世界にはいろいろなレースがある。最高峰はF1というのが一般的だが、アメリカ人はそう思っていない。40万人集まるインディ500こそ世界一だと譲らないし、フランス人はルマン24時間こそ、と言う。どれが世界一かはこの際おいておくとして、それぞれに共通して言えることがある。マシン作りは言うまでもないが、レースの見せ方に至るまで、“創意と工夫にあふれている”ということと、整頓が行き届いている、ということだ。
F1GPは、別名“整理整頓世界選手権”と呼ばれる。聞いたことがない?それもそのはず、私が言ってるだけだからだ(笑)。が、これは我ながら名言と思う。
廊下は走るなとは教わったが、パドックも走ってはいけなかった。
マクラーレンのビジネスでディベロッパーという肩書を持つ友人から面白い話を聞いた。彼が、マクラーレンに入った1990年頃、マクラーレンのメインスポンサー(マクラーレンではスポンサーといわずに“パートナー”と呼ぶ。その理由はいずれまた)はマールボロだった。プロスト&セナ時代の当時に限らず、マールボロのチームウェアはいわば憧れ。そのウェアを着て、意気揚々とパドックを走り回っていた友人は、チーム代表のロン・デニスに呼び止められこう言われた。「このウェアを着たら、絶対に走るな。」
友人は、意味がわからなかった。張り切って一生懸命走っていたのに。しかし、R .デニスの言うことは目からうろこだった。「これを着ていると、慌てて走っているのはオマエではなくてパートナーになる。協力してもらっているパートナーのイメージを落としてはいけない。」
話を聞いたこちらも目からうろこだった。これを読んでるアナタも、フムフムなるほど、と思ったことだろう。ここにもF1の特殊性が隠れている。それは、徹底的にかっこよくなければならない、という思想が根付いている、ということだ。だが実はF1に限らず、すべてのモーターレーシングは、この思考回路の根底にあるべきものだと思う。
走ってはいけないと言われた友人は考えた。走ることがパートナーのイメージダウンにつながるなら、走らない工夫が必要だ。答えは簡単に出た。周到な準備をしておけばいいだけのこと。余裕があるなら走る必要はない。
そういえば、F1のパドックで走っている人をみかけることはまずない。それは、それぞれが周到な準備をしてそこに臨んでいるからだ。だから、整理整頓世界選手権なのだ。これが、F1がモーターレーシングの最高峰と言われる所以である。一番金がかかるからでも、最高のテクノロジーを使っているからでもなく、“トコトン整理整頓を追求しているから”だ。その競争の結果として、自動車レースは、だから綺麗だしカッコいいのだ。
美しいマシンが速い本当の理由。
今シーズン、ロータスがF1に復活する。オールドファンにとって“ロータス”は、コリン・チャップマンという代表者にしてテクニカルディレクターだった奇才の名前と共に琴線に響く。中でも黒に金のストライプ(実は、写真写りを想定して金ではなくて黄土色だったが、これも周到な準備のひとつ)の“JPSロータス”は独特の哀愁を持っている。何を古い話を、とお思いにならずにしばしおつきあいを。
1970年代終盤、カメラマンのオフィスで写真選びをしていた。ポジフィルムをルーペで覗きながら“やっぱりJPSカラーはきれいですねぇ”としたり顔でつぶやいたら、背後から写真を撮った間瀬明さんが静かに言った。「山ちゃん、だから現場に来なくちゃだめだと言ってるんだよ。」頭の中に????があふれた。「さすが、よく見ているね」と褒めてもらえると思ったのに。だが、理由は明確だった。「調子によって美しさが違う」からだ。
セッション開始に備えて準備をする。サスペンションのセッティングやエンジンのウォームアップ、タイヤのチェックなど、走行開始前にやるべき作業のなかで、一番最後に回されるのがワックスがけになる。ワックスをかけなくても走れるからだ。つまり、ワックスが綺麗にかけられているということは、準備が万端整っている、ということになる。同じJPSロータスでも、美しいのは調子のいいとき。要するに、周到な準備があって初めてマシンが美しくなり、そういうマシンは、だから速いことを、間瀬さんは教えてくれた。
モーターレーシングは、自動車という複雑な機械を使って競争する。そこで競っているのは、テクノロジーだけでなく、資金力だけでなく、いかに整理能力が高いか、そしてそのための創意と工夫ができているか、なのだ。周到に準備がされたものは気分がいい。観客(アナタも私も)が見たいのはそういう世界だ。
美しいのは、クルマだけではない。
バーニー・エクレストンという人物がいる。F1のドンとして知られ、金の亡者などと揶揄される。しかし、それは一面的な見方で、ある意味やっかみでしかない。バーニーさんは確かに金儲けは相当お上手と思う(貯金通帳を覗いたことがあるわけではないのでね)が、それ以上に、F1という舞台のイメージを上げるために見事な気遣いをしている。
たとえば、日本のレースとF1のレースには、パドックに限っても大きな違いがある。日本のレースの場合、関係者ならパドックの中まで愛車を乗り付けられる。だがF1のパドックに駐車できるクルマは、マシンを運ぶトランスポーターと、招待客を接待するモーターホームだけであり、それ以外のクルマと言えば、バーニー・エクレストンのショーファードリブンのメルセデスただ1台だけ。
チーム監督であろうがドライバーであろうが、スポンサーであろうが、パドックに隣接してはいるものの、パドックエリアの外の駐車場にクルマを停める。なぜ?パドックはクルマを乗り付ける場所ではなく、レースのために作業する場所だからだ。エクレストンだと誰も文句を言わないのは、そういうポジションだからだ。
こんな光景も見られる。F1会場の駐車場にクルマを停めた関係者は、サーキットによって異なるが、500mほどの距離をシャトルバスか徒歩でパドックに向かうのだが、その道沿いにマシンを運んだトレーラーのヘッドが、それはそれは見事に整列していたりする。そこを横目で見ながら会場入りすれば、“やっぱりF1は凄い世界だワイ”と思わずにいられない。この整列をチェックし、徹底しているのが、誰あろうバーニー・エクレストンなのである。F1という“商品”のイメージアップが大切なことを知って徹底している、ということだ。
ちなみに、2007年に富士スピードウェイで行なわれた日本GPを目前にして入場者予測を確認したエクレストンは、一部の特設スタンドを撤去させている。客の入りが少ないところをテレビに写さないためだ。徹底したクォリティコントロールに隙はない。
日本では、レースに限らず、政治の世界でも、総体を俯瞰で見渡すこうした思考回路があまり大切にされず、レーシングコースのパドックは、目を覆いたくなる部分がある。キャンギャルが幅を利かせていることを言っているのではない。それはそれで少しは恥ずかしがる感性も必要だが、マシンを運ぶトランスポーターの中が汚なすぎ。プレスルームのリリースの並べ方まで目を光らせるエクレストンなら、絶対に許さない惨状だ。
残念ながら日本には、バーニーさんのように俯瞰から見渡すポジション自体が存在しない。日本が、世界が驚く戦後の復興を実現したのは、“みんなで力を合せる”という素晴らしい思考回路を日本人が持っていたからだ。しかし、そのやり方は、責任者不在、という欠点を持つ。やったのは“みんな”、だから総体として観る、という視点を持つのが得意な人がいない。意見を言うと文句と取られ、会議中に黙っていたのに終了後に“さっきのはさぁ”って、だったら会議の中で言えってのに、そういうことをしない奥ゆかしさが日本人のいいところだったりするからさらにややこしい。
さて、話を戻そう。創意と工夫が重要なのがレースなら、そのパーツやマシンを運ぶトレーラーやピットは美しくなければならないのは当たり前だ。チーム関係者の気分がよくなって、邪魔なものがないから作業の効率が上がり、結果としてドラマチックなレースが展開するだけではない。スポンサー候補がパドックやピットを訪れたとき、整然と並ぶ美しいパーツと、油まみれの汚れたピットやトレーラー。どちらがいいか考えるまでもないだろう。テクノロジーを競うモーターレーシングなら、綺麗にしておくのはチームにとってある種の義務だが、同時に、綺麗な状況を見せる権利も持っているということだ。
トラックの中を綺麗にするのは金がかかる?それは誤解だ。机の上が乱雑な私が言っても説得力はないが、掃除には金はかからない。要は、美しくなければならない、という思考回路を持つこと。日本のレースの今後は、こうした基本的なところから“創意工夫”を思い至らせることができるかどうか。案外ここが重要なポイントになりそうな気がする。
【編集部より】
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- 1951年神奈川県相模湖町のキャンプ場を経営する自動車好きの父親の長男として生まれる。
1977年に自動車レース専門誌編集部員に。1987年に日本GPが鈴鹿に移り、中嶋悟氏が日本人初のF1ドライバーとしてデビューしたのをキッカケに、世界初のF1速報誌『GPX』を発明・創刊し、編集長に。1996年に独立して有限会社MY'S代表となる。
現在、マガジン/WEB/MOBILEを融合した立体メディア[STINGER]の編集長として、F1を皮切りに、モーターレーシング全体をファンと一緒に楽しむ媒体を構築すべく奮闘中。