆ったハンヌ・ミッコラをはじめとする多数の男性ドライバーを抑えてドライバー選手権2位の座を勝ち取ったムートンの評価は一段と高いものになりました。
1983年には初めて挑んだサファリ・ラリーで3位に入るなど、ムートンは奮闘を続けました。ただし、1984年と1985年はアウディの方針によってラリー出場の機会が減り、1986年にムートンはプジョーへ移籍。WRCには2戦のみの出場で、同年の彼女はドイツ国内ラリー選手権を主戦場とし、プジョー 205ターボ16を駆って見事にタイトルを獲得しました。しかしながら、同年5月のツール・ド・コルス(フランス)においてヘンリ・トイボネンが事故死し、尖鋭化しすぎたグループB車両のWRCでの使用は同年限りとされることが決まったことを受け、ここが潮時と判断したムートンはこの1986年をもって引退しました。
その後ムートンは、四輪/二輪を問わず様々なカテゴリーのモータースポーツで活躍するトップレベルの選手を世界中から招待し、スタジアムに設けた特設コースで同一条件の車両により競わせる「レース・オブ・チャンピオンズ」というイベントを主催。それは、友であったトイボネンの記憶をモータースポーツ界に残していきたいというムートンの思いも込められて企画されたものでした。また、ムートンは、2010年にFIA(国際自動車連盟)が新たに設立した女性モータースポーツ委員会の初代委員長に就任したほか、2011年からはFIAにおいてWRCに関わる様々な案件を検討し取りまとめるWRCマネージャーの要職を務めています。
Juha Kankkunenユハ・カンクネン
- 1959年4月2日生まれ、フィンランド出身
- 1986、1987、1991、1993年 WRCチャンピオン
- PHOTO1993年 WRC開幕戦 ラリー・モンテカルロ
WRCタイトル獲得4回、グループBとグループAの双方で戴冠
グループB時代とグループA時代の双方でWRCチャンピオンに輝いた唯一のドライバーがユハ・カンクネンです。自動車メーカーのワークスドライバーという立場を1983年にトヨタで初めて手に入れた彼は、TA64型セリカ・ツインカムターボで出場した1985年のサファリ・ラリーにおいてWRC初優勝をマーク。1986年にはプジョー 205ターボ16を駆って3勝を挙げ、過激であり続けたグループB時代の最後の年に自身初のWRCドライバーズタイトルを獲得しました。27歳での戴冠は当時の最年少記録でした。
- PHOTO1986年 WRC第6戦 アクロポリス・ラリー/プジョー 205 ターボ16 E2
WRCのトップカテゴリーがグループAに変わった1987年、カンクネンはランチアに移籍します。そして、ミキ・ビアジオンとマルク・アレンというふたりのチームメイトとの三つ巴の熾烈なチャンピオン争いを演じました。イタリアの自動車メーカーであるランチアはイタリア人のビアジオンが王者となることを望みましたが、カンクネンは真っ向勝負でチームメイトを打ち破ってグループA時代最初のWRCチャンピオンに。そして、2年連続でWRCドライバーズタイトル獲得を果たした初めてのドライバーとなりました。
それでもカンクネンはランチアに残ることはせず、古巣に戻ることを選びました。1988年と1989年の2シーズンを彼は再びトヨタで戦います。しかし、1988年のシーズン半ばにデビューしたST165型セリカ GT-FOURが当時の最強マシンであったランチア・デルタ HFインテグラーレに勝てるレベルに仕上がるには時間を要し、カンクネンはしばらく足踏みを余儀なくされました。また、1989年よりトヨタに加わったカルロス・サインツの台頭もあって、カンクネンは1990年にはランチアに再加入。そして、1991年にはトヨタのサインツとの白熱したタイトル争いを制し、当時の史上最多記録となる3度目のWRCチャンピオンに輝きました。
1993年、カンクネンはもう一度トヨタへの復帰を果たし、前年にサインツによってチャンピオンマシンとなったST185型セリカ GT-FOURをドライブしました。そしてカンクネンは同年に出場した10戦のWRCイベントのうち5戦で優勝するという速さと強さを見せ、自身の記録を更新する4度目のドライバーズタイトル獲得を果たしました。通算4度のWRCドライバー選手権制覇は、1999年にトミ・マキネン(現TOYOTA GAZOO Racing WRT代表)に並ばれるまでは単独の最多記録でした。
カンクネンは、1997年と1998年の2シーズンはフォードで戦い、1999年にはスバルに加入しました。10歳以上若いチームメイトのリチャード・バーンズはカンクネンに強い対抗意識を燃やしましたが、40歳になったカンクネンもそれに全力で応戦しました。そして、母国イベントのラリー・フィンランドでは一騎討ちとなったバーンズを9.4秒差で下し、カンクネンにとっては結果的に最後となったWRC優勝を飾って意地を示したのでした。
(その後の活躍は、vol.10「トヨタで活躍したラリードライバーたち」をご覧ください)
Carlos Sainzカルロス・サインツ
- 1962年4月12日生まれ、スペイン出身
- 1990、1992年 WRCチャンピオン
- PHOTO1987年 WRC第3戦 ラリー・ポルトガル
数字以上の実力と活躍。WRCに君臨し続けたカリスマ
16歳のときにスカッシュのスペインチャンピオンとなったカルロス・サインツは、そもそもはF1を目指してモータースポーツを始めたドライバーでした。サーキットレースに出場する一方で、スペインの国内ラリーにも参戦。そんなサインツの才能に目をつけたのはルノーでしたが、同社が彼に勧めたのはレースではなくラリーでした。
サインツは、サーキットレースばりの緻密なドライビングをラリーに持ち込み、めきめき頭角を現しました。まず注目されたのは舗装路イベントでの強さでしたが、サインツはグラベルでも素晴らしい速さを見せ、WRC初優勝は荒れたグラベルロードで知られたアクロポリス・ラリーの1990年大会で飾りました。また、同年には世界随一の高速グラベルイベントである1000湖ラリーでも優勝。北欧出身ではないドライバーとして初めて同ラリーの勝者となり、当時支配的であった「南欧出身のドライバーはグラベルでの速さがそれほどでない」という見方を覆しました。
WRC初優勝を果たし、1000湖ラリーも制した1990年において、サインツはST165型セリカ GT-FOURに乗って計4勝を挙げてドライバー選手権を制覇。日本車を駆った初めてのWRCチャンピオンとなりました。また、スペイン人初のWRC王者となり、母国ではカリスマ的な人気を得ました。そして、ST185型セリカ GT-FOURで戦った1992年には、同年はランチアに在籍していたユハ・カンクネンと熾烈なチャンピオン争いを展開。シーズン終盤を迎えた時点ではカンクネンにポイントでリードされていたものの、最後の2戦を立て続けに制して逆転、2度目の王座に就きました。
1993年のサインツはワークス活動休止後のランチアのワークスマシンを走らせたプライベートチームのジョリークラブからWRCに参戦し、その後はスバル→フォード→再びトヨタ→再びフォード→シトロエンとワークスチームを渡り歩きながら勝利を重ねていきました。そして、3度目のタイトルに何度も目前にまで迫りましたが、それを手にすることはなく終わりました。スバルで戦った1994年には、シリーズ最終戦RACラリーでそのまま走り切りさえすれば王座獲得という状況にあったところで、ペースノートに記した指示速度がわずかに高すぎたためにコースアウトを喫してリタイア。トヨタ・カローラ WRCを駆った1998年も同様で、やはりイギリスでのシリーズ最終戦の最終ステージのフィニッシュまで残り300mというところでエンジンブローによりリタイアの憂き目に。勝負に"たられば"はないとはいえ、実際の倍の数のドライバーズタイトルを手にしていても不思議でなかったのがサインツの実力でした。
- PHOTO1998年 WRC最終戦 ラリー・オブ・グレートブリテン/トヨタ・カローラ WRC
そんな彼がWRCをレギュラーで戦ったのはシトロエンに在籍した2004年が最後でしたが、42歳になっていたサインツはサバイバル戦の様相を呈した同年のラリー・アルゼンティーナを制して通算26勝目をマーク。これが彼にとって最後のWRC優勝となりました。しかし、WRCを去った後もサインツがヘルメットを置くことはありませんでした。今度は戦場をダカール・ラリーに移し、フォルクスワーゲンで戦った2010年大会で同ラリーを初制覇。さらには、プジョーから参戦した2018年大会で2度目のダカール・ラリー優勝を飾り、50代後半を迎えた2019年現在も第一線のラリードライバーとして活躍を続けています。
(その後の活躍は、vol.10「トヨタで活躍したラリードライバーたち」をご覧ください)
Colin McRaeコリン・マクレー
- 1968年8月5日生まれ、イギリス出身
- 1995年 WRCチャンピオン
- PHOTO1998年 WRC第6戦 ツール・ド・コルス
攻撃的な走りを貫いた希代のスプリンター
WRC優勝回数25回、WRCドライバーズタイトル獲得回数1回。これらの数字を上回るドライバーは何名もいますが、人気においてかなう者はほとんどいません。そんな不世出のラリードライバーがコリン・マクレーです。
マクレーの人気の一番の理由は、ひたすら攻撃的であった走りにあります。減速し切らぬうちに車両をドリフト状態に持ち込んでオーバースピード気味にコーナーへ突っ込み、深いドリフトアングルで速度をコントロール。瞬間的な荷重移動によって車両の姿勢を自在に変化させ、たとえ片輪走行の状態となってもスロットルペダルを戻すことなく全開で駆け抜けていく。そんなスタイルを貫きました。
イギリス国内ラリー選手権で何度もチャンピオンに輝いたジミー・マクレーの長男として1968年に誕生したマクレーは、自動車の運転免許の取得可能年齢に達する前から四輪競技への参加を始め、そのアグレッシブなドライビングによってすぐに注目される存在となりました。プロフェッショナルのラリードライバーとなったのは1991年、22歳のときで、スバルのワークスチームと契約。同年と翌1992年のイギリス選手権を制して2年連続でチャンピオンとなりました。
マクレーは1992年にスバルのWRCチームに引き上げられ、1998年まで六連星をシンボルとする日本車メーカーの顔となるドライバーとして活躍しました。WRC初優勝は1993年のラリー・オブ・ニュージーランドにおいて飾りましたが、それはスバルのWRC初優勝でもありました。また、1995年にマクレーはWRCをシリーズで制し、ドライバーズタイトルを獲得。それもまた、スバルにとって初めての世界タイトルでした。
- PHOTO1995年 WRC第2戦 スウェディッシュ・ラリー/スバル・インプレッサ WRX
1996年以降もマクレーは毎年チャンピオン争いを演じました。1999年には新天地を求めてフォードへ移籍し、2002年まで在籍した間にもWRCで何度も優勝を果たします。しかし、2度目のタイトルにはついに手が届きませんでした。そして2003年にはシトロエンに加入しましたが予想外に奮わず、WRCへのレギュラー参戦はここまでとなりました。
2000年代に入り、ラリーは路面がグラベルであってもタイヤがスリップすることによるロスを極力排した高効率ドライビングが要求される時代になりました。マクレーの走り方はその対極にあるものと見なされ、時代遅れの烙印が押されたかのようでした。しかし、それで終わる彼ではありませんでした。世界タイトル獲得から10年後の2005年、マクレーはチェコの自動車メーカーであるシュコダからの依頼でラリー・グレートブリテンとラリー・オーストラリアに出場します。そして後者では、それまでは6位がベストリザルトだったシュコダ・ファビア WRCを駆って2位を走行してみせ、彼のドライビングがなおも通用することを証明しました。最終的には、3本のスペシャルステージを残すばかりとなったところでクラッチトラブルによりリタイアを余儀なくされましたが、マクレーはキャリアの最後に韋駄天ぶりを改めて見せつけたのでした。
Tommi Mäkinenトミ・マキネン
- 1964年6月26日生まれ、フィンランド出身
- 1996〜1999年 WRCチャンピオン
- PHOTO1995年 WRC第2戦 スウェディッシュ・ラリー
苦労を経て1990年代後半のWRCを制し続けたフライングフィン
1990年代後半も、WRCには優勝を狙える競争力を持ったマシンに乗るトップドライバーが数多くひしめいていました。そんな中にあってWRC史上初の4年連続ドライバーズタイトル獲得という偉業を成し遂げたのがトミ・マキネンです。同時期の彼は三菱 ランサーエボリューションに乗ってあらゆるタイプの路面のラリーで速さを見せ、WRCの頂点に君臨し続けました。
マキネンはキャリアの初期からその速さによって注目されたドライバーでしたが、WRCでチャンピオンを争う立場を手にするまでには少し時間がかかりました。ラリーを始めたのは1985年、21歳のとき。WRCに初めて出場したのは1987年で、舞台はもちろん、彼の地元で開催されている1000湖ラリーでした。やがてマキネンはフィンランドの有志による若手ラリードライバー支援組織のサポートを受けられるようになり、1990年には5戦のWRCイベントにグループN仕様の三菱 ギャランVR-4で出場して、3戦でグループNカテゴリー優勝をさらいました。
それでもマキネンはWRCをシリーズで追うような活動計画は得られずに1991年を迎えましたが、同シーズンの半ばにマツダからオファーを受けて2戦のWRCイベントにファミリア 4WDで出場。これがマキネンにとって初めてのワークスマシン経験でした。明くる1992年、今度は日産がマキネンの才能を買い、投入2年目であったパルサー GTI-Rのドライバーとして起用します。しかし、同年の日産のWRC活動は限定的で、マキネンの出場は4戦にとどまり、そして同年をもって日産はトップカテゴリーでのWRC活動を終了。1993年をマキネンは半浪人状態で過ごしました。
1994年になると、2輪駆動車を対象としたカテゴリーでラリー活動を再開させた日産から依頼され、マキネンはFF車のパルサー GTIを駆って4戦のWRCイベントに出場しました。その一方で、シーズン半ばに開催される母国イベントの1000湖ラリーには、その一戦のみでの起用ながらフォードワークスより参戦。エスコート RSコスワースを駆って並み居るレギュラードライバーをすべて下し、衝撃的な形でWRC初優勝を飾りました。
この勝利を足がかりに、マキネンは三菱自動車との契約を獲得。トップカテゴリーのワークスマシンのレギュラーシートを1995年についに得ました。マキネンは30歳になっていました。そして、三菱からのレギュラー参戦も2年目となった1996年にはWRC全9戦のうち5戦で勝利を挙げるという圧倒的な強さを見せ、その先にまだ2戦を残した段階で初のドライバーズタイトル獲得を決定。同時に、断続的ながら長年WRCに挑み続けてきた三菱に初の世界タイトルをもたらしました。そして、1997年は4勝、1998年は5勝、1999年は3勝と、マキネンは多数のライバルたちを向こうに回しながら勝利を重ね続け、いずれの年においてもチャンピオンに輝き、4年連続でWRCドライバー選手権を制するという史上初の快挙を達成したのでした。
- PHOTO1999年 WRC開幕戦 ラリー・モンテカルロ/三菱 ランサーエボリューションⅥ(写真右がマキネン、左はコ・ドライバーのリスト・マニセンマキ)
2000年と2001年もマキネンは三菱で戦い、この2シーズンでさらに4勝を挙げました。そして2002年には新たな可能性を求めてスバルに移籍。その初戦であったラリー・モンテカルロを制し、同イベント4年連続優勝を飾りました。しかし、その後は思うように結果を残せないラリーが続き、マキネンは2003年をもってWRC参戦を終えることを決断。引退試合となった同年の最終戦ラリー・グレートブリテンは3位でフィニッシュし、最後まで速さを示しながら現役生活を終えました。
引退後のマキネンはトミ・マキネン・レーシング(TMR)を設立し、独立チームとしてのラリー活動を展開しました。そしてTMR設立から10年が経った2014年にトヨタ自動車の社長である豊田章男との出会いがありました。意気投合し、豊田から全幅の信頼を得たマキネンは、2017年からトヨタが再開させることになったWRC活動におけるマシン開発とチーム運営を任されることに。かくして、伝説のWRCチャンピオンドライバーであるマキネンは現在のトヨタの公式チームであるTOYOTA GAZOO Racing WRTのチーム代表となり、トヨタのWRC活動を力強く牽引しています。
Sébastien Loebセバスチャン・ローブ
- 1974年2月26日生まれ、フランス出身
- 2004〜2012年 WRCチャンピオン
- PHOTO2004年 WRC第5戦 キプロス・ラリー
数々の記録を塗り替えたWRC最多勝&最多戴冠ドライバー
2000年代に入るとWRCには、マシンを横滑りさせるドリフト走法を主体に走っていては勝てない時代がやって来ました。ドリフト走法はいかにも全力で走っているように見えますが、タイヤのグリップ力を限界まで使うことなく滑らせているため、旋回速度は決して限界レベルにはない、というわけです。そこで、たとえ路面がグラベルであってもタイヤを滑らせず、グリップ力の限界ぎりぎりのところを使い続けながらコーナリングし、ドリフト走法より格段に高い旋回速度を実現させる走り方が求められるようになりました。グリップ力の限界をひとたび超えればドリフト走法よりずっと高い速度でコーナーから振り飛ばされてしまう、というリスクがともなう走り方です。そして、そんな綱渡りのようなドライビングを最も高いレベルで完成させたドライバーがセバスチャン・ローブでした。
両親が教師であったローブは、体育学の教授であった父親の勧めから少年時代は体操競技に打ち込みました。一方、当時から興味を持ったラリーに関しては自力で道を切り拓いていくしかなく、さりとて資金もコネクションも持たないことから、ローブは一旦は電気工事の技師として働きました。そうした中で彼は若手ラリードライバー発掘オーディションに参加。そこで見せた光る走りがフランスのモータースポーツ雑誌に取り上げられ、そしてラリーにデビューするチャンスをつかみました。1997年のことでした。
比較的遅い23歳でのラリーデビューとなったローブですが、そこから先の展開は早く、2年後の1999年にはシトロエン・サクソのワンメイクラリーシリーズでチャンピオンに。2000年には、フランス自動車モータースポーツ連盟(FFSA)が実施した次世代フランス人WRCドライバー育成プロジェクトの対象者となり、FFSAが用意したトヨタ・カローラ WRCに乗って2戦のWRCイベントに出場。トップカテゴリーのラリーカーはおろか4WDの車両もドライブするのはこのときが初めてだったにもかかわらず、ツール・ド・コルスでは9位、ラリー・サンレモでは10位という上々な成績をきちんと残して評価を高めました。そして、同年末にはシトロエンと契約。ローブはラリーを始めてから4年目にしてプロフェッショナルのドライバーとなりました。
2001年、ローブはWRCに新たに設けられたFIAスーパー1600ラリー選手権(2002年からはFIAジュニア世界ラリー選手権として開催)にシトロエン・サクソ・スーパー1600で参戦。圧倒的な強さでチャンピオンに輝くと、同年のラリー・サンレモにはシトロエンワークスのワールドラリーカーであったクサラ WRCで出場、いきなり優勝争いを演じたすえに2位という結果を出します。そして2002年にはワールドラリーカーをレギュラーで駆る立場をつかみました。同年のシトロエンの活動は限定的で、WRC全14戦のうち9戦にのみ出場するものでしたが、その初戦であったラリー・モンテカルロにおいてローブは同ラリーを3連覇中であったトミ・マキネンとの一騎討ちを制して首位でフィニッシュ。チームが犯した些細なミスによってローブの優勝は取り消されるという不運がありましたが、同年のシーズン半ばのラリー・ドイツにおいて文句なしの勝利を飾り、彼の正式なWRC初優勝がここで記録されました。
2003年、ローブは初めてのWRCフル参戦を行い、開幕戦ラリー・モンテカルロで今度は文句なしの優勝を飾って前年大会の雪辱を果たすと、さらにラリー・ドイツとラリー・サンレモで優勝。チームメイトとしてカルロス・サインツとコリン・マクレーがいるという状況でしたが、ローブは同じマシンを駆るふたりの元王者を上回る速さを示し続けました。そして、最後はスバルのペター・ソルベルグとのチャンピオン争いとなりましたが、わずか1点差で敗れてドライバー選手権2位となりました。
ローブが苦杯を嘗めたのはここまででした。2003年の時点ではライバルにつけ入る隙を与えることもあったグラベルにおいても、2004年には、タイヤのグリップ力の限界付近を使い続けながら、限界を超えて破綻をきたすことのないドライビングを完成させ、同年には6戦のWRCイベントで優勝して初のWRCチャンピオンに。その後はライバルたちを圧倒し続け、2012年まで9年連続でWRCの頂点に立ち続けました。その間、ローブは猛烈なペースで勝ち星を量産。毎年5戦以上のラリーで優勝し、4戦のみのスポット参戦にとどめながらさらに2勝を挙げた2013年を終えた段階で、彼はWRCで通算78勝も飾っていました。もちろん歴代最多の勝数で、それも突出した記録でした。
- PHOTO2012年 WRC第11戦 ラリー・ド・フランス/シトロエン DS3 WRC(車上の向かって右がローブ、左はコ・ドライバーのダニエル・エレナ)
前人未到の記録である9回目のWRCドライバーズタイトル獲得を果たした2012年をもってローブはWRCへのレギュラー参戦を一旦終えることとしました。彼はサーキットレースでも速く、ル・マン24時間には2005年と2006年にトップカテゴリー車両で挑戦し、2006年大会では2位に入っていました。そして、WRC活動を一旦終えたローブは、今度はFIA世界ツーリングカー選手権に参戦。2014年と2015年の両シーズンでドライバーズランキング3位に入る活躍を見せました。また、ダカール・ラリーにも2016年から毎年参戦し、2017年大会では2位、2019年大会では3位でフィニッシュ。さらに、2016年から2018年にかけてはFIA世界ラリークロス選手権に参戦しましたが、こちらでは思うほどの結果は残せませんでした。
そのように様々なモータースポーツカテゴリーへの挑戦を経て、2018年にローブは久々に複数のWRCイベントに古巣のシトロエンから出場しました。ブランクを感じさせないパフォーマンスを見せ、ラリー・スペインではレギュラードライバーたちを破って5年ぶりのWRC優勝を飾り、WRC通算優勝回数を79に伸ばしました。
そして2019年、ローブは再びWRCに正面から取り組むこととしました。長年在籍したシトロエンおよびプジョーのPSAグループを離れ、ヒュンダイに加入。WRCの数々の記録を塗り替えてきた男は、2019年2月には45歳になった現在も第一線で戦う現役ドライバーとして大いなる存在感を放ち続けています。